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トランスジェンダー・性自認至上主義について

自分は、性自認至上主義……身体的(生物学的)な特徴ではなく性自認や自己申告によって性別が決まるのは問題があると考えている。公的な場面においていわゆるトランス男性を男性・トランス女性を女性として扱うのには反対だ。たぶん外形的にはトランス差別をしている者……トランスフォビア・トランスヘイターに区分されるのだと思う。

嫌悪や憎悪、恐怖というよりは、単に「『事実』と異なる」というのが理由だ。
自認や自己申告で性別が決まるのはおかしい。いくら多様性といっても「事実」に悖る。

各個人が私的に受け入れるのは構わないと思うが、公的・社会的・法的に認めるのは違う。超えてはいけない一線というものがある。黒いものを白いと言うのはちょっと……。今黒いとされているものを白いということにする取組なのは分かるが、性別は「事実」であり「認識」ではないと思う。トランス男性は「そういう(性自認が男性である)女性」、トランス女性は「そういう(性自認が女性である)男性」というだけだろうと。

トランス差別・トランスフォビア呼ばわりされるかもしれないが、別にそれはいいとして、それを言ったらその批判者たちはファクトフォビアではないのか。ファクトフォビアの人たちは「差別」をしていないかもしれないが、事実を捻じ曲げる「欺瞞」をしているように見える。

自分は差別をよくないことだとは思うが、差別をなくすためなら何をしてもいいとまでは考えていない。相対的にこの場合は欺瞞より差別の方がマシと考える。

トランスジェンダーに関しては、ありのままの事実である「そういう(性自認が女性/男性である)男性/女性」としてその存在を受け入れたい。初見で性別を誤認する可能性は否定しないものの、パス度やら手術やらは特に関係ない。
……その意味で、個人的には既存の性転換にも懐疑的ではある。自認や手術は勝手にすればいいが、そういったことで公的・社会的・法的に性別を変えるのってどうよ?と思ってしまう。


繰り返しになるが、自分としては、性別は「事実」であり「認識」ではないと思う。基本的に染色体など、あるいは性器などの要素も加味した複合的な形で客観的な指標により分類されるべきで、突然変異的な例外個体は何らかの方法で個別に検討されればよい。

なお、正直自分は「性自認」というものを感覚としてあまり持てていない(「心が男性/女性」みたいなジェンダーバイアスの塊のような概念でないことはまあ分かるつもり)。
自分としては、「自分は男性/女性だと思う」という感じではなく「自分が男性/女性であることを把握している」という感じなのだ。

※自身の染色体なんかを確認したことがないので、生まれた時からの扱いや自身の身体的特徴などからこの性別だと認識しているだけではある。
結局「事実であると認識していること」という意味で自認と同じなのかもしれないが、さすがにそれを性自認扱いというのも変だろう。それを言い出したら、あらゆる「事実」というか世界は全て自己の認識に過ぎない……みたいなズレ方をしてしまう。「性自認」の趣旨はそういうことではないはず。

また、性同一性障害・性別違和・性別不合といった「病気だから」というのも事実を歪める理由にはならないのではないか。

医療からのアプローチとして患者の利益が大切なのも分かるが、その利益は他者の利益と衝突したり有限のリソースを食ったりする。「患者の利益のため」としたところでそのためなら何をしてもいいわけもなく、事実に基づいた利害の調整が必要だろう。多重人格者(解離性同一性障害患者)に人格ごとの投票権を与えるか?という。

内心で何を考えようと自由だしそれこそ憲法で保障された権利だが、その内心が実際の行動等に出力されて他者の自由・権利と衝突するような場合は議論の余地が生まれる。

トランスジェンダーには「特権」ではなくシスジェンダーと同様に「人権」が保障されるべきだ。それが平等というもの。そして残念ながらシスジェンダーには自身が認識しさえすれば事実に反しようが何だろうがそのとおり扱ってもらえるような権利などない。


上記のとおり自分は主に概念的・筋論的に性自認至上主義に反対なのだが、他方で実害的な問題点も十分に考えられる。

端的に言うと、性自認至上主義は実質的に全員にカミングアウトを強要し、かつ強制的にアウティングがなされるのに近い構造となる
(現行でも性的マイノリティの登用率が〜とかLGBTの役はLGBTの俳優が〜とか、カミングアウトやアウティングを促すかのような目標・基準が掲げられていることがあり、なんて配慮がないんだろうと思ってしまう……)

性別は「事実」ではなく「認識」となり、何かにつけて性自認を表明することが求められる。それまでは男女という「状態」の申告でよかったところ、「内心」の告白を要求されてしまうことになる。
※厳密には「自認」と「申告」は必ずしも一致しないとはいえ、現実的には同一のものとして扱うしかないと思う。

「申告がなければ身体的(生物学的)な特徴に基づき性別が決まる」としても、「申告をしない」ことにより、その者がシスジェンダーであること……やはり性自認が対外的に確定してしまう。そしてもちろん、トランスジェンダーはカミングアウトしなければ違和感がある方の性別が自認ということにされてしまう。

アウティングが問題になるような、それほどまでに機微な情報の扱いが"それ"でいいのだろうか?という。
まあ対策としては、運用上、自主的なカミングアウトがなければ「性別(性自認)不明」と扱うのがせいぜいといったところか。


また、「性自認至上主義の下では性別の区分けの意義が毀損される」というのもある。

性自認至上主義の下では「男性/女性」であることは「そう自認している」ということしか意味しない。基本的に男女比なんか気にしてもしょうがなく、女性活躍推進も男女平等も、機能しないか本来の趣旨とかけ離れた形になる。定義が変わるためこれまでのあらゆる性差及びそれに伴う課題等の前提を引き継げず、解決するわけでもないのに過去のものにしてしまう。

「男女」という分け方が事実ベースだといわゆるMECEでない区分けとなり、概念の毀損は免れない。要は、性自認至上主義だとむしろ男女で分ける意味がなくなりがちということ。
(もちろん、比較的多くがそれまでの"男性/女性"であると見込むことはできるかもしれないが……)

スポーツなんかはまさにその直接的被害が大きい。
個人的には、スポーツを身体的(生物学的)な特徴で分けずしてどうするんだという考え。自認で分ける意味がなさすぎる。

もういっそ「男子スポーツと女子スポーツ」じゃなくて「男体スポーツと女体スポーツ」とかで分けてしまえばいいのではないか。染色体で判断ということで「XX部門とXY部門」なども考えられる。あるいは「フリー部門と女体部門」みたいな形にするとか。
(男体か女体か微妙な極めて珍しい「例外」は個別判断みたいになるかと思うが、それはトランスジェンダーや性自認至上主義とは別の論点)

ただ、スポーツにおいて男女で分けるのが完全に合理的ではないというのも分からないではないので、人種なりテストステロン値なり、一定程度客観的な指標での区分なら検討の余地はあるかと思う。


以上のとおり、自分は性自認至上主義に反対だし、トランスジェンダーは「そういう(性自認が女性/男性である)男性/女性」と考える。

(以下、余談)
そもそも、「男性/女性を自認する」という時点で既存の性別観を前提にしてしまっている気がする。
自認するからには男性/女性とは何なのかというのが先にあるはずで、「男性/女性とは『男性/女性』と自認している者のことである」という定義はおかしい。いわゆるミュンヒハウゼンのトリレンマ云々以前の問題として、不要に循環参照している。その「男性」「女性」とやらはいったい何を自認しているのか。

性自認で性別を決めたいのなら、「性別1」「性別2」「性別3」……みたいなのが別途定義される必要がある。それに「男性」「女性」が含まれてもいいと思うが、どう定義するのだろう。客観的な指標ならともかく、「『自認』することができるような各性別の特徴」なんてそれこそジェンダーバイアスの煮凝りみたいになりそうじゃないか?

まあ、巷でいう性自認至上主義は「『男性/女性と自認している者』も男性/女性に含める」くらいの粒度なのだろうが……。

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