『たとえば君が売れたら』2、指輪の王子様その②


何曲ずつ歌ったところだっただろうか。
彼が急にマイクを置いて、こちらを向いて正座した。
「夏妃さん」
わたしは何となく分かっていた。
「好きです」
やっぱり、来た。どうしよう。わたしも好きだ…
もう止められない。はぁずるい。
「はい」
わたしまで敬語に戻る。
「付き合ってもらえませんか」
彼は少し赤らんで言った。
わたしはそこでふと冷静になり、「え!彼女は!?」と聞くと彼は「広島にいたけど別れてきたから今はおらんけん」と答えてくれた。
その広島弁と答えにホッとしたわたしはふたつ返事で快諾した。

お互い微妙な緊張を持ちつつ、ポツポツと話をしたり歌ったり煙草を吸ったりしていると、カラオケの退店時間のアラームが鳴る。まだカラオケの個室で煙草が吸えた時代だった。今となってはそれすらも懐かしい。
「うわっ、もう朝か!」「帰りたくないね」なんて言いながら、とりあえずカラオケの会計を済ませてどちらからともなく手を繋いだ。女の子みたいに優しいけど男の子の安心感もある、不思議な手だった。この手があのギターを掻き鳴らして、時には優しく撫でて、あの演奏をしているのか、と、またしみじみしたりしていた。
ジリジリと少し痛い、もう初夏の朝焼けを浴びながら、ダラダラと駅まで歩いてしまい、これからどうしようかといたたまれない沈黙が流れた。
帰りたくない。でも言い出せない。
「あの、、ふたりっきりになりたい」とわたしが言うと彼は「無人島?」と言った。
あぁとてつもなくたまらなくこの人のことが好きだ。もっと知りたいしもっと触りたい。
はしたなくそんなことまで思ってしまって、わたしは彼の手を引いた。
気付いたらラブホテル街にいて、「お金ない!」と騒ぐ彼を引っ張ってそそくさと部屋を選んでいた。彼を独り占めしたい。それ以外のすべてのことがどうでもよかった。

赤と黒。花柄。無機質な匂いの中に生々しい情景。
彼は優しくわたしを抱いてくれた。
出会った時からこうしたかった。まだそんなに日にちも経っていないけれど、とても長い間我慢していたことのように思えた。彼の腕の中でわたしはこれからずっと幸福なんだ、もう怖いものなんて無いんだ、そう思えた。
それでもまだ夢のようで、これからも全部夢のようなんだろうなと思った。
無人島では当たり前にふたりきりで、昼か夜かも分からなくて、ついつい時計の針を忘れてしまったけれど、樹の携帯がブーブーとマナーモードで鳴り響いた。
「やば…バイトじゃ」
時計は9時半を指している。
わたしは大学の授業だった。
広島弁が今まであまり馴染みなかったからか、この人の広島弁がいわゆる“綺麗だから”なのか、いつまでも聞いていたくなる言葉だと思った。
部屋を出る時に、わたしが外してテーブルの上に置いてうっかり忘れていた自分の指輪を思い出し、あ!っと叫んで部屋に戻ろうとすると、彼は指輪を頭に乗せて「これじゃろ?」と微笑んだ。
彼が王子様に見えた。
わたしの王子様だ。そう強く思った。


次回、「3、中弛みの6巻と商店街」に続きます。

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