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いつかの、(夏至)

「顔立ちはあまり覚えていないのですが」そう店主は切り出した。
「笑う顔が印象に残っています。一人でこの店に来て、笑っていたんですよ」
「なぜ一人なのに、笑っていたのですか」
「そこまでは、分からないなあ」

 わたしは改めて、その絵に向かい合った。額縁は青みがかった銀色をしていて、その油彩画から受ける冷たい印象をより一層引き立てていた。

「壁から、外してみてもいいですか」自然とそう口に出ていた。絵に触れたいわけではない。もっと近くで、いやもっと近くに、わたしはいたかった。

「……構いませんよ」しばしの逡巡の末、店主はそう言った。

 わたしはソファの上に膝立ちをして、額縁へ手を掛ける。思いの他、絵は簡単に外れた。改めてソファへ身体を沈めて、両手で額縁を支えたまま、机の上へ立てる。高さはおそらく一メートル以上はあるだろうから、少し腕が疲れる。そうするとまるで新聞紙を広げるサラリーマンのような格好になり、その絵で店主の姿は視界の影に隠れた。

「そういえば、待ってたよ、って言ったのは」

 わたしは見えない店主に向かって話しかける。目を見ずに話ができる分、いくらか気が楽だった。人となりの知れない人間と、顔を合わせて話すのは苦手だ。いや、得意な人間なんていないか。そのために張った膜なんだから。目を合わせなくて良いように、なるだけ屈折率の高い液体で満たすんだ。本当の姿を知られないように。でもそのせいで、わたしたちの目に入る世界も、歪んだものになる。それを忘れてしまったら。恐ろしいことだ。曇りなき眼で世界を観測していると思い込んでいた自分のレンズは、とっくに汚れきっているかもしれないのだから。

「そんなこと、私は言っていませんよ……」

 わたしは絵を机にそっと置いて、それから店主を見た。嘘だ。さっき確かに、そう聞いた。梛さんによく似た口調を、わたしは鮮明に思い出せる。はたしてこれは現実だろうか?

「わたしが勝手に店に入ったことを咎めないのは、何故ですか……」

「私は店の準備がありますから、開店よりも二時間は早く店に出ています。常連さんが九時頃にいらっしゃることはあります。わたしが掃除をしている橫で、コーヒーを飲みながら、世間話をする……そういうことがありますから、別段驚くようなことではありませんでした」店主は相変わらず、顔色を変える素振りもない。

「さすがに二時間も早くいらっしゃったのは、あなたが初めてですけどね」
「申し訳なかったです」
「いえいえ、それよりも、学校は、大丈夫ですか」

 ああ、また、現実へ帰っていく。いやだなあ。でも今のわたしは、臆病だから。上手に逃避なんてできない。

「すみません、わたし、やっぱり行かないと。また今度、お邪魔させてください」
「ええ、お待ちしております」

 引き戸をガラガラと開けて、わたしは店を出た。そっと戸を閉めるとき、ガラス越しに店主の顔が目に入る。わたしは軽く会釈をして、それから走り出した。何もかも、中途半端なままにしちゃったな。湯呑のお茶も、壁から外した絵も、梛さんのことも。

 それから通学路は簡単に見つかった。やっぱり全部、夢だったんじゃないのか。おまじないみたいに、頬をつねってみる。子どもの頃から、わたしの頬は厚い方だった。それでもやっぱり、痛いものは痛い。わたしは痛みに弱い。
 教室へ入ると一時間目はとっくに始まっていて、わたしは空気に溶け込み机と机の間を泳いだ。クラスメイトもそれを後押ししてくれるようで、パズルのピースがかちりとはまるように、わたしは席に着いた。夏服の下の肌着だけが、わたしの「神隠し」を覚えていた。

(続く)

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