2021年 共通テスト 日本史B (第一日程) 解答と解説

かっぱの大学入試に挑戦、久しぶりの更新はついに始まった第1回共通テストの第一日程の日本史B。

問題は https://nyushi.sankei.com/kyotsutest/21/1/exam/5270.pdf などで確認できる。

さすが共通テストということで、時代は原始・古代・中世・近世・近現代と全てをカバー(と言っても原始は弥生時代から、現代史は1970年代まで)。問題形式としては正誤選択・正誤組み合わせ・時期配列・根拠の組み合わせ・空所補充などが選択問題として出題された。資料問題も豊富で、史料・図版・写真・地図・グラフなどが使用されている。では、以下私なりの解答と解説。

第1問 貨幣の歴史

問1(解答番号1).解答 ④

解説 「古代の銭貨はなぜ発行されたのか?」に関わる文X・Yと、その文章に関連する「8世紀前半の法令」を選択する問題。要はある命題に対して、その根拠となりうる史料を判断するという、歴史的事実を考察するために史料的根拠に基づかせる歴史的思考力を試す問題だと思われる。 Xは「国家は、自ら鋳造した銭貨しか流通を認めなかった。」という内容である。これに関わる法令として、aでは運脚が銭貨を持参して食料を自弁することが述べられており、bでは私に銭貨を鋳造する人は死刑となることが述べられている。国家が銭貨の鋳造を独占したということに関わるのは私的な銭貨の鋳造を禁じたbであろう。 Yは「国家が発行した銭貨は、様々な財政支出に用いられた。」という内容である。これに関わる法令として、cでは銭を蓄えた人に位階を与えるいわゆる蓄銭叙位令が挙げられ、dは禄(=官人の給料)の支給法として絁(=絹の布)や銭を与えることが述べられている。銭貨の「様々な財政支出」の例としてdの「禄」が当てはまるので、dがYに深く関わるとみることができる。

問2(解答番号2).解答 ②

解説 「鎌倉時代の市場」の絵図として、『一遍上人絵伝』の福岡市の絵図に関して述べた文章として適当なものを選ぶ問題。歴史的知識と絵図の読み取りを組み合わせた問題。 aは正文。「当時の日本」=鎌倉時代の日本においては、「宋などの銭貨が海外から大量に流入しており」「銭貨の流通は一般的」である。 bは誤文。「当時の日本」=鎌倉時代の日本においては、「国家による銭貨鋳造は停止」しているのは正しいが、「銭貨の流通は例外的」ではない。上記の通り、流入した宋銭が流通していた。 cは誤文。絵図をよく見ると、建物の屋根は板葺きであり「瓦葺き」にはなっていない。 dは正文。絵図をよく見ると、真ん中の女性が布のようなものを持っており、リード文中の「咲也さんのメモ」に記されている通り、古代において布は貨幣として通用していた。

問3(解答番号3).解答 ①

解説 中世の流通・経済について問う問題。これまでのセンター試験と同様の歴史的事象の理解を問う問題。 Xは正文。良質の銭を選ぶ撰銭を禁止す撰銭令は室町幕府も戦国大名も発布していた。一問一答的に用語だけを覚えていると、判断しづらかったかもしれない。 Yも正文。室町時代の1523年、細川氏と大内氏が日明貿易の実権をめぐって衝突する寧波の乱が発生した。

問4(解答番号4).解答 ④

解説 江戸時代の小判の重量と金の成分比率のグラフを用いての問題。このグラフ自体教科書にも出てくる定番のグラフ。 ①は正文。新井白石の意見により、元禄小判鋳造による物価騰貴を抑えるため、正徳小判が鋳造された。小判の重量は慶長小判と同じ5匁、金の成分比率も慶長小判と同じ84%ということがグラフからわかる。 ②も正文。グラフを見ると、金の成分比率は最も低い文政でも56%であり、50%以下になることはなかったことがわかる。 ③も正文。グラフを見ると、元文小判の金の成分比率は66%であり、正徳小判の84%よりも低く、後の文政・天保・安政・万延の56~57%よりも高かったことがわかる。 ④が誤文。開国後、幕府が鋳造したのが万延小判であるが、グラフを見ると金の成分比率は天保や安政と同じ57%であり、成分比率自体は減っていないことがわかる。

問5(解答番号5).解答 ⑤

解説 明治期の貨幣制度に関わる定番問題。リード文にあるように、1871年に新貨条例が制定された後、西南戦争の戦費調達のため不換紙幣を増刷(Ⅲ)➝1885年に松方財政により銀本位制が確立(Ⅱ)➝日清戦争後の1897年に貨幣法により金本位制確立(Ⅰ)という過程となる。不換紙幣から銀兌換の紙幣へ、銀本位から金本位へという財政制度の変化を押さえておきたい。

問6(解答番号).解答 ③

解説 大問1のまとめとして、貨幣史の知識と資料の読み取りを組み合わせた問題。 aは誤文。問3で撰銭令について述べられているように、中世には私鋳銭も作られ、流通していた。 bは正文。リード文で江戸時代に銭貨の発行があったことに触れられているように、近世には銭貨の寛永通宝が広く流通していた。 cは正文。図3の新聞記事は「1947年5月3日」のものであり、解説文にあるように「日本では1946年には新円切り替えにより」旧円の流通が禁止されていたことが事件の背景としてあった。金融緊急措置令は戦後のインフレーション対策として1946年に旧円の流通を禁止して貨幣の流通量を減らそうとした政策である。ただし効果は一時的であった。 dは誤文。1ドル=360円の単一為替レートが採用されたのは、戦後のインフレを収束させた1948年のドッジ=ラインによるものである。年代で判断というより、戦後の経済復興の展開(インフレ➝金融緊急措置令➝傾斜生産方式➝経済安定九原則➝ドッジ=ライン➝シャウプ勧告)を理解した上での判断が求められる。


第2問 日本における文字使用の歴史

問1(解答番号7).解答 ⑤

解説 1世紀、3世紀、5世紀の中国諸王朝の領域を示した地図を並び替える問題。日本の特に古代の歴史を理解するには東アジアの歴史の中で理解する必要があり、本文にある通り、前近代における東アジア諸国間の外交に関して東アジア諸国の位置関係を把握しておくことは重要である。1世紀=奴国が光武帝から金印を賜った『後漢書』東夷伝に見られる時代であり、中国は後漢によって統一されていた(地図Ⅲ)➝3世紀=卑弥呼が邪馬台国の女王となった『魏志』倭人伝に見られる時代であり、中国は三国時代であった(地図Ⅰ)➝5世紀=倭王武が上表文を奉った『宋書』倭国伝に見られる時代であり、中国は南北朝時代であった(地図Ⅱ)。

問2(解答番号8).解答 ①

解説 江田船山古墳出土鉄刀銘の史料読解問題。といってもこの史料自体は教科書や資料集でも頻出の有名なものであり、問題としても複雑な読解を必要とするものでもない。 Xは正文。「无利弖」「伊太和」は史料中に「名は」とあるように、人名と判断できる。問題文で「人名表記の仕方に注目」「渡来人と考えられる「張安」のみ」「他の倭人とは表記方法が違う」とあり、「无利弖」「伊太和」は倭人の名であり、当時独自の文字のなかった倭国において漢字の音を用いて表記したものと想定できる。 Yも正文。江田船山古墳は熊本県にあり、史料の注にあるように埼玉県にある稲荷山古墳出土鉄剣銘と共通してワカタケル=雄略天皇の名が刻まれている。このことより、ヤマト政権の大王の勢力が関東から九州まで広がっていたと見ることができる。

問3(解答番号9).解答 ④

解説 7世紀後半の日本における漢字文化の展開とその背景を問う問題。歴史的因果関係を考察できるかという思考力を求めると同時に、教科書の学習で得た知識を歴史的背景に結び付けることができるかを問うた問題である。 aは誤文。事例1より、7世紀後半の木簡に「同時代の中国では既に使われなくなった漢字音」が見られるということは、古い時代の中国の漢字音が使われているということであり、「古い時代の中国における漢字文化の影響がみられる」ということである。 bが正文。事例2より、「椋」という漢字が高句麗における倉庫を意味する漢字を組み合わせて生まれた字であり、百済や新羅でも使われたとあるので、「朝鮮諸国における漢字文化の影響が見られる」と考えられる。 cは誤文。「吉備真備」らが「留学から帰国した」のは奈良時代の8世紀中ごろのことである。 dが正文。白村江の戦いが663年のことであり、まさに「7世紀後半の日本」における漢字文化の背景として想定することができる。加えて、bの文でも述べられたように、事例1・2より7世紀後半の木簡に見える漢字は朝鮮諸国の影響が見られ、白村江の戦いの後に日本に逃れてきたのは朝鮮半島の百済の亡命貴族であったことも想起したい。

問4(解答番号10).解答 ③

解説 「国風文化」について問う問題。評価とその根拠の組み合わせを選ぶものであり、試行調査でもあったが、歴史的事象の評価は一様ではないことを示す、共通テストらしい問題である。 Xでは「国風文化」を「日本独自の貴族文化が発達した」面で評価している。それに対し、aは「儒学や紀伝道の教育がなされた」とあり、これは「唐風」を重んじることであり、「日本独自の貴族文化」とは言えないだろう。一方bは「漢詩集に代わって」「和歌集が編まれた」とあり、「唐風」に代わって「日本独自の貴族文化」が現れてきたことを示しているといえる。そういえば私のnoteでもまとめたけど、2020年の愛知教育大学の日本史でも勅撰集の変化と国際関係の変化を問うていたなぁ。 Yでは「国風文化」を「中国文化の影響も見られる」面を評価している。それに対し、cは「輸入された陶磁器など」「唐物」を愛用することが触れられており、まさに中国文化の影響を受けている事例が示されている。一方dは「白木造・檜皮葺の邸宅」で「畳を用い」て生活しているという、寝殿造での貴族の暮らしについて述べられており、これらは「中国文化の影響」よりも「日本独自の貴族文化」の事例と捉えることができる。

問5(解答番号11).解答 ①

解説 大問のまとめとして、古代における文字使用の歴史について問う問題。選択肢だけ読んでも解けないことはないが、それまでのリード文ときちんと対応させて考察したい。 ①が誤文。Aさんの発表要旨に「前近代における東アジア諸国間の外交においては、正式の漢文体で書かれた国書をやりとりするのが原則で、倭国も漢字の使用を求められた」とあるように、日本列島における文字の使用は東アジア諸国間の外交≒中国の冊封体制に入ることで始まったと見ることができる。 ②は正文。江田船山古墳出土鉄刀の銘文史料から、鉄刀の保持者である「无利弖」が「大王に仕えてきた」ことが読み取れる。 ③も正文。Bさんの発表要旨に「日本の漢字が行政の場でも広く使用されるようになるのは、7世紀後半以降のこと」とあるように、日本における文字の使用は7世紀後半の律令制度の導入により本格化したと考えられる。 ④も正文。Bさんの発表要旨に「9世紀頃に平仮名と片仮名が生み出され、10世紀から11世紀にかけて定着していく」とあり、平安時代に女性による仮名文学が生み出され、紫式部は『源氏物語』を執筆した。


第3問 中世の都市と地方

問1(1)(解答番号12).解答 ①

解説 紀伊国那賀郡神野真国荘という荘園の成立に関わる史料を読み取る問題。いわゆる荘園成立に関わる立荘の手続きについて触れた史料であるが、立荘について知らなくとも史料中の注と、いくつかの歴史用語を理解していれば解答が導ける問題。 Xは正文。史料では紀伊国の留守所(=紀伊国の役所である国衙の中心機関)が、那賀郡司に符している(=命令を下している)文書であり、史料中の2行目に「院庁下文のとおり」とあるように、院庁の命令で紀伊国衙が動いていることが読み取れる。 Yは正文。史料中の2行目以降に「院の使者と共に」「荘園の境界を定めて牓示を打ち」「神野真国荘を立券し」とあり、注に牓示=「領域を示すために作られた目印」、立券=「荘園認定の手続きを進めること」とある。牓示を打つためには現地に赴く必要もあることを読み取り、正文と判断したい。

問1(2)(解答番号13).解答 ③

解説 荘園絵図を読み解く方法と、その視点から分かることを組み合わせる問題。丁寧に絵図を読み取り解答を導きたい。 Xは牓示の設置された場所に注目する方法。絵図の中において牓示がある場所を確認し、「伯父峰」「神野川」「志加良横峰」といった山や川沿いにあることに気づきたい。よってaのいうような「田や村の中心」ではなく、bの「山の中」や「川沿い」がに設置されていることがわかる。 Yは牓示と牓示とを線でつないでみる方法である。実際に絵図の中の牓示を線でつなぐとわかりやすいが、「田」や「志加野村」「真国村」「石走村」「粟田村」「神野村」「猿川村」といった田地や村が牓示によって囲まれることに気づきたい。cでいう「荘園の領域」を示しているのであり、dでいうような「荘園内の各村の境界」にはなっていないのである。当時の荘園はこうした一定の領域を持った荘園であったことも合わせて理解したい問題である。

問2(解答番号14).解答 ②

解説 平安時代末から鎌倉時代の都市と地方の関係を問う問題。従来のセンター試験によくある知識を問う正誤選択問題である。 ①は正文。伊勢平氏は桓武平氏の主流であり、平正盛・平忠盛・平清盛らは伊勢平氏の出なので、「京都でも武士として活躍した」は正しい。 ②が誤文。「禅文化が東国へと広ま」ったのは正しいが、「六勝寺」は鎌倉ではなく、院政期の京都において上皇により造営された寺院である。 ③は正文。白河上皇は信仰心が厚く、しばしば京都を留守にして大規模な熊野詣を行った。 ④も正文。鎌倉幕府の御家人は将軍の御恩に対して、京都番役や鎌倉番役といった警固役を奉公としてつとめた。

問3(解答番号15).解答 ⑤

解説 室町時代の一揆に関する配列問題。これも従来通りの定番問題。正長の徳政一揆(1428年)➝山城の国一揆(1485年)➝加賀の一向一揆(1488年)という順である。山城の国一揆と加賀の一向一揆の順序に注意。

問4(解答番号16).解答 ④

解説 鎌倉時代から室町時代の地域間交流に関わる説明文が示す語句を選ぶ問題。これも従来通りの問題で、語句知識を問う問題である。 Xは「各地に連歌が広まり」が最大のヒント。室町時代の連歌師として東山文化のころに活躍し、『新撰菟玖波集』を著したbの宗祇を導きたい。aの西行は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した歌人であり、『山家集』を残した。 Yは「宋や元の影響を受けて」「地方で製造された陶器の一つ」がヒントであり、設問自体が「鎌倉時代から室町時代」にかけても問題なので、dの瀬戸焼と判断できる。cの赤絵は江戸時代初期の寛永の文化のころに酒井田柿右衛門により大成した陶器の絵付けの技法である。


第4問 近世社会の儀式や儀礼

問1(解答番号17).解答 ②

解説 江戸城本丸御殿の模式図とその説明文を読み取る問題。注意深い読み取りとともに、江戸時代の大名についての知識も必要となる問題。 Xは正文。図を見ると、奥に近い殿席としてA溜之間やB雁の間・C菊の間が存在し、説明文によるといずれも譜代大名の殿席となっている。一方、奥から遠いF柳之間やG大広間は外様大名の殿席と説明があり、譜代大名の方が奥に近い場所となっていることがわかる。 Yは誤文。「日米修好通商条約調印のときに大老をつとめた人物」とは井伊直弼であり、図の〈殿席の説明〉を見ると「彦根藩井伊家」はA溜之間が殿席であったとある。一方、「徳川斉昭の家」とは水戸徳川家のことであり「御三家」の一つである。図の〈殿席の説明〉を見るとE大廊下が「将軍家ゆかりの大名」の殿席であり「御三家」の殿席であったことが書かれているので、両者は同じ殿席では無かったことがわかる。まさに儀礼空間が政治秩序を表している一例として見ることができる、おもしろい問題であった。

問2(解答番号18).解答 ⑥

解説 江戸時代の武家諸法度についての配列問題。定番問題といえよう。 Ⅲの参勤交代を義務づけた武家諸法度は三代将軍徳川家光によって出された寛永令➝Ⅱの第一条が「文武忠孝を励し」に改められたのは五代将軍徳川綱吉のときの天和令➝Ⅰの大船建造禁止を解いたのは幕末ペリー来航後に老中阿部正弘の下行われた安政の改革によるものである。

問3(解答番号19).解答 ③

解説 江戸時代の外交に関する基本問題。従来のセンター試験でもよくある問題である。 ①は誤文。通信使は新将軍就任の慶賀のためなどに朝鮮から日本へ派遣された使節である。 ②も誤文。オランダ風説書はオランダ商館長が幕府に提出したもので、海外の情報を日本に伝えたものである。 ③が正文。琉球からは国王の代がわりごとに謝恩使が、将軍の代がわりごとに慶賀使が幕府に派遣された。 ④は誤文。幕府が松前奉行を設置したのはレザノフ来日後にロシアとの緊張が高まったためである。

問4(1)(解答番号20).解答 ②

解説 江戸時代の休日に関する史料を読み取る問題。これも従来のセンター試験で出題されてきた初見史料読解問題である。 ①は正文。史料の三行目に「一同遊び申すべく候。まちまちに遊び日致すまじき事。」とある。訳としては「(町人)一同で(休日を)遊び申すようにしなさい。(町人に)まちまちに遊び日を致さないようにしなさい」となる。史料中の二行目を見ると「休日致したき節は」とあるので、「休日」を致す=「遊び日」を致すと対応していることを読み取りたい。 ②が誤文。史料中の注にあるように、「流行休日」=臨時の休日であり、史料本文では「流行休日決して致すまじく候」とあるので、臨時の休日は決してしないようにと言われており「全国で一律に制定する」などと定められてはいなかった。 ③は正文。史料中の一行目終わりから「よんどころなく休日致したき節は、町役人へ申し出で、御支配様へお願い申し」とあり、どうしても休日が必要な場合は町役人に申し出て、藩主にお願いするという形になっていた。つまり領主から申し渡すのではなく、町の住民たちから申し出るような仕組みとなっていた。 ④も正文。史料中の「附けたり」以下で「手習い・算など相励み申すべく候」とあるので、手習いや算が奨励されていたと分かる。

問4(解答番号21).解答 ①

解説 明治時代の休日に関する史料を読み取る問題。史料文や問題の選択肢から、これが明治天皇の誕生日である天長節に関わるものだと分かる。 aは正文。史料中の二行目に「天長節御執行相成り、天下の刑戮差し停められ候」とあり、注と合わせてみれば刑罰の執行が停止されたことがわかる。 bは誤文。史料中の一行目に「毎年此の辰を以て」とあり、天長節は「毎年」執行されていたことが読み取れる。 cは正文でdが誤文。史料中の三行目終わりから「庶民に於いても、一同御嘉節を祝い奉り候様」とあり、庶民も天長節を祝うように仰せ出されており、その狙いとして「天皇の存在を意識させようとしたものだった」ことを理解したい。


第5問 影山英子の生涯

問1(解答番号22).解答 ①

解説 影山英子の生涯について書かれた本文中の空欄を補充する問題。これも従来通りな問題である。 アは「大阪事件」の目的であり、リード文をよく読めば、「1865年」生まれの影山英子が「20歳」で上京して関わったことなので、1885年に民権運動の高まりの中で起きた大阪事件を想起したい。この事件は壬午軍乱の後の朝鮮の保守的政府打倒を目指したものであった。 イは「社会主義に近づく」から判断したい。平民社は社会主義者の幸徳秋水らがおこした結社であり、政教社は民族主義者の三宅雪嶺がつくった組織である。

問2(解答番号23).解答 ②

解説 幕末維新期の武士についての説明文が示す語句を選ぶ問題。これも従来通りの問題で、語句知識を問う問題である。 Xは「下級武士出身」「薩摩藩」で西郷隆盛と判断。木戸孝允は長州藩出身である。 Yは「榎本武揚」が「新政府軍に降伏」した地なので、戊辰戦争終結の箱館と判断したい。

問3(解答番号24).解答 ④

解説 影山英子の自伝史料を読み取る問題。特定の時期判断も必要である。 aは誤文でbが正文。史料中一行目から「その学科はいたずらに高尚に走り」「また優美を旨とし(中略)実際生計の助けとなるものにあらず」と「一般女学校の有様」を批判しており、影山英子は女性に「生計の助けになる技術を教えたかった」と読み取ることができる。 cは誤文でdが正文。リード文を読むと、「角筈女子工芸学校」を設立したのは「1901年」とある。「教育勅語」が出されたのは1890年であり、「義務教育の期間が4年から6年のに延長された」のは1907年のことであった。

問4(解答番号25).解答 ③

解説 雑誌『世界婦人』創刊の「発刊の辞」で影山英子が「現在社会の状態を見れば、ほとんど一切の事情は、みな婦人の天性を迫害し圧塞するのであります」と述べた背景を問う問題。リード文で『世界婦人』の創刊が「1907年」とあるので、そこから判断すると良い。 Xは誤文。「新婦人協会」は1920年に設立された組織である。1907年では青鞜社すら設立されていない。 Yは正文。1900年に公布された治安警察法第5条により、女性は政治集会の参加も禁止されていた。この第5条が新婦人協会らの運動の結果、1922年に改正されるのである。


第6問 第二次世界大戦後の民主化政策

問1(解答番号26).解答 ③

解説 明治期の大地主と小作人に関する正誤組み合わせ問題。 Xは誤文。地租改正により地租は金納となったが、地主が小作人から取り立てる小作料は現物であった。このため、米価が上がれば地主は収入が増加し、資本を蓄えることになっていった。 Yは正文。小作料の負担の大きい小作人の中には、子どもを工場の出稼ぎに出す者もいた。

問2(解答番号27).解答 ①

解説 1920年代に活動した組織を選ぶ問題。語句のみを選ぶ問題だが、時期判断が必要となる。 ①の全国水平社は1922年に結成した部落解放組織である。 ②の日本社会党は1906年に結成された社会主義政党であったが、1907年には解散させられた。 ③の明六社は明治六年(1873年)に設立された組織であるが、讒謗律・新聞紙条例により1875年に『明六雑誌』が廃刊して事実上の解散となった。 ④の翼賛政治会は太平洋戦争中の1942年に結成された挙国一致的政治結社である。

問3(解答番号28).解答 ④

解説 空欄に入る語句とその理由を問う問題であるが、リード文の生徒の発表に即した評価をする必要があり、試行調査にもあった新傾向の問題である。リード文のスライドでは「農産物価格の低下」や「小作争議が活発化」とあり、またスライドの「まとめ」として、「小作人の地位向上はある程度実現した」とあることにも注目したい。こうした状況から空欄アに当てはまるのは寄生地主制の「動揺」と判断。その理由としては特に「小作争議が活発化」から、「小作料の引き下げを求める動き」の広まりがあったことを考察したい。

問4(解答番号29).解答 ①

解説 戦時下の物資の統制に関する正誤組み合わせ問題。従来通りの問題であり、内容としてもそこまで難しくないだろう。 Xは正文。戦時下では生活必需品の砂糖・マッチなどの切符制が執り行われた。 Yも正文。1938年の国家総動員法にもとづき、1939年には価格等統制令で公定価格制が導入された。

問5(解答番号30).解答 ②

解説 これも空欄に入る語句とその目的を問う問題であるが、リード文の生徒の発表に即した評価をする必要があり、試行調査にもあった新傾向の問題である。リード文のスライドでは戦時中の農業統制として「小作料の引き上げを禁止」「自作農創設の促進」といった事例が挙げられており、ここから戦時期は「小作人(耕作者)を優遇する政策」と見ることができるであろう。その目的としては、スライドに「総力戦遂行のため、食料の安定供給が必要になる」と書いてある点に注目。まとめにもあるように、「寄生地主制の強制的な解体を目指すものでは」なく、戦時下の食糧生産の奨励のためのものであった。

問6(解答番号31).解答 ④

解説 農地改革の過程と実績について問う正誤選択問題。リード文のスライドとグラフの読み取りが必要となる。 ①は正文。スライドの3-1に「GHQの目標…軍国主義の温床の除去」とあり、GHQが軍国主義の原因の一つとして寄生地主制をとらえていたことがわかる。 ②も正文。スライドの3-2に「政府主導の第一次農地改革案の決定(1945年)」「GHQの勧告にもとづく第二次農地改革の開始(1946年)」とあり、政府主導からGHQの指示により第二次農地改革が開始されたことがわかる。 ③も正文。1965年の農家の経営規模はグラフを見ると0.5ha未満・0.5~1.0ha・1.0~2.0haでほとんどを占めており、この経営規模は1935年と比較してそう大きく変化してはいない。 ④が誤文。兼業農家の割合はグラフのうち折れ線グラフに注目すると、1965年は80%近いが、1935年は30%ほどであり、1935年が専業農家の割合が低いとは言えないのである。

問7(解答番号32).解答 ①

解説 戦後の農業の展開についての正誤選択問題。教科書的な知識でも解けるが、これまでのリード文やスライドを参考にするとより理解が深まる。 aが正文でbが誤文。1970年から始まった減反政策は米の供給過剰に対応して出された政策であり、米の生産調整のための政策である。リード文のスライド2で「食糧管理制度は戦後も続いたが、その目的は変化していった」とあり、その一環と見ることができるだろう。 cが正文でdが誤文。1961年の農業基本法は農業構造改善に向けてのものであった。リード文のスライド3に見られたように、自作農の創設は戦後の農地改革でほぼ達成された。


以上で終わり。リード文や資料を読み込ませる問題が多かった一方で、これまでのセンター試験と変わらない問題も多々見受けられました。今後も過去問演習の必要性は高くなりそうです。平均点もどうやら60点台でこれまでと大きく変わらない感じですね。

次は共通テストの世界史。これも骨が折れそうです。

#教育 #大学入試 #共通テスト #共通テスト解説 #日本史 #日本史B

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