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消しゴム

高校時代のことだ。高二の2学期末。英語の時間に教科担任から昼休みに職員室に来るようにとお達しがあった。分かっている。追試の追試だ。

昼休みに出頭したのは、わずかに2名。このままでは進級が難しいと最後通告があった。3日後の金曜日に追試。そして、その開始時間を聞いた時に、思わず心の中の声が漏れ出してしまった。

マジかよ!

教科担任の都合で、部活動後に教科準備室直ぐ横の教室に集合ということになり、追試は遅くから始まる。終わるのは、晩御飯どきくらいになる。

かったるいなと思いつつ、追試を重ねて受けるような自分にすべての責任があるのだと自力で反省する前に、

お前自身が悪いんだからな。俺だって、早く帰りたいよ。

と、教科担任が私を睨みつけながら言う。

確かになぁと、頭をかきながら、必修単位を取るための最後のチャンスすを生かそうと、たったひとりの同胞と固く誓って職員室を出た。

3日後の追試は、内容は別として、滞りなく終わった。外は既に真っ暗。辺りには、もう、誰も居ない。 3人とも早く帰りたいので、そそくさと帰り支度をして、教室の電気を消し、薄暗い廊下に出て、階段を降り始めた。

私の通う高校は、歴史も古く校舎も古い。校内がどこもかしこも暗く、学校の怪談のロケにでも、いずれは使われるだろうと思っていたくらいだ。

すると、唯一の同胞が言い出した。

忘れ物をしたかも知れないなぁ。

同胞とは同じクラスではないが、体育の授業で顔見知りだ。結構真面目で几帳面なタイプだ。どうして彼が、追試の追試まで私なんかと付き合っているのかが不思議なくらいだ。彼は数学は抜群だが、英語はからっきしだった。

おいおい。忘れ物なんて、明日にしろよ。もう何時間もしないうちに、登校だよ。と、心の中では言ったものの、同胞、ひょっとしたら来年、落第して下の学年では親友になるかも知れない。妙な打算が私を動かした。

じゃ、戻るか。

私が足を止め、踵を返すと、教科担任も、言わなくても良いのに、

俺も、確かめに行こう。

3人とも仲良く教室に戻ることになった。

教室に着くと、月明かりで、見渡せた。満月だ。特に、私たちが座っていた前の方の席は、電気をつけなくとも一応の確認は、一瞥してできた。

忘れ物は、無さそうだなと、みんなで安心した矢先だった。教科担任が私がさっきまで座っていた机の上を指さして言った。

おいおい、消しゴム、忘れてるぞ。

一瞬違和感があったものの、机の左端に、無造作に置かれている消しゴムを、私も確認した。

いけね。

私はゆっくりと近づき、一気に消しゴムをつまみ上げて制服の左ポケットに放り込もうとした。が、なんだか、消しゴムが激しく動き出した。柔らかく、感触がガサガサだった。で、ポケットに放り込むが先か、ハタハタと飛び始めた。スピードは、早すぎず、遅すぎず。ハタハタと。

そして、教科担任の顔に止まったのだ。

ウゥギャァーーーー!

そいつは、教科担任の顔から超高速で駆けだし、確かにもう一度ハタハタと飛んで、隅っこの方に向かって逃走した。

私は、確信した。あの手の感触から想像する全体像と、あの飛び方。やつは、Gだ。

教科担任は、半狂乱のようになった。

電気、電気をつけろ!

同胞が素早く電気をつける。

おい、なんだ、なんだ、なんなんだ!飛んだぞ!

まだ、俺のどこかについていないか?後ろとか、見てくれ!確認してくれ!俺のまわりを!頼むから!

頼まれちゃあ、仕方が無い。飛んで逃げたのは間違いないが、

先生、大丈夫ですかっ!

と、わざとらしく言いながら、前後左右、ジャケットを広げて、脱いで、全身の安全確認を3人で行った。

どれくらいの時間、確認していただろうか。ひとしきり確認が済んで、まだ少し興奮の冷めやらない教科担任を、

先生、もう、大丈夫ですよ。危険はありませんよ

と、励ましつつ、3人で、一息、

ふーっ……

と、ため息をついた。そして、遅くなったなぁと言いながら、同胞と帰路についた。同胞には、犯人はただの昆虫ではなくGであろうことを告げると、かなり驚いて、

ヤツは、あんな飛び方をするのか

と、変なポイントに興味を持ったようだった。

追試の追試の結果はそれほど思わしくは無かったが、通知簿では赤点にはならなかった。それは、同胞も同じだった。身体検査を、3人でとことんやったのだから、正当な報酬だったと思う。でもGの一件が無ければ、私達二人は、ひょっとしたら危なかったかも知れない。

同胞も私も、英語の成績は相変わらず低空飛行だったが、その後はそこまで危ない橋を渡らなくなった。


(注)Gとは、ゴキブリのこと。

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