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【コンサートミニレポ#2】ニッポニカが満員にならないこんな世の中じゃ―オーケストラ・ニッポニカ第43回演奏会【林光《流れ》(1973)まわりみち解説(わきみちγ)】

2023年に11月22日に開催されたオーケストラ・ニッポニカ第43回演奏会のミニレポです。林光の第三交響曲が含まれているため、このnoteとしては、林光《流れ》の解説連載とミニレポの二枚看板という建付けとなります。読者には関係ないことですが…。
なお、《流れ》の連載はいいかげん今年中には完結させる予定です。というか、完成させなければならない外圧が都合よくできたので。
(見出し画像は一昨日乗ったAIRDOのロコンジェット。AIRDOが好きすぎる。ほたてスープも美味しいし)


第43回演奏会 社会への眼差し 概要

2023年11月12日(日)14時30分開演 
紀尾井ホール
池辺晋一郎 悲しみの森 オーケストラのために (1998)
吉松隆 鳥のシンフォニア(若き鳥たちに)(2009)
三善晃 谺つり星<チェロ協奏曲第2番>*(1996)
林光 第三交響曲<八月の正午に太陽は…>** (1990)

指揮:野平 一郎
チェロ*:横坂 源
ソプラノ**:竹多 倫子
管弦楽:オーケストラ・ニッポニカ

ニッポニカと出会った昨年7月

オーケストラ・ニッポニカがこの日本という国において最も失われてはならないオーケストラであると私が確信したのは、2022年7月の第40回演奏会でのことであった。そのときのプログラムは古関裕而、早坂文雄、そしてニッポニカの正式名称にその名が刻まれている芥川也寸志。当時は朝の連続テレビ小説「エール」の影響を受けて古関を聴きに行ったのだと思うが、とにかく早坂と芥川の音楽に震えたのだった。そんなことを思い出す。
第41回、第42回は卒論や帰省と被って行けなかったので、2回目のニッポニカということになる。今回もプログラムがあまりにいいので、今年一番のコンサートと意気込んでしまった。まあちょっとさすがに期待しすぎたかなという反省もあるけれど、それでも素晴らしいコンサートであったことに違いはない。吉松作品と林作品だけ少しコメントします。もちろん池辺作品、三善作品も興味深かったですよ。

吉松隆 鳥のシンフォニア(若き鳥たちに)(2009)

前半2曲目に置かれた生誕70年の吉松隆による「番号なし」の交響曲。仙台ジュニアオーケストラの委嘱作品というだけあって、子どもたちがこれを演奏するのは非常に楽しいだろうと思う。私はピアノしか弾けないので想像でしかないけれど……。作風としては折衷的で、鳴りがよく、構成が単純明快。というジュニアオケには利点でしかないようなポイントが、ニッポニカで演奏されるときに勿体ないという感情を惹き起こさないでもない。しかし、他の3曲がわりと地味なので、こういう楽しい作品が一つあるのは観客にとってもうれしい。

林光 第三交響曲<八月の正午に太陽は…> (1990)

林光は今回のテーマ「社会への眼差し」に最もよく馴染む作曲家である。実際にこの作品は1989年の天安門事件に着想しており、五四運動(1919年5月4日)と四五天安門事件(1976年4月5日)に基づく5+4ないし4+5のリズムが繰り返し登場する。さらに、作風は明らかにショスタコーヴィチに寄せており、その政治的意図は明らかである。そのうえ第3楽章は歌を含んでおり、その歌詞は中国の詩人ベイ・ダオ(北島)の詩の林による自由な翻訳となっている。と書いただけでも、「社会への眼差し」要素が満載なのだが、これだけ盛り込みながらひとつの音楽にまとめあげてしまう手腕はさすがのものである。私が林光についていつも思うことがある。それは「正解を出してしまう作曲家なのだ」ということ。つねに書かれるべきことが書かれ、鳴らされるべき音が鳴らされる。的確で、踏み外さない。もちろんこれは単なる「肌感覚」の話なのだけれど、そういうところに私は惹かれ、また不満を持ったりもする。
この作品についていえば、やはりその「正解」に対する不満ということになってしまうかもしれないのだが、肝である第3楽章に問題があるように思われた。林光の交響曲に歌が入り込むのは、彼が「うた」=ソングの作曲家としてすでに認められていたことからして当然の成り行きであるように思える。ついでに言えば、「社会への眼差し」とテクスト/言語(が音楽に入り込むこと)が密接に関連している。問題なのはその第3楽章に間延び感があることで、まあそれもレクイエムなのだから当然そうでなくてはならない(=正解)と言えばそうなのかもしれないけれど、交響曲にせっかく歌を入れてこれでは勿体ない!という気もしてしまう。せっかくなら林光らしい生き生きとしたソングを聴きたいと思ってはだめなのだろうか。あの《原爆小景》でさえ最後に「永遠のみどり」を付け加えた林光である。どんなソングも本質的に溌溂として希望的(これは曲調の問題ではない)であると思っている私にとっては物足りなく感じてしまう。
こう書いてみると、やっぱり「林光が書いた歌のある交響曲なんて凄いに違いない」とハードルを上げすぎて臨んだ人間の自業自得という感じもある。でもさ、期待しちゃうよこれは。もちろん全体としては非常に面白く、とくに1、2楽章は林光の才気が充分に発揮されているので、再びどこかのオーケストラが取り上げる価値は大いにある。

第44回演奏会もついハードルを上げすぎて……

次回のオーケストラ・ニッポニカの演奏会は2024年3月31日、場所はいつもの紀尾井ホール。プログラムはバルトーク《舞踏組曲》、小倉朗《ヴァイオリン協奏曲》《管弦楽のための舞踏組曲》、間宮芳生《オーケストラのための2つのタブロー’65》。いや、これは期待が高まってしまいますね。
バルトーク。ニッポニカの非邦人作品は第39回のバラキレフ以来。日本の作曲家に影響を与えた度合いとして、バルトークは最も大きい一人であることは間違いない。
そこに小倉朗の《舞踏組曲》を組み合わせてくるという洒落た構成も素晴らしい。本当はヴァイオリン協奏曲もバルトークと重ねたかったところだけれど、それはやりすぎでおしゃれじゃないですかね。
そして間宮芳生。旭川生まれ、青森育ちの間宮は本当の意味でバルトークの理解者と言えると私は思う。北海道出身者として私は主張したいのだが、バルトークの音楽は北方志向の心を傾かせる魅力がある。統計をとったわけではないけれど、北海道の作曲家にバルトーク・シンパサイザーは多い(早坂、助川、そして間宮……具体例が少なすぎるし、肝心の伊福部はバルトーク嫌いだったというし、「東洋のバルトーク」の異名をもつ大栗裕は関西人だ)。いずれにせよ、間宮の音楽にもバルトークのように北方志向の心を惹きつけるなにかがある。
第43回演奏会以上に親しみやすいプログラムであることは間違いなく、初心者向け。これは声を大にして言いたいのだが、オーケストラ・ニッポニカこそ初心者向けなのだ。自分と同じ国の人間が、せいぜい数十年前に作った、愉快な音楽をやってくれるのだから。
ニッポニカが満員にならない社会は間違っている。これが私なりのささやかな「社会への眼差し」である。

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