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本能寺の変について

今日は旧暦ですが「本能寺の変」があった日です(天正10年6月2日)。

最近では本能寺の変は怨恨説ではなく四国説が有力?

本能寺の変は日本史最大の謎で、よくドラマでも取り上げられ、厳しい仕打ちをする信長への怨恨説で描かれますが、最近は四国説が有力です。信長は光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じ、光秀は部下の斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結ぶところまで行きましたが、天正8年に織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視、武力による四国平定に方針を変更し、光秀の面目は丸つぶれになった、というものです。

元々明智光秀は越前の朝倉義景に仕えていた

元々明智光秀は越前の朝倉義景に長らく仕えていましたが、永禄8年に室町幕府足利義輝が三好三人衆や松永久秀によって暗殺されると、その弟、足利義昭は姉婿である若狭国守護・武田義統の元に逃れます。その直後から義昭は織田信長を含む各地の武将に上洛と自身の将軍擁立を促し、細川藤孝が使者に立ち信長は了承しましたが、美濃平定前で、義昭側は永禄9年4月に織田・斎藤両家の間に和睦を結ばせました。しかし、信長がこれを破る形で同年8月29日に出兵したことで流れ、義昭が信長に不信を募らせて、いったん見切りをつけ、さらに各地に援助を求め朝倉義景を頼ったことから、光秀は義昭と接触を持つこととなったようです。

その後、永禄11年の足利義昭の上洛に明智光秀は加わり、その頃から足利義昭と織田信長の両方に仕えるようになったとされます。

その後、天正2年、京都追放令で幕臣が義昭に従う者と信長に従う者に二分され、政所や侍所など幕府機構の維持に必要な人材が不足して機能停止状態に陥り、幕府機構に依拠しない支配体制へ移行、政所や侍所の職員だった幕臣も信長の下で新たな役割を与えられることで、京都における室町幕府の機構は完全に解体され、室町幕府滅亡ということになってますが、その頃の明智光秀の位置づけは、信長の家臣になるしかなかったと思われてきました。

実は明智光秀は織田信長の家臣ではなかった!?

最近、このあたりは色々な考え方が出てくるようになって、実は光秀は信長の部下では無く、徳川家康や宇喜多家と同じように小さいですが、坂本5万石の一つの大名で、織田家の同盟者ではなかったか、という考え方があります(「明智光秀」(歴史新書 刊)谷口研語 著)。

本能寺の変は明智家の一方的同盟破棄であったか?

後に明智光秀は信長から丹波国を与えられますが、同じ同盟の徳川家康も信長から駿河国を与えられています。同盟ならば、天正10年6月2日に京の本能寺で供回りも少なく、また都合の良いことに嫡男の織田信忠も京の二条城に少ない供回りで滞在するという、信長親子を襲撃するには又とない絶好のチャンスで、突発的に明智光秀は信長親子を本能寺及び二条城を襲撃してしまったと考えられます。この一連の流れは戦国時代によくある同盟の一方的破棄にすぎません。

明智家という大名が織田家と同盟関係にあるという、今までにない新しい視点で、これなら本能寺の変も謎では無くなってきます。

この「大名明智家同盟破棄説」は流れに無理がなく、自然であるように思えます。

皆様はどうお考えでしょうか?😉

ヘッダー画像転載元 : http://rekijin.com/?p=6456

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