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予備考察:共存について/フィンランドについての記事から

平等や包摂を考えるのに、理念から始めるとうまくいかない気がします。今回はフィンランドについての記事からヒントを得つつ、ジャーナリズムではなく、あくまで哲学的に考えてみたいと思います。位置づけとしては、私個人のメモですかね、共同体を考えるための。本当は、そういうのを「研究ノート」というのですが、notoでその言葉を使うことにちょっと違和感があって、やたらと硬い「予備考察」なんていってますが、メモです。まー、それもnotoなんですけど。

ヒントにする元記事はこちらです(特に中編)

北欧について:雑多な知識

 最初に白状しておきますが、私は地政学や世界の国々の実情について詳しくありません。日本の大学の一般教養程度の知識であり、かつ、古いか、あるいは間違っていることもあると思ってください。
 北欧は、イケアで有名なスウェーデンとか、デンマーク、そして今回取り上げるフィンランドなどの国々ですね。それぞれの国で事情は違うと思いますが、ざっくりいって、人口は少なめ、税金が高いという国家運営が特徴的です。これはとても相性が良くて、人口が少ないからこそ、行き届いた福祉ができ、税金の使い道で不正が起こることも少なく、極限までロスなく国民の満足につながっているので、どの世代の国民からも、高い税金を喜んで払ってもらえる――こういう好循環をつくれています。その他、観光資源や地熱などのエネルギー資源が豊富であることも国としての強さです。
 したがって、「市民が生活に満足している国」と実際に国際的に評価されているわけですが、どのみち他の国が真似をできるモデルにはなりません。人口や資源という物理的な条件が違うので、西欧だろうが日本だろうが、国家運営の参考にすることはできないということです。
 もちろん、北欧の国々でもトレードオフはあって、人口が少ないということの実際のところは、お年寄りを代表に(北欧の人たちの基準での)無駄な延命治療はしないということもあったりします。そのことで医療費あるいは介護保険料なんてものを大幅に削減できているとのことです。これはあくまで一つの例で、もっと沢山のトレードオフがあるんでしょう。また、完璧な国ってのが存在するわけもなく、誰一人として人権問題的な状況に置かれていないというわけでもありません。この辺りは、現実的に捉えておきましょう。というのは、下では、良いところにフォーカスするからです。

フィンランドのいいところ(記事の内容のピックアップ)

ジェンダー平等

 「女性らしさ」や「男性らしさ」といったクソみたいなものは、ストレートにくだらないものであるということが常識(多くの人の共通認識)になっており、大事にされるのは「自分らしさ」です。そういう意味で、ナチュラルといっているわけです。
 もちろん、西欧思想においては、「らしさ」があること自然(ナチュラル)だという伝統があります。言葉というのはよい例で、ラテン語のvirtuousとは、徳と訳されますが、意味合いは「目に見えない力」のことです。人徳のある人って、人を動かす力があるでしょう。で、その意味合いから英語のヴァーチャルという言葉の語源でもあります。ただ、virtuousって、なんて書いてあるかというと「男(vir-)らしさ」ですからね。つまり、女性はそういう力を持ち得ないという前提が、言葉として書かれています。

ルッキズムからの卒業

 ようするに、見た目で人を価値付けることを完全にやめるってことです。何回も書きたくありませんが、「見た目が9割」とかの、クソみたいな価値観はくだらないものなんです。

セーフティネットの世話になることは恥ずかしくない

 これはとてもいいと思います。記事の中では「包摂性の理想」と書かれています。反面、だからこそその国の国民になるハードルは高いですよ。移民はある程度受け入れているようですが、それはあくまで移民で、国民ではありません。雑に例えると、福利厚生の充実している上場企業の正社員になるのは難しい、といったところでしょうか。この例えにおける企業とは、男性の育児休暇が推奨される(制度を利用しても恥ずかしくない)真っ白な企業です。

自然との共存が幸せにつながるという哲学

 記事(中編)では、冒頭のテーマです。これも、西欧との比較をしておくと、ポリス(城塞都市)をイメージしてもらって、その城壁はまさに自然との境界線でした。自然を支配し、人間に役立つものにするかというのが、哲学/科学の使命だったわけです。
 まぁ、共存って言っているので、自然と人間はあくまで別物ですが、共に在ることに価値を見出しているわけですね。そして、えーっと、アーミッシュでしたっけ? ああいうのとの違いは、現代の技術を否定しているわけではないところです。むしろ最新のIT技術を理想的なパフォーマンスで使いこなしながらの共存です。

「らしさ」と共存/何と共存するのか

 さぁ、こっから哲学的(概念的)予備考察です。西欧風の人間らしさ(とそれに紐づくルッキズム)と離れたところにある自分らしさ。そのとき、他者(相手)とは誰でしょうか。記事では、食事をおごることの事例が紹介されています。フィンランド流の常識は、自分の食べた分だけ払うというもの。

人間関係

 このことについて、文化人類学の素養のある人は互酬性との明確な違いに気づくでしょう。西欧に限らず、過去〜現在の様々な文化圏でみられる互酬性というのは、非等価な贈与を続けていく義務のことです。それが長い人間関係の(あえてこの言葉を使えば)構造です。したがって、その逆である特定の取引において完全なる等価交換をすることは、「もうあなたとはお付き合いしませんよ」というメッセージになります。フィンランドの常識は、完全なる等価交換=点の人間関係を(少なくとも構造的には)基礎にしているといえるでしょう。

共同体との関係

 とはいえ、人は長期的な人間関係の中でしか生きられません。ビジネスだってそうです。では、フィンランドにおいて点ではない関係をもたらしているものはなんでしょうか。それは、税金の事例のくだりから、共同体(国)との相互的な信頼関係であると考えられます。
 概念的に分析するから、そういう極端な結論になるんだ、と思われますか。そうとも限りません。記事中の文章、「一般的なルールとして、男女問わず人の見た目について何もコメントしないです。可愛いも言わないし何にも言わない。」というのは、表面的にはジェンダー平等/ルッキズムの卒業の文脈の言説ですが、内容としてはまさに相手は(個性を持たない/あるいは個性として認識されることのない)ピュアな人間であり、だからこそ家族という組織(おそらくはまた、会社という組織)において属人的な役割は無く、家事/仕事がまわっているのは「単にそれぞれが好きなことをしている結果そうなっている」と明言できるのでしょう。

自然との関係

 その上で、自然との関係を整理しなおすと、ピュアな人間と(あくまでレジャーの場として描かれる)ピュアな自然とのつきあいだと考えられます。正確には「レジャーというより、自然と一緒に生きる感覚」と書かれていますが、それは限定的な体験をともなっているものの、あくまで感覚なのです。

アジールとの類似と差異

 この構造は西欧ではアジール、日本では無縁の共同体の構造とよく似ています。もちろん、大きな差異もあり、例えば無縁の共同体は来るもの拒まずですが、フィンランドという国家の場合はそうはいきません。このような違いがあるにもかかわらず、弱者の包摂と死が隣り合わせであることなどは、構造としての類似の結果であると思われます。

共存の相手

 一歩戻って、何と共存しているのか、その相手についても少し深めてみましょう。さしあたって、ある種の概念的還元をうけたピュアな人間、ピュアな自然が、共存の相手でしょう。「概念的還元をうけた」と私が書くのは、それは実際の人間や自然とは違っているからです。違っているから、そんなのは理想論だよね、ということが言いたいわけではありません。むしろ、理想を現実にしていることがフィンランドの凄さだからです(そのために事例から考えているのです)。だからこそ、それをラディカルに延長しましょう。こっから先は私の概念操作です。
 現実には存在するジェンダー(あるいはフィジカルな性別も含め)やルックスから距離を置くということは、自分を、そして相手をメタ人間にするということです。てきとうにメタという言葉を使っているわけではなくて、それはメタバースのアバターと実質的には同じであることを示しています。そしてこのことは既に抽出した、点の人間関係や、(ピュアという言葉で表現した)自然との関係性としっくりくるものです。後者について、一言付け加えるなら、そこでの自然とはリアリティをもっているものの、アバター(たち)にとっての背景のような自然ともいえるでしょう。
 これらのことを一歩進めると、次のことが結論されます。相手は人間でなくてもいい。つまり、人間のようにみえる機械/プログラム(=NPC)でも同じはずです。あるいは機械と人間のハイブリッドでも同じことです。フィンランドで論理的にあり得る未来では、少子高齢化による人口の少なさへの解決として、無意味ではない延命(むしろ不死)である、サイボーグが主体になるでしょう。その見た目が多少人間らしくなくても指摘されることはありません。自然は相手ではなくて素材/背景(紹介記事後編参照)です。フィンランドの「人間らしい哲学」がメタ人間――あるいはお気にめすならポストヒューマンと言っても構いません――の存在を肯定するという、この西欧哲学との距離が、近未来的な魅力を放っているように思います。

さいごに

 はい……構造主義は哲学じゃないと別の記事で書いたので、分析方法として使えるし、しかも高度に哲学的なテーマを扱うことに、むしろ長けているんだよ、ということを拙いながら示してみました(つまり、この記事は全然高度じゃないですよ。構造主義の人たちは本当にすごいんです)。
 なにかに対して悪口を言うとき、実はそれに対して特別な敬意を持っている。これは哲学あるあるなのです。じゃあ、無視(言及しない)が哲学の領域におけるネガティブな態度なのかというと……これが違うんです。もう一つの哲学あるあるは、一番大事にしているもの(人)は引用しない、というものです。これらは冗談じゃなくてマジなので、まー、だから哲学者はひねくれていると、一般的に言われてもそれはしょうがない気がしました、今。


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