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レスキュー

夏になると、私は、とある慈善事業をする。とは言っても、たいしたことではない。私の行動によって得をしたり助かったりする人は、皆無なのだから。

最寄りの駅から家までの帰路は、終盤で公園に差し掛かる。公園の中ではなく、そのすぐ横の石畳の道を通るのだ。仕事の要領も悪い私は、帰りは深夜に及ぶことも珍しいことではない。

そんなときの時間は、22時を過ぎ、23時近くだろうか。夏の夜の公園横の道は、危険がいっぱいである。G(=ゴキブリ)が出没するのは日常茶飯事で、時にはムカデが出たりする。危険をかきわけつつ家路を急ぐのだが、そんな中で慈善事業を行う。

慈善事業とは、セミの幼虫を拾い上げ、木の幹にとまらせる。それだけのことである。

ピトッ。


幼虫は、土の中から出てくるのだが、中には土の部分から縁石に乗り上げ、落ちて石畳の部分を歩いている可哀想な幼虫がいるのである。

石畳の縁石は、セミの幼虫にとっては、難攻不落の城壁のようなものだ。一度石の上に落ちたが最後、ツルツルの石に幼虫の爪はひっかからず、二度と土の上には乗れない。つまりは木の幹には永遠にたどり着けない。

そうなってしまったセミの幼虫の末路は哀れである。石畳の上でやむ無く羽化にチャレンジするも、うまく羽が伸びきらず飛べない成虫になり死んでしまうか、カラスなどの野鳥に食べられるか、通勤する人間に踏まれたり自転車に轢かれたりと、一筋の希望の光も当たりはしない。

そもそもここは、一昔前は山だったのだ。そこを人間が開発し、人工的に木々を縁石で囲い、石畳を敷いてセミの住環境を破壊してきたのである。人間のはしくれとして、その所業を反省し、彷徨うセミの幼虫を救おうと慈善事業を立ち上げた。ひとり。たったそれだけのことだ。

いつの年だったか、多い日には、9匹の幼虫を、とりあえずは木の幹に抱きつかせた。

ピトッ。

ただ、私がするのは、幹に抱きつかせるところまでで、本当に羽化できるかどうかは、その幼虫の生命力と運にかかっている。


金曜日、その慈善事業をしつつ帰宅した。するとキッチンにいた家内がひょっこり玄関のほうに顔を出して私に言う。

今日は、何匹?

私が、応える。

今日は少なくて、2匹。成果は上がらなかった。

すると家内は、敬礼した手を頭からちょいと離して言う。

お疲れ ! セミ、レスキュー!

これは絶対に、バカにしているよな。笑っているよな。心の中で思う。でも笑顔で私もおどけて敬礼して言う。

ただいま帰りました!

すると次女が部屋から突然廊下に顔を出して言う。

セミ、レス、キュー!

セミレスキューの名付け親は、家内である。密かな慈善事業のことを、家内に話してしまったのが運の尽きだった。

セミの幼虫を、下を向いて探しながら蛇行する変な親父が歩いていたら、きっと気色が悪いよね。不審者だよね。バカだよね。

と、大笑いしながら家内たちが私をディスっているのを、ある日、聞いてしまったのだ。

はい、はい。セミ、レス、キュー、と、心の中で、ちょっとふて腐れながら小声で呟いた。



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