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映画批評「コーチ・カーター」

 この映画を観れば、かつて日本で放送されたテレビドラマ「スクールウォーズ」を想起する人も多いはずだ。
 物語の構成は、それによく類似しているが、そのメッセージはさらに奥深いものがある。

 本作品は、名プレーヤーだったカーターが、弱小高校バスケットボールチームを州大会準優勝に導いた。学校の勉強もさせた。ルールと契約も守らせた。そういう話だ。とてもシンプルなプロットで描かれている。が、その問題提起と解答のメッセージは強烈だ。深すぎて底が見えない。

 ここでは、極端で想定外の指導方法が展開される。まさに常識外。世の中を変革する人は、いつだって常識の敵だ。
 その指導法とは、バスケットの練習自体のハードさのみならず、部の規律を守らせること、学業成績は基準点を上回ること、そのための教室では一番前の席に座ることなどを徹底させている。すべては部員を大学に進学させるためなのだ。日本のような学歴社会ゆえではない。もっと切実な問題を孕んでいる。

 私は、物語の背景にあるアメリカの人種差別問題を知らないと、この作品の批評は難しいと感じている。実際、主人公カーターや部員たちに共感しづらい。が、考えさせられる部分はある。

 アメリカのある地域の黒人が高校を卒業すること、さらに大学に進学することは、我々が思う以上に切実な問題なのだ。そういう意味から、我々日本人には難しい映画だと思う。
 表面をなぞって満足するわけにはいかない。繰り返すが、本作品は白人社会で黒人個人が生きてゆくことの厳しさを、カーターコーチの指導を通して示唆している。落ちこぼれの高校生を人として再生させる物語だ。
 ただのサクセスストーリーにとどまらず、ここでカーターによる社会システムへの挑戦の物語が描かれる。リーダーシップ、契約、勝利などがキーワードになってこよう。カーターはカリスマ的な指導者だ。ではカリスマとは何か。また、リーダーとリーダーシップ、そしてリーダーに付き従うとは何か、どういうことなのか、ということをこの映画作品は示唆している。
 カーターコーチが部員たちに求めた「契約」は、そのまま国家と国民の関係に重ね合わせることができる。統治主体と被統治主体との契約は法そのものだ。
 ここで、カーターコーチの目論見は単にバスケットの弱小チームを強化することではないことが証明される。素行の悪い高校生のバスケット部員を社会に有用な人材に育てたかったのだ。

 カーターは人格者として描かれていない。私たちのグループでは、「人格者」についても問題に上がった。リーダーと人格者の関係。人格者の定義も検討された。日本で真のリーダーが育たない訳も話し合った。

 確かにこの映画は難しい。では、カーターが部員たちに伝えたかったことは何か。これならわかりそうだ。作品がその伝えたいことを主人公のカーターに言わせているとすれば、そこから紐解くことができそうだ。黒人個人が白人社会で生きていくことの厳しさ。そのために最低限守るべきこと。ルール、規律、契約。その上で学力、さらにその上でバスケットボールのスキル。これが部員の父兄や教員たちに理解されない。カーターは語る指導者ではなかった。

 本作品が伝えたいことは大きく二つ。
一、社会システムに対する挑戦 (目的)
 アメリカのある地域で高校を卒業できる者は少ない。大学に進学できる者はもっと少ない。逮捕される者は多い。刑務所に入る者もまた多い。そんな社会の中で堂々と生きる。そんな人生。そのために必要なこと。カーターはそれを分かっている。
 
二、そのためのリーダーシップ (手段)
 カーターコーチと部員との、そしてカーターコーチと父兄との契約。これは部員を対等に扱っていることの証左で、お互いに敬意を払うことの大切さを示している。

 最後に、被差別人種が今日の権利を獲得するまで流されてきた血と汗と涙を思うと胸が熱くなる。まさに、こういうことなのだ。白人社会で白人と同じようにやっていたら、彼らと肩を並べることもできない。我々は、生きるためにこれ以上のことをやっているのだ。映画は、そう主張している。


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