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映画批評「伊豆の踊子(1963)」

 全体的に見て悪い出来ではない。と言うのは恋愛映画としては、という意味である。これが観終わって感じた印象だった。
 ただ残念なことに原作と比べ、薄っぺらい作り、という印象を拭えなかった。その理由を考えてみた。原作において、もっとも重要だと思われる二つのシーンが描かれていないことにある物足りなさだ。
 それは、風呂場で裸で手を振っている踊子を見た主人公の「ことことと笑った」という心情描写で、主人公はその前の晩、踊子が別の客からお声がかかったのをみて、「踊子の今夜が汚れ」たのではないかと案じた。ところが風呂場で真っ裸で手を振る踊子をみて、自分の杞憂を悟ることになる。彼女は、まだまだ子供なんだ。これは自分の邪推を隠すための笑いだったかもしれないし、ただ単に取り越し苦労だったことを自嘲した笑いだったかもしれない。それは主人公にも、あるいは作者にも分からないことだった可能性もある。後述するように小説は作品として独り歩きすることがあるという好例だろう。ともかく原作で主人公は、踊子をみて「ことことと微笑し」続けたのだった。
 もう一つは、物語の終盤において主人公はある老婆を送り届けるよう依頼を受ける。踊子一行と下田まで一緒に行くことを約束していたのであるが、その依頼のために一行と別れなければならなくなる。主人公は、「善人でない人」として一行と行動を共にすることはできなかった。当時の時代背景により旅芸人を蔑む風潮があったことについては必要以上に立ち入らないが、主人公はそんな中、まさに「善人」として振る舞っていたのだ。ここで「善人」とは、そんな風潮は「知らない」ことを意味している。だから、依頼を受けたときもまた、善人として行動しなければならなかった。これは精一杯の見栄だったかもしれない。彼はその見栄を守るため踊子一行と別れ、その別れを思いむせび泣くのだ。繰り返すが、むせび泣くのは踊子ではなく主人公である。
 映画では主人公役に高橋英樹、踊子役に吉永小百合が起用されている。原作で踊子の年齢が十四歳であるのに対して映画では十六歳に設定されている。二十歳の主人公と十六歳の踊子の対等な恋愛物語を意図して仕立てられたのであろう。
 ある作家の言によれば、映画は監督のものであるから原作者にとって、孫に対する責任ほどしかない、という。たしかに映画作品を二次創作とみれば、それでひとつの作品ジャンルと言えるし、原作品は発表された瞬間に原作者の意図を離れ独り歩きするものかもしれない。あたかも一つの人格が与えられたかのように。とすれば文芸作品は作者にとって子も同然である。子は子の意志を持ち、周囲はそれに対し評価を与える。子と孫も別人格であることを考えれば、孫である本映画作品は立派に親の意志を継いでいたかもしれない。
 本映画作品が公開されるのは、原作が書かれた時代より半世紀ほど下ることになる。背景の異なる二つの時代を隔て表現しにくい部分もあったであろうと思う。先に挙げた、宿のお上さんによる旅芸人に対する侮蔑の言がそれである。これに対してはやはり直截的な表現は避けられている。原作者の川端康成は時代を見越してか、そんな風情に一石を投じたのだと私は見ている。その叶わぬ時代と叶った時代の両作品を並べてみたとき、孫が三代目として原作者の意志を貫徹したと評価できる。
 また、原作では一貫して主人公の心情に焦点が当てられているのに対し、本映画作品では、同じ分量の心理描写が踊子に分配されている。その意図についても探ってみたい。男性優位女性劣位の時代から、男女同権の時代への変移の中で女性の主体性に基づいて恋愛が展開される。そんな時代の到来を宣言している。今日では当然のことであるが、この当然は男女の優劣を当然とした時代風情に「疑問」を持ち「待った」をかけた先駆者がいたからであることは言うまでもない。とするならば、本映画作品は単なる恋愛物語と見えた私の当初の感想は大きな誤りである。社会に対する宣言と見ることもできるのだ。
 一方で繰り返すが、原作の「ことことと笑う」、「むせび泣く」シーンはかくも読者の想像力をかき立ててやまない魅力的な心情描写であり文学表現であっただけに、その部分の抜け落ちはあまりにも惜しい気がしてならない。

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