2020年 愛知教育大学 二次試験 日本史

かっぱの大学入試に挑戦、25本目は愛知教育大学の日本史。時代は古代・中世で1題、近世で1題、近現代で1題の計3題。形式は用語記述+論述。史料読解もあり。では、以下私なりの解答と解説。

第1問 古代・中世の勅撰集

問1.解答 Ⅰ:漢詩 Ⅱ:和歌

解説 古代の文化に関する基本問題。Ⅰの『凌雲集』は勅撰漢詩集、Ⅱの『古今集』=『古今和歌集』は勅撰和歌集である。

問2.解答 『経国集』『文華秀麗集』

解説 9世紀前半の弘仁・貞観文化期の勅撰漢詩集といえば『凌雲集』『経国集』『文華秀麗集』の3つである。

問3.解答 7世紀以降、日本は中国の制度・文化を模範として取り入れ、漢詩文の作成が貴族の教養として必要であった。しかし9世紀後半、唐の政情が不安定になり遣唐使も派遣されなくなると、日本ではそれまで取り入れた大陸文化を消化し、独自の国風文化を形成するようになったため。

解説 設問の要求は9世紀と10世紀で異なる形態の詩歌を集めた勅撰集が編集されることになった要因を説明すること。条件として、7~10世紀頃の日本を取り巻く国際関係の推移と関連させること。これまでの設問を踏まえた上での問題。問1で見たように9世紀は漢詩文の勅撰集が作成されていたが、10世紀には和歌の勅撰集が作成されることになった。条件として「7~10世紀頃の日本を取り巻く国際関係の推移」と関連させるとあるので、これはやはり唐との関係が重要だろう。7世紀に遣唐使が派遣され、唐の制度・文化がもたらされる➝9世紀前半には嵯峨天皇のもとで文章経国思想が高まり、儀礼の唐風化が進む➝9世紀末には唐の政情の不安定化により遣唐使も派遣されなくなる➝10世紀には唐が滅亡といった推移が見られる。これを勅撰集に当てはめると、まずはかねてからの遣唐使の派遣により中国の文化が取り入れられていった中、9世紀には文章経国思想の下、漢詩文の教養の重要性が高まった中で勅撰漢詩集が誕生したことをおさえたい。次に9世紀後半以降、唐との国交が少なくなる中でついに唐は滅亡、日本では仮名の使用などこれまでの大陸文化を土台とした新しい文化が誕生していき、こうした中で初めて勅撰和歌集が誕生したことをおさえたい。

問4.解答 技法:写生(写実) 古典:『万葉集』

解説 正岡子規が重んじた技法、というのはやや難。正岡子規は写生に基づく俳句・短歌革新運動を起こした。子規が拠るべき古典としては、「奈良時代に編集して成立した詩歌集」で『万葉集』と判断したい。

問5.解答 後鳥羽上皇

解説 「勅撰集である『新古今集』を編集する中心的な役割」で判断したい。『新古今和歌集』は後鳥羽上皇の命で藤原定家・家隆らが編纂した。

問6.解答 出来事:承久の乱 説明:当時の朝廷は六波羅探題の監視下にあり、幕府によって前代の後鳥羽上皇を退けた後に成立したものだったから。

解説 「前代」が問5で後鳥羽上皇と判断できていれば、「鎌倉幕府との間で引き起こした大きな出来事」は承久の乱と判断できるだろう。問題は定家が、「前代」である後鳥羽上皇の和歌を集めて、「今の体制に不満があるのかと疑われかねない」と思い悩んだ理由である。条件として「当時の政治状況から」説明せよとあるので、当時の政治状況としては承久の乱後、六波羅探題が設置されて朝廷が幕府の監視下にあったことだろう(と思ったが、大学の出している模範解答を見ると六波羅探題は触れなくても良いみたいだ)。重要なのは、「今の体制」というのが、「前代」の後鳥羽上皇の体制を退けて幕府が成立させた、ということだろう。そのため「前代」を支持するような姿勢は、「前代」を否定して成立した「今の体制」に不満があるかのように疑われかねないのである。少し問題の聞き方が難しいような気もした。

問7.解答 評価:高く評価している 理由:新しい勅撰集を「作品の出来だけ」で選ぶと、後鳥羽上皇の作品ばかりになってしまうと述べているから。

解説 史料読解問題。定家の「前代」に対する詩歌の能力の評価だが、史料中の「作品の出来だけで選んだら、新しい勅撰集は前代の作品で溢れてしまう」と書いてあるところに注目である。「作品の出来」=詩歌の能力の良しあしで見ると、「前代」=後鳥羽上皇の作品ばかりが選ばれると定家は述べているわけである。史料から評価を読み取るというのは重要なことだが、やや説明しづらかったかもしれない。

問8.① 解答 大覚寺統

解説 「持明院統」と対立した、もう一つの天皇家の家流とくれば大覚寺統だろう。 

② 解答 本家(本所)

解説 「荘園を支配する仕組み」における「天皇家の地位」となると、いわゆる寄進地形荘園における上級の領主である本家、または実質的な支配権を持つ本所だろう。

③ 解答 行動:討幕計画を立て、最終的に幕府を滅亡させた。 理由:後醍醐天皇が建武という元号を用いたため。

解説 「後醍醐天皇」が「鎌倉幕府に対して」とった行動は、2度の討幕計画である正中の変と元弘の変、および討幕をなし遂げたことだろう。「建武の新政」の「建武」とは後醍醐天皇により改元された元号であり、その時代を示す用語として用いられたわけである。

問9.解答 足利義満が武家でありながら太政大臣になり、死後太上法皇の称号を与えられそうになるなど、天皇家や貴族たちは室町幕府将軍に対し政治的に弱い立場となり、文化的余裕が失われていくことになった。

解説 設問の要求は14世紀後半から15世紀にかけて、天皇家や貴族たちがどのような立場におかれていたか説明すること。条件として、室町幕府との関係からみること、「あなたが考える」具体的な事例を一つ挙げること。また、設問の前提として、勅撰集の内容が衰退した背景として貴族社会の状況を考えることが必要となっている。設問の要求としては「天皇家や貴族の立場を説明する」というシンプルなもののように思えるが、複数の条件を考えると正解も一つとは限らず、なかなか答えづらい問題だったのではないだろうか。まず14世紀後半から15世紀という時代設定を考えると、南北朝後半~義満期以降ということで、この間の室町幕府と天皇家や貴族との関係を示す具体的事例としては、解答例で書いたような義満の太政大臣就任・太上法皇称号問題の他、南北朝の合体、朝廷の権限(京都の市政権や諸国の段銭の徴収権など)の幕府への移譲あたりが思い浮かぶ。ここから天皇家や貴族の立場を述べるなら、幕府への政治的・経済的従属という立場だろう。この結果、文化的余裕が失われ、勅撰集の内容の衰退へとつながると見れるのである。


第2問 江戸時代の経済

問1.解答 A:田畑永代売買 B:分地制限令 C:小物成 D:助郷役(伝馬役) E:村請(制) F:町人請負(見沼、飯沼、紫雲寺潟、武蔵野なども可) G:千歯扱 H:宮崎安貞 I:問屋制家内工業 J:絹織物

解説 江戸時代の産業の基本問題。Aは「年貢の確保のため」の1643年の禁令で判断。後に「商品作物の栽培を禁止した」と別にあるので田畑勝手作りの禁ではないともわかる。Bは「耕地の細分化を抑制」で判断。Cは「本年貢のほかに」「山林や副業などの収益にたいする」からわかる。Dは「村々では宿駅に人馬を供給する」とくれば助郷役であるが、広く見れば伝馬役でも良いだろう。Eは「村を単位として」で判断したい。Fは「吉宗の時代」の「商人資本による新田開発」とあるので町人請負新田のことかと思われるが、具体例を挙げても良いだろう。Gは「脱穀用」の「農具」で判断。Hは「『農政全書』」で判断。Iは「商人が農民に」「原料糸や織機を前貸し」「できあがった製品を買いとる」という問屋制家内工業の説明そのままであった。Jは「桐生や足利」の特産物とくれば絹織物である。

問2.解答 誰:豊臣秀吉 政策:太閤検地 制度:貫高制

解説 石高制は豊臣の太閤検地により、戦国時代の貫高制に変わって成立していった。

問3.解答 誰:石田梅岩 学問:心学

解説 「京都の町人」「通俗道徳を説いた」で心学の石田梅岩を想定したい。

問4.解答 その年々の収穫に応じて税率を決めて年貢を徴収する検見法から、豊作や凶作に関係なく一定期間は同じ割合で年貢を徴収する定免法へと変化した。(67字)

解説 年貢徴収法の変化を問う問題。端的に説明すれば検見法から定免法への変化であるが、字数の関係でそれぞれの中身も説明する必要があるだろう。

問5.解答 農民が出稼ぎに来るようになり、江戸には無宿人が増加し、治安が悪化した。そこで老中の松平定信は農民に資金を与えて農村に帰す旧里帰農令を出し、無宿人対策として石川島に人足寄場を設置した。(91字)

解説 設問の要求は関東および東北の農村の荒廃が進んだ結果、江戸の町ではどのような問題が起き、18世紀末に幕府はどんな対応策をとったのか述べること。まず江戸に起きた問題としては農民による出稼ぎの増加➝江戸における無宿人の増加➝治安の悪化という点が挙げられるであろう。「18世紀末に行った幕府の対応策」としては、松平定信の寛政の改革を想定したい。あくまで「江戸の町」で起こった問題への対応策なので、旧里帰農令により資金を与えて農村に帰すことを奨励し、人足寄場の設置により無宿人に技術を身につけさせ職業を持たせようとしたあたりのことについて述べれば良いだろう。

問6.解答 17世紀後半には、村の代表者が領主に直訴する代表越訴型一揆が行われたが、17世紀末には広い地域にわたる惣百姓一揆が見られるようになった。18世紀後半の天明の飢饉の後には全国で数多くの百姓一揆が起こり、幕末になると社会情勢の不安から世直しを求める世直し一揆が行われるようになった。

解説 設問の要求は江戸時代の百姓一揆の展開過程を説明すること。条件として「惣百姓一揆」「代表越訴型一揆」「世直し一揆」「天明の飢饉」の用語を時代順に並び替えること。並び替えとしては、代表越訴型一揆➝惣百姓一揆➝天明の飢饉➝世直し一揆という順になろう。天明の飢饉の位置づけがやや難しかったかもしれない。大学の発表している模範解答では天明の飢饉を打ちこわしにつなげているが、問題で「百姓一揆」の展開過程を尋ねている以上、打ちこわしについて詳しく触れなくても良いだろう。あとはそれぞれも一揆の内容や時期に触れられれば良い。

問7.解答 薩摩藩では調所広郷が登用され、商人からの借財を棚上げにし、黒砂糖の専売を強化し、琉球王国との密貿易を盛んにした。

解説 設問の要求は諸藩の藩政改革で行った経済政策について、一つの藩を取り上げて具体的に述べること。解答例では薩摩藩を出したが、長州藩での村田清風による借財の整理や紙・蝋の専売や越荷方の設置による委託販売、肥前藩の鍋島直正による均田制の実施や陶磁器の専売なども挙げられるだろう。


第3問 近現代の天皇

解答 王政復古の大号令により天皇を中心とする明治政府が誕生した。1889年に大日本帝国憲法が制定されると、天皇は神聖不可侵の存在とされ、統治権のすべてを握る総攬者であり、軍隊の統帥権などの天皇大権が規定された。第一次世界大戦後、大正デモクラシーの風潮が高まる中、美濃部達吉により天皇機関説が唱えられ、天皇は国家の最高機関として憲法に従って統治権を行使する存在とみなされた。しかし1930年代には天皇機関説が政治問題化し、岡田内閣により国体明徴声明が出され、天皇機関説は否定されて天皇の神格化が進んだ。しかし太平洋戦争が日本の敗戦で終わると、GHQの下で天皇は人間宣言を行い、天皇の神格が否定されることになった。1946年に日本国憲法が制定されると、天皇は政治的権力を持たず、日本国および日本国民統合の象徴となり、天皇の地位は主権者である日本国民の総意に基づくものとされた。(383字)

解説 設問の要求は近現代に天皇の地位や役割がどのように変化したか述べること。条件として「大日本帝国憲法」「天皇機関説」「人間宣言」「日本国憲法」の用語を用いること。変化を聞いてい入るが、大きくは戦前と戦後の比較が重要となる。ただ、「天皇機関説」の用語が指定されているので、戦前における天皇の位置づけの変化は触れる必要があるだろう。大まかな構成としては、明治期:大日本帝国憲法下での天皇の位置づけ(神聖不可侵の存在・総攬者・天皇大権)➝大正期:美濃部達吉の天皇機関説による明治憲法下での天皇の憲法学上の位置づけ(国家の最高機関)➝昭和戦前期:国体明徴声明による天皇機関説の否定(天皇の神格化)➝昭和戦後期:人間宣言(天皇の神格の否定)・日本国憲法下での天皇の位置づけ(象徴天皇制)といったところだろう。指定用語から大まかな内容は想定できたかもしれないが、字数が多いためそれぞれの内容を吟味しながらまとめる必要があり、やや手間のかかる問題だったかもしれない。天皇の譲位があった昨年度だからこその問題だったのであろう。


以上で終わり。何だか何を聞いているのか分かりづらいような問題が見受けられた気がします。問い方っていうのは難しいものですね。

次回は愛知教育大学の世界史。

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