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光の哲学と暗黒の哲学

 厨ニ臭いタイトルですね。今回は、過度な単純化で悪名高い二元論で近現代の哲学を分類してみます。狙いは、現代思想へのおおよその道標を示すことです。

現代思想の適当な定義

 近代思想というのを適当にいうと、デカルト以降の合理主義からの科学的心理を素朴に信じていたところまでといえるでしょう。そして、近現代という中途半端な表現で言われるのは、いわば近代思想の自壊に向き合い、それへ反応した哲学です。そういう意味で、近代の終焉は現代の始まりなんですが、こうやって言葉にすると当たり前ちゃあ当たり前ですね。
 そして、現代思想について適当にいうと近代の終焉以降の哲学、なわけです。ま、いろんな言い方ができますけど、言語論的転回とか歴史的転回を経たものとか、あるいは構造主義以降みたいなイメージでだいたい間違ってないはずです。転回って、日本語としてはあんまり使いませんけど、単純な英語で「ターン」(が変わること)の訳なんですよ。

光と暗黒について

 啓蒙って、教科書にも載っている言葉ですけど、言葉そのものの意味は単純に「光」のことです。派生して、理性の光で、これまで素朴に信じられてきた非合理的なものとか偏見をかき消すって感じです。
 一方で、私が暗黒の哲学として分類したいのは、その光で消される闇(非合理性や偏見)のことではありません。光ルートじゃない哲学の系譜のようなものと思ってください。

光の哲学たち

 アリストテレス、デカルト、カント、フッサールといった流れの方ですね。特徴としては、それぞれのやり方で第一哲学(形而上学)であろうとし、理性を信頼していることです。分かりやすいように哲学者の個人名で書いていますが、彼ら個人というより、彼らの哲学(からの思考)と思ってください。そういう意味で光「の哲学」と書いています。
 理性の主体は個人……という言い方は実はトートロジー(同義語反復)で、主体という概念に様々な要素を前提させます。そもそも理性的であることとか、自律的(何かに強制されていない)こととか、そういう意味で自由とか。主体とは、ようするにまともに意思決定できる個人ということが言いたいんでしょう。あとは、そういう主体で構成された組織、共同体とかですね。

現代の常識は光ルートの産物

 こういったものは、現代に直接つながっています。現代の制度、常識、はてはエンタメ、ほとんど全てです。民主主義はもちろんですし、会社という組織もそう。オリンピックの聖火がギリシャから運ばれるのは、分かりやすい象徴でしょう。
 まさに、この光の下に現代に生きる私たちが構造的に抱える差別/排除があります。光あるところに闇あり、とはこのことでしょう。例えばオリンピック。広くはプロスポーツ。卓越性を競うものですが、商業主義(お金儲け)や大衆のエンタメの要素が入ってもまだなお、ガッツリ差別と排除の可視化です。ようは、身体的(あるいはメンタル含め)弱者は敗者ですし、集団競技では、状況によって個人は部品のパーツのように交換されます。メディアの取り上げ方も「美しすぎるアスリート」など、真善美が当然の前提になっています。いまでこそ、フェミニズム的な観点から、女性のアスリートをそういう風に報道することの違和感が(例えば当事者から)発せられるようになりましたが、そんなのは小さな声です。
 また、ここにお金が絡んでくることは当然と言えるでしょう。アリストテレスの補遺で説明しましたが、卓越性とは、拝金主義とイコールです。言葉とは面白いもので、「スポーツ選手」が「アスリート」に言い換えられるのですが、アスリートとは「賞金のために訓練する人」という意味です。
 アスリートが社会で重宝されるのは、そういう弱者には居場所がなく、能力の高い人が目指すのはお金、という社会だからです。真善美の基準がお金。そうでないものは本性に反する(不自然・例外・奇形)ものであり、悪く、醜い。
 さらに、自由な主体とは責任主体でもあります。よく権利と義務はセットと言われますが、それは光ルート限定なんですよ。これはとても大事なことなので、よく覚えておいてください。自律的な個人の行動規範として徳がいわれるのですが、徳とは、その原点からして、債務を返済する意志に基づく行動特性のことです。だから、権利といっても突き詰めれば個人の所有権のことです。そして、当然の結論として、そういう義務を果たせないとか、(精神的にを含め)責任を取れない個人は、主体に該当しないということになります。それは社会の一員の資格がないということです。これらは、難しい話ではなくて、さっきの排除の論理と同じです。
 なぜ一貫しているのかというと、個人、社会、といったものの定義。さらに社会の仕組みや会社の仕組み、エンタメに至るまで――つまり概念的な細部から、現実的な仕組みまで全てがそういう前提で回っているからです。「構造的に」と書いたのはそういうことです。一人の人間として差別や排除をなくすか、少なくしようと努力しても、この社会の一員であれば、厳密な意味では不可能だということです。
 光とは広がるものです。つまりあらゆるものを飲み込む。かつて、マスメディアのアンチになるはずだったインターネットは、もはや検閲システムとして機能しています。スポーツの排除性に対するアンチだったゲームの世界で、eスポーツに昇華していく様は、光のただ中にあって、絶望の闇に覗き込まれるかのようです。

身近な事例

 私たちの日常の素朴な差別/排除の例を挙げてみましょう。「見た目が9割」とか言って、顔とか仕草とか匂いとかの「非言語」の部分でコミュニケーションが決まるとか言いますよね。そしてそれが科学的なエビデンスで根拠付けられている。「たしかにそうだよねー」と思って聞くわけですけど、これ(科学に根拠付けられた「そうでないもの」の差別/排除)は、程度の問題で構造としてはナチズムの優生学と全く同じです。フランクフルト学派や、アーレントが言ったのは、こういう普通の人の常識とか、ちょっと意識高い系の人が(民主主義を通じて)ナチに加担するということです。この例が、大げさに言っているだけではないことは、読者ならお分かりいただけると思います。
 かといってですよ。容姿を褒めたりすることはいけないとか極端なことは言いませんよ。たまに、あるいは適当に、自分の日々の言葉や行動が差別/排除の構造のものなのかどうかを考えてみる。これが、ささやかながらも哲学に親しんでる者の、現代における、より良く生きるってことでしょ。
 科学的なエビデンスに沿うこと、それが理性だというのが光の哲学。いや、違うよねというのが暗黒の哲学。この段落のまとめに一つ引用を添えましょう。

私たちは悪に抵抗するために、ものごとの表面に心を奪われないで、立ちどまり、考えはじめます――すなわち、日常生活の地平とはべつの次元に到達します。言葉をかえていうと、ひとは表面的であればあるほど、悪をうみだしやすいのです。

アーレント『ユダヤ論集』479f.:Ⅱ336-337

常識を疑うことができるか

 光ルートいる限り、基本的にはできません。ま、疑うことができたとしてそれに反する行動をとることまではできないというのが正確な言い方でしょうか。疑い、それに反することができるのは暗黒ルートのみです。

暗黒の哲学たち

 ソクラテスの後継者としてのディオゲネス、若干の補正が必要ですがスピノザ、ニーチェ、実存主義、ホルクハイマー/アドルノなどがそうでしょう。
 現代が光ルートならば、上に挙げた哲学は現代につながっていない=断絶があるということです。ディオゲネスのコスモポリタン(これはアジールや、日本では網野さんのいう「無縁」とも類縁関係があると思います)。ネグリが復興させようとしたスピノザのマルチチュード。実存は本質に先立つこと。『啓蒙の弁証法』の批判や、アドルノの否定弁証法。どれも、現代の社会の仕組みや制度とつながっていません。これらの力の価値は、とても低められています。ニーチェならば、ルサンチマンの行き着く先と言うかもしれません。
 彼らは、自由が幻想であることを知っています。あるいは(お金に還元される)等価交換が、実際は義務を発生させる不等価交換であることを知っています。だから、光ルートで使われている主体や自律や自由など、同じ言葉を使っても、暗黒ルートでは意味が違う=通訳不可能なのです。

現代思想の布置

 現代思想といわれる、これから紹介していく哲学は、この光と暗闇との間のグラデーションの中から思考を紡ぐことになります。
 なぜなら、光が闇につながっていることを知っているからです。一方で、暗闇の哲学がめぼしい成果を残せなかった現実に生きているからでもあります。
 限りなく光の下にありながら、その根底に亀裂を生じさせるレヴィナス。ほぼ、同じ意味で脱構築するデリダ、光の哲学のある意味での到達点といえるガダマーの解釈学とは別の解釈学を模索するリクール。皆、フッサールに学び、暗黒面に落ちないように気をつけながら光ルートからズレ(差延)ることを試みます。
 「実際に使える」というストレートなネーミングであるアメリカのプラグマティズムは、あくまで光ルートかもしれませんが、それは哲学を現代の学問水準に洗練させていくことになるでしょう。
 同じように、光ルートにありながら、主体の複数性に重きを置くアーレント。
 先に描いた光の現代の絶望がどのようなものであるか、(フランクフルト学派の大衆批判とは大きく違った形で)ミクロな権力として暴き、別様な在り方を探るフーコー。
 これらの哲学者はあくまで例ですが、近代~近現代の哲学との関係の中に位置づけることで、理解の基礎となるはずです。このように読んではじめて、それぞれの哲学者の現代でのアクチュアリティが見えてくるわけです。

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