小説『雨上がりの虹』第一章(愁視点)ー中ー

【3】

次に愁の視界の白い靄が晴れたとき、愁は天使風の男に腕を引っ張られ、青い空の中に浮かんでいた。

眼前を見下ろすと、東京のビル群がミニチュアのように視界に広がっていた。ビル群の景色は彼らの移動に応じて、徐々に変化していった。最初は高層ビルが多かったなか、時折整備された公園がビル群の中にぽつぽつと混じるようになった。都心から移動しているのだろうか。

「これが俺の死んだ後の世界……」

愁は呟いた。

景色はどんどん変わっていく。その移り変わりの速さから、二人の飛翔速度の速さがうかがい知れた。ミニチュアのビルの高さがどんどん低く平たんになって行き、壁面の色は都会的な黒から赤茶けた灰色に移り変わっていく。整備されていない緑地の黄みがかった緑も増えていった。

「何も変わらないな……何も」

飛翔のスピードが少々遅くなり、高度が低くなった。通り沿いの歓楽街やあまり高くない雑居ビル群が良く見渡せるようになった。

「変わるさ。 賭けてもいい」

羽根の男は言った。

立ち並ぶビルの高さがまた一段二段と低くなった頃、彼はまた一段階、飛行速度を落とした。徐々に高度も下がり、ビルが大分近づいていく。

その一つの中に、羽根の男は愁を連れて向かってゆく。


【4】

そこは病院だった。

二人は霊安室に入った。上から様子を見下ろせるように、天井の梁近くのでっぱりに腰をかける。

愁は上から見下ろした。霊安室に横たわる見慣れた死体があった。俺ってああ見えるんだ、と愁は思った。自分で思っているより肌は白く、瑪瑙のような硬質な印象を与え、自分で思っていたよりすらっとしていた。

霊安室には、愁の父親、母親と白衣の若い医療関係者がいた。愁の母親は愁の亡骸の前で嗚咽し、愁の父親は少し離れたところで若い医者を詰問していた。

羽根野郎は指さして言った。

「ほらみろ、ご両親もあんなに悲しんで」

「だから?」

こいつ何もわかってないな、と愁は思った。

「だから近づいて行ってさ……」

「俺はいい」

「……」

「俺はいい、つってんだろ」

「えっ……」

行くわけないだろ、と愁は思った。

天使野郎は、愁のかたくなな態度に説得は早々に諦めたようで、その大きな羽をはためかせて霊安室の床へ舞い降りた。

愁はあきれた。なんというか、想像通りだと愁は思った。

天使野郎には新鮮に見えているのだろう。

愁が見下ろすと、天使野郎は父親たちのすぐ後ろに立っていた。あの距離なら、会話の内容も聞こえているに違いない、と愁は思った。

愁は上から眺め、会話の内容と天使予想が見聞きしたやり取りを予想した。多分だいたい当たっていると思う。

まず、天使野郎は病院の一人で下に降り、若い医者と壮年の男性がもみ合っている様子が間近でよく見える位置に立った。そして、彼はようやく気付いたようだ。もみ合っているというよりは、細身の医者が一方的につかみかかられて詰問されていたことを。

 医者はすごい剣幕で愁の父親から詰め寄られていた。半ばのけぞりながら壮年の男性に肩をがっしりつかみかかられ、「息子を返せ!」と、理不尽な理由で怒鳴られていたのは遠くから見ても気の毒なぐらいだ。

「お父さん、お気持ちお察ししますが、おちついておちついて」と、まだ若い青年医師はあたりさわりのない言葉で父親をなだめようとしていた。彼は、まだ研修医ぐらいの若さであろうか。おそらく責任をとることもなあなあで受け流すことにもなれておらず、優しくなだめようとするが、火に油を注ぐばかりだ。

愁は天使野郎の方を見た。彼は表情を隠すこともなく驚いていた。特に、父親が金の話を口にするたびに、わかりやすく困惑していた。

「息子にいくら投資したと思ってるんだ一千万だぞ一千万!それが今回のでパーだ一千万が」

父親の声は大きいので天井近くから眺めている愁のもとへもはっきり聞こえた。父親の言い分のあまりのばかばかしさに愁は苦笑する。人の命の話をしているはずなのに、彼は仕事の癖か、いや、仕事が人生のすべてになってしまっていたからか、お金という尺度に落として無意識に理解しようとしている、俺の存在を。だいたい一千万って高いのか。人が数年遊んで暮らせる金額ではあるけれどそれだけじゃないか、と。

非常にリーズナブルな金額に息子を換金してしまった滑稽な愁の父親の言動と行動に対して、天使野郎はたいそう驚いているようだった。愁は思った、彼はこの仕事をしているはずなのに、こういう状況を見たことがないのか。もしそうだとすると、魂をどうこうとか時間をどうこうとかいっぱしの神様側の仕事人の振りをしているけれども、そもそもそういった歴自体も浅いんだろうな、とちょっと想像した。そして、だとすると、その前は――。

「そうよ」

その時、先ほどまで愁の亡骸の前で静かに泣いていた愁の母親が、ふと思い出したように顔を上げてつぶやいた。

そして、愁の死体に抱き着きながら泣く。 

「違うのよ、

愁ちゃんは、お金なんかじゃないの。だって、こんなにいい子で、真面目でいい大学に入ってくれたのに、なんで……」

愁は天使野郎の方をちらりと見た。彼は、またとても驚いていた。そして、さすがに呆れたのか、皮肉っぽい笑顔を浮かべてから、静かに首を横に振り、息を吐いてから、はた、と上を見上げた。愁と目が合った。

愁は病院のカーテンレールの上で足を組みなおしながら、

「だから、行かないといった」

と皮肉っぽく言った。わざと、口を大きく開けてゆっくり喋ったので、天使野郎にも伝わったことだろう。

天使野郎は目をぱちくりさせてから、首を回して、周りを見た。

「いったいいくらの損失だと」

「お、お父さん、ね、落ち着いてください……」

「うるさい!どうにかしろ!責任とれ」

「ぐすっ、愁ちゃああん…」

「お辛いでしょうけど……ねっ、ねっ…!」

唖然としている天使野郎の横で、相変わらず、愁の父親は声を荒げて何も落ち度のない青年医者を暴言で詰問し、その横で、そんな父親を態度を咎めることもなく、愁の母親は一人、自分の世界にこもって愁の抜け殻に向かって泣いている。

天使野郎はしばらく呆然とその様子を見ていたが、ある時から観念したのか、うつむき、首を横にしずかに振ってから、だめだこれは、という風に中空へはばたき、愁のいるカーテンレールへ舞い戻った。

愁はあきれたように口を開く。

「ほらな、見栄ばかりだろ。あんた、まるでそんな親がいるだなんて。知らなかったみたいだな」

「……」

そういう反応だろうな、と愁は思った。思った通りだ。そして、愁はちょっと皮肉っぽくわざとらしく勿体つけてゆっくり喋った。

「というわけで、俺は死ぬべきだ」

「いや……な……? まだ決めつけるのは早いぜ……」

天使野郎は愁の横で肩に手を置いた。余裕のある風を装っていたが、明確に焦りを隠せていなかった。

「自分の葬式見てからでも同じこと言えるか?涙にむせぶ友達さん」

「よゆーだよ、第一……」

愁は吐き捨てた。

「どうせ、あいつら、こないし」

 天使野郎は強引に愁を連れて飛んだ。

白い光がまた満ちる―――。


【5】

その翌日、なのだと彼は言った。

羽根野郎に連れてこられてやってきたのは、とある葬儀場のセレモニーホールだった。白を基調とした祭壇の下に安置された白い棺、周りに飾られている色とりどりの花。そして見たくもない誰かの顔写真。これほど、貼りつけた笑顔の似合わないやつも珍しいと思う。

 参列者は数十人、案外多い。とはいえ、年代層はほとんど親父やお袋と同年代の顔ぶれであり、遠い親族を覗けばここにいる大多数は顔すら見たことのない他人である。会社の人や遠い親戚を集めてきたというところだろう。

スピーカーから流れるクラシックに合わせて、クソジジイがマイクを手に取る。

「えー、みなさん、本日はお越しいただきどうもありがとうございます」「息子は生まれながらにして、重い病に侵されていましたが、公にはそれを隠して、短い人生を一生懸命に生きてきました」

大げさにありもしないことをさもあったかのように語る壮年男性。演説のスキルだけで口以外何もできないのに、地元の企業でそれなりの立場にのしあがっただけのことはある、と愁は妙に感心した。父親はしゃあしゃあと続ける。

「そんな息子は生まれてきたことを後悔していないと、死ぬ間際で私たちに感謝してくれて、そして私たちもそれを……」

「あれ、嘘だよね」

横の天使野郎が、父親の様子に引きつつ、愁に確認をする。 ああ、と愁はうなずいた。

「そうだよ あいつら、いつもああさ。 自分たちを演出するツールとしてしか、俺のことを見てない」

「あ……」

羽根野郎は困惑して言葉に詰まっていた。 気まずそうに目線をそらすなら最初からそんなことしなきゃいいのに、と愁は思った。 昨日の霊安室のやりとりをみた時点で葬式だってこうなるって結果はわかってただろ。

 愁はそう思いつつも、念のため、一応、葬式の様子を眺めることにした。 とはいっても客は愁の知らない壮年の男女が大半を占めていた。 親の知人などを関係者として水増ししたのだろう。 親戚以外では、愁の良く見知った顔はなかった。

そう思った矢先、毎週顔を合わせる見知った顔ぶれが目に入った。

「あれ、友達さんじゃないかな……?」

 横の天使野郎がきく。

客席から立ち上がったのは、愁の大学の語学ゼミの同級生だ。 週二回の語学のゼミが同じというだけで、共同発表の準備をしたり、ノートの貸し借りをする程度の間柄なので、通夜に駆けつけてくれたことに愁は少し驚いた。

 彼らは焼香台の前に立って、すすり泣きをしていた。 こういうところに来るのはきっと初めてなんだろう。 動作がぎこちない。 普段、能天気そうな彼らからは少し意外な姿だった。 そう思ってから、愁は自分自身についても思い返した。

俺だって周りに自殺者なんていなかったな……。悪いことしてしまったのかな……。

「ほらな、来たじゃん。悲しんでんじゃん」

うるさいな天使野郎。

「どうせ、空気に流されているだけだろ」

「そうかな……?」

天使野郎は少し笑顔を取り戻しておどけたように言う。

「試しに明日へいってみよう」

そういって奴はまた愁の服をひっつかみ、そして、時空がまた飛んだ――。


【6】

 昼だった。

 愁たちが次に目にした光景は、大学のキャンパスの見慣れたカフェテリアの風景だった。愁ら二人は部屋の隅の掲示板の前に着地する。

 2限が終わったあたりだろうか。先ほどのゼミ仲間三人が軽食をもって空いているテーブルについた。何か談笑しているようだが、いつもより大分静かな様子だった。無理やり笑おうとしているのか、笑い方は普段より大分ぎこちなかった。無理して笑っているのが部屋の端にいる愁たちから見ても十分伺い知れた。

 天使野郎は、愁の方をちらりと見た。 

 ほらな?と、彼はは言いたげだったが、愁はその瞬間の彼が視界には入らなかったように装った。ばれてるかもしれないが、別に、それ自体は構わない。

 眼鏡の金沢がぎこちなく食べ物の包装に手を付けようとしていた所、同じゼミの女子たちが談笑しながら、カフェテリアへ入ってきた。彼女らも語学ゼミのクラスが一緒で、ゼミ仲間の松任屋らはたまに彼女らとゼミ後に談笑していることがある。可愛いが俺自身はあまり関わりはなく、直接言葉を交わしたことはほとんどなかった。

 彼女らは、カフェテリアの一角の松任屋らに気づくなり、「おはよー」と挨拶をしてから大きく手を振り、三人の近くへやってきて、一言声をかけるなり、ちょうど空いていた、彼らのテーブルの隣の席についた。 もちろん、あいつらは断らない。

 女の子の一人が不思議そうに言った。

「ゼミの課題? 今日は相原君いないのねー」

「愁……?」

 金沢は気まずそうな顔をした。

 茶髪の松森が分け入って入る。

「あいつ、欝でさー」

「あららー」

「ま、ほら、あいつ就活、大変そうだったし?」

 女子たちは口々にうんうんうなずいているが、お前ら俺の何を知ってるんだ?と、心なしか愁は思った。

 女子が可愛いすぎるからか、そんな可愛すぎる女子たちの明るいノリに合わせたいが為か、わからないけれども、ちょっとゼミ仲間の空気が変になってきた。おちゃらけたように、松任屋が言う。

「よりによって、大手の商社ばかり受けててさー」

「えー商社―? それはちょっと」

 少し毒のある語句を口にしながら、引き笑いをする女子。

「だよなー、俺もそりゃ高望みだって言ったんだけどなー。だってあいつ暗いじゃん」

 口数少なめな片桐まで女子のテンションに合わせ始めてきた。まさか、あいつまで。同類だと思ってたのに。

「そーそ」

 女子はストローで紙コップの中の氷をかき混ぜながらたいして興味なさげに言う。

 そして、松任屋と金沢らは息を合わせて肩をすくめるジェスチャーをした。

「あいつこんな感じだよな、きょどっておどおどしててさ。 ハイ、ハイって……」

「わっかるー!」 女子は手を叩いて同意した。俺ってそういう風に見えてるのか、と、少々愁は落胆した。

 松任屋が笑って言う。

「お前ら、ひっでーな。鬱で休学中の人間に対してー」

「ひどくないですーぅ!」

 ロングヘアの女子が媚びる。そしてもう一人の女子がとどめの一撃を刺した。

「むしろ来なくなって良かったじゃない。お荷物が減ってさ?」

すごい言い草だな、と愁は思った。それを聞いても、松森らは笑いながら「ひっでー」と茶化す程度で、否定らしい否定もしない。

 隣の天使野郎をちらりと見やると、今回も、漫画にでも描いたようなわかりやすく驚いた表情をしていた。

 女子のひとりが、「本人の前では言えないくせに」と、冗談めかした声で小突くと、金沢らが「あっはは」と気の抜けた小さな笑いで肯定した。つられて松任屋も嗤った。おとなしい片桐でさえ肯定した。

 同級生たちとの笑い声と女子の良く響く高い声が混ざる。その後も何か話し続けていたようだが、昼休みになって、人が増えてきたカフェテリアの人混みのノイズにかき消されて聞き取りづらくなっていった。

 もう勝手にやってろよ、と愁は心の中で毒づいた。ほんのわずかでも期待した自分が馬鹿らしく思えた。彼らを眺めているのすら、辛くなった。

 愁は、くるりと踵を返してカフェテリアの外へ向かった。外へ通ずる出口へ向かう愁に対して、一連の流れを同じく隣でみていた羽野郎は何かを言いかけ、愁を呼び止めようとした。しかし、上手い言葉がみつからなかったようで、なんと言おうか考えあぐねていた。 いうなよ。

 天使野郎にだけは少々の後ろめたさはあったものの、愁は無視をして、振り向かずに出口へ向かった。自分の住むアパートの方へと、歩いてでも帰ってやると、愁は思った。 少々自棄になっていたかもしれない。 ともかく、大学からはなれたかった。

【7】

 相原愁は大学の外に出た。羽根野郎は相変わらず追い付いて来ない。

 愁は道なりに歩きながら、彼が周囲にいないことを確認した。試しに、今度はどんな手を使ってでも死んでやるといった、ちょっとセンセーショナルな自戒を声に出して呟いてみたが、駆けつけてくる誰かはいない。当り前だ、そんなことを一瞬でも考えた自分が本気で馬鹿みたいだ、と思った。

 羽根野郎は後ろから走ってきたりはしない。

 それでも愁が懲りずに歩いていると、

――バサッ。

 上の方から大きな羽音がした。同時に巨大な鳥の影のようなものが愁の周りに現れたが、もちろん、それは鳥ではない。羽根野郎だ。 

 彼は空から舞い降りてきると、愁の斜め後ろへ並び、愁と同じペースに合わせて歩き出した。  

 愁は振り向くことも、止まることもせず、彼のことは極力無視を装い、努めて気づかなかったふりをすることをした。 歩くスピードだけは、少しだけ、緩めた。

 愁は、無視した風を装って独り言を続けた。

「俺、妙に身体強いから、睡眠薬は吐いちゃって効かないんだよな……。しかも、今回も駄目だということは」

「だったら」と不服げに割り込むやつがいた。 奴だ。 

愁は会話を引き継がないで、独り言を続ける。

「次回の自殺方法としては、電車とか」 

「痛いよ……? 手足もげて、内臓飛び出て、ぐっちゃーーーって」

 羽根野郎はもちろん割り込んでくる。 奴のジェスチャーはでかい。

 さすがに聞こえていないふりを続けるのも妙な気がしたので、愁は嫌気がさしたようにしぶしぶ言った。

「独り言だよ」

「ははっ、それにしちゃずいぶんとでかい独り言だな」

 天使野郎は気にもとめない。愁は立ち止まって振り向いた。

「てか、なんで、ついてくるんだよ」

「仕事だからな」

「だったら、職務まっとうしてさっさと死なせてくれよ」

「やんねー」

「仕事だろ?」

「じゃあ、仕事じゃなくていいわ」

 天使野郎は軽い調子で愁の受け答えを流す。何なんだこいつ、と愁は思った。「だからさー」と、緊張感のない口調で天使野郎は引き続き説得を試みていたが、愁は、それ以降は無視をすることにした。 

 愁は道なりにどんどん進んでいく。 

 道中、大音量でラジオを流す車が止まっていた。愁はその車のことは、一瞥するなり、たいして気にも留めずその横を通り過ぎたが、後ろの天使野郎は違った。彼は、車の横へ来るなり、磁石に引き寄せられるかのようにそのカーオーディオの前から動かなくなった。愁は振り向かなかったものの、後ろで彼が足を止めた気配自体は察したが、構わない、と無視して進んでいった。どうせ、またすぐに追っかけてくるだろうという明確な期待があった。

 音楽を背にしながら、愁は思った。どことなく懐かしい響きのヒットソングだなあ、と。そういえば、最近の音楽に興味がなくなってもう久しい。

 愁がそう思った頃、大分後ろの方からクラクションの音がしたような気がした。その車かどうかはわからない。


【8】

 羽根野郎はしばらく愁には追い付いて来なかった。愁は構わず自宅のある方角に向かって徒歩で進んだ。それなりの距離であることは知っていたものの、普段は電車で通っているからあまり距離感の実感がわかなかったのだが、やはり東京を横断するとなるとだいぶかかる。

 とはいえ、いまいち身体的実感のない身であったため、とりわけ疲労のようなものは蓄積しなかった。ただただ変わる景色。 時折目に入る屋外地図で位置を確認する。方向音痴でなくて良かった。

 数時間ほどたったころだろうか、俺は街中の小規模などこかの庭園を横切っている途中だった。コンクリートで舗装された歩きやすい緑園。少し向こうにみえるのは池。ここで、少し道を踏み外して、そちらの池の中にずぶずぶと溺れるように歩み進んでいったらどうだろうかという空想がふと脳裏をよぎったが、どうにもならないだろうなと思った。例え生身の肉体のみだったとしても、その浅瀬の浅さに、おぼれることすらできずに、きっとただ惨めなさまで、誰かが俺という不審者の第一発見者になるだけだろうと思いなおした。

 そんな、滑稽な皮肉めいた空想を巡らせ始めていたころ、

――バサッ

 と、聞き慣れた大きな羽音が聞こえた。振り向くまでもなく、羽根野郎が来たんだなと愁は確信した。 

案の定後ろから、聞き慣れた声がする。

「ごめん……」

 悪いことはしていないのに取り繕うように謝り、それも、本心であるかのように本当に悪びれてそうに上手く発音するのが、妙に、気に障るな、と愁は思った。

「あ、でもよかった、みつかって……」

 声の主は続ける。本当に「みつかってよかった」と思っていそうな感情豊かな声が、また一段と癪に障る。お前に俺の何がわかるっていうんだ。愁は立ち止まって振り向く。

「俺が川底に沈むとでも思った?」

「あ……いや」

「あいにく俺は泳げる」

 愁は水の方を見た。浅い池だ。

「水に浸かったら理性がマヒして岸に向かってしまうだろうな」

「それって本当は死にたく……」

「――……」

 もう答える必要はないと思い、愁は口をつぐんだ。前へ進む。

「はぁ」と、天使野郎が愁の後ろでわざとらしいため息をつくのが聞こえる。やれやれ、そのあとに続くフレーズは村上春樹か。

「そんなに急いで帰らなくてもいいんじゃないかな?」

 羽根野郎が言った。 愁は、彼のこの気を使ったような、そして表面をなぞるだけのような言い回しが気に食わなかった。まるで腫れ物に触るような扱いだと感じた。

「……なぜ?」

「だってその、君は戻ったら……その」

「するよ。 今度はもっと確実な方法で」

 羽根野郎は大声を上げる。

「だーから。 それはーあ」

「あんたに何がわかる」

 愁は言った。愁にしては力強い物言いで、その場にいる相手に向かってはっきりと、言った。

「俺にはあんたと違って、何もない。俺がつまらない人間だから」

 あいつは何も返さない。ただ聞いてる。

「シューカツ、何社受けたと思う?」

「……」

 羽根野郎はこちらを見る。口を開いて何かを言おうとしているようだけれど、何と答えたらいいかわからないといった様子で、具体的な言葉は聞こえない。

 すかさず愁は言う。

「二十四社。全落ち」

「履歴書で君のことなんてわからないよ」

 羽根野郎がしゃあしゃあと言った。その現実味のない言い方に、愁は、きっと就活したことないんだろうなあと感じた。 履歴書の枚数だと思うなんて。愁は言った。

「……エントリーだけなら90いった。面接はどこでも笑顔だった。でも落ちるんだよ、全部」

 羽根野郎は絶句した。

 愁は歩道から車道に出た。羽根野郎は追ってこない。

「プライドなんてない。中小もいっぱい受けた。ていうか、ほとんど中小だ」

「それでも、どこからもいらないって……祈られた」

 愁は交通量の多い道路の真ん中に立って、大きく手を広げた。今のこの身体では轢かれないのはわかっていたが、轢かれるふりをした。数十メートル先から、トラックがこちらに向かってやってくるのが見えた愁は動かない。

 羽根野郎の大声が後ろの歩道から愁に向かって叫んだ。

「まだまだこれからじゃないか。いい仕事が決まらなくたって! なにも死ぬことはない! この人たちだって、皆が皆あ!」

 愁は歩道の方を振り向いて言った。

「俺にはそんな選択肢ないんだよ」

「でも、死ぬよりマシだろ!」

「正社員で就職しないと親が許さないから」

「……本当に親がか?」

 羽根野郎は少し皮肉っぽい、あきれたような顔をして言った。

 愁の前方から来たトラックは、もう、愁の目の前まで到達していた。愁はそのまま立って、トラックが通り過ぎるのを待った。トラックを凝視し、いかにもここにいるぞという風に手を大きく広げながら。もちろん、トラックの運転手にも、待ちゆく人々にも、誰の目にも見えはしないが。

 トラックが愁の身体を通過した。正確には、すり抜けた。思っていた通り、今の愁の身体と相手の大きな車両は、互いに干渉しあったり、影響を及ぼしあったりすることはなかった。愁の身体はそのままだった。だけれども、遠くの歩道にいる羽根野郎には、心なしか何か喋った音声が聞こえづらくなっているかもしれない、という気はした。愁は口を開いた。

「俺も、

かも、

しれないな」

 トラックは完全に過ぎ去った。愁はきちんとトラックに「轢か」れた。――なんのことはない、愁の肉体はここになく、トラックの運転手もいかなる破片にも遭遇せず、両者は何もまじわらず日常に過ぎ去っていった。

 トラックが去っていくのを確認してから、羽根野郎は愁のいる路上に、こそこそと出てきた。

「やっすいプライドだなあ」

「あんたにとってはな」

愁は言った。

「あんたは、コミュ力もありそうだし、機転もきくし、どうせ彼女とか、誰かしらいるんだろ?」

 天使野郎は答えない。愁は続ける。

「でも、俺には何もない」

 一番主張したかったことだ。愁は静かに続ける。

「俺にはあんたと違って、まともな人間関係が何もない。心の通う友人も、頼れる親族も。見たろ? この通り、俺には誰もいないんだ。誰からも必要とされてないんだ。だから、生きていても、いなくても、何ら変わりはないんだよ」

天使野郎が納得がいかないという風に問う。

「必要とされないから、死ぬのか?」

「ああ。何が悪い」

「『何が悪い』って……。悪いよ」

「何が。別に誰も悲しまないんだから、いいだろ? 俺がいてもいなくても、変わらないわけだし」

「悪いさ」天使野郎は一呼吸置いた。

「自分に悪い」

愁は意外に思った。

「自分? は死ぬから関係ねーだろ。どうせ消えるんだし。感覚も痛覚も記憶も消えた後なんて、どうとも思わねー」

「消えない」

愁の言葉を冷めた声が断ち切った。そして、声の主は静かに続けた。

「死ぬとは―――」

 彼は、一呼吸おいてから、静かに言った。目はうつろで、どこかここでない遠くを見ている。

「死んだら何処へ行くかといえば、……きらきらした、白い光の粒……それに、淡い対岸の灯り。……そして……」

 何かを言いかけようとして、彼は別のことに気づいたのか「ハッ……」と息をのみ、そこで発言を打ち切った。

 愁は、思ったより普通だなと思った。 想像していた以上に、典型的な死後の世界風だというか。

 愁は率直な感想を述べた。

「なんだ。案外よさげじゃん。むしろ、早く行ってみたい」

 その瞬間、愁の目に何かが映った、かと思うと突如、パァンという音が耳元で鳴り響いた感じがした。

 愁は何が起きたか一瞬わからなかった。ただただ、頬の痛みを感じた。

 ワンテンポ遅れて、愁は自分の身に、今、何が起こったかを把握した。

 羽根野郎が平手打ちしたのだ。

 愁は、さっき平手打ちされた頬を抑えた。

 羽根野郎の方としては完全に無意識の行動だったらしい。愁が頬の痛みに気づき、片手で頬を抑えた愁にきっと睨まれてから、彼はようやく自分が何をしたのか気づいたらしい。彼は自分の手を見て、息を呑んだ。そして、神妙な表情をした。

「……すまない」そういって彼は謝ったが、一言、言葉は付け足した。

「スマン、でも、本心だ」

 と。

 愁はその態度に腹が煮えくり返った。

「はあ?何だよ?」

「なんで……なんで、よってたかって、俺のことをいたぶるんだ」

 羽根野郎は、愁をなだめるかのように何かを言おうとしたが、いまの愁の耳には穏やかな言葉はもう入らない。

 愁は声を荒げて言った。

「生きるのが苦しいから、せめて、マシになりたいってだけなのに。死ぬのも駄目だというのなら、じゃあ、どうしたらいい?」

 愁はさらにまくしたて、天使野郎に掴みかかる。

「あんた、俺を気遣うフリばっかしてるけど、本当は俺に苦しめと? 苦しみ続けろ、と? 俺は――」

「だって―――」

 羽根野郎は、愁の勢いに屈せず、分け入った。

「勿体ないじゃん!!」

 そして、彼は言い放った。

「俺は……! 生きたかった!!」

 やっぱりな、と愁は思った。こいつ天使じゃねえ。

 知ってた。

「……やっぱり人間だったのか」

 そうだよな――。愁は呆然としていた。

 セミの声が空に鳴り響く。初夏の夕暮れ。青年二人は、都会の街の真ん中で、呆然としてつっ立っていた。

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