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いつかの、(アウフヘーベン)

 雨には二種類ある。気持ちを憂鬱にさせる雨と、心躍らせる雨。今日の雨は、どちらかというと前者だ。自分を蔑ろにしたくなるような、沈める雨。その果てには自暴自棄が待っている。わたしはわたしを傷付けるため、雨に打たれている。

「そろそろ行きましょう、予定に遅れます」わたしは梛さんを急かした。舌の裏側に少しだけ嫌味を込める。梛さんは頷く。

 わたしたちは林の中を歩く。空は樹冠で遮られるから、雨はいくらか弱まる。そのぶん差し込む光は少なくなるので、時間感覚を失ってしまいそうになる。雨音と、登山靴が地面を踏みしめる音。それから、ジャケットとザックが擦れる音。あとは、この心臓の動悸。

 わたしはしばしば後ろを振り返る。梛さんは、俯いたままわたしの後ろを付いてきていた。学校で会うときには、あんなに深みを湛えた目をしているのに。今はその顔すら、わたしに見せてはくれない。

「きついかも知れないですけど、姿勢の悪いまま歩くと疲れが溜まるだけです」

 返答は無かった。これじゃ機械だ。歩くだけの、心臓を動かすだけの。

 どうして心臓はそこまで大切にされるのだろうか。ふとそんな疑問が浮かんだ。脳の方が、よっぽど重要なのに。たとえば心臓移植。脳を移植すれば、その人はもう、その人ではなくなってしまう。いつかの研究で、心臓が記憶を保持している、なんてものがあったけど、脳の方が遥かに記憶媒体としての価値は高い。電気信号と、伝達物質のやり取り。わたしたちの記憶はその集合体だと考えられている。今のところは。

 わたしの記憶も、電気信号によって書き換えられるのだろうか。既にそうだとしたら。そこまで考えて、わたしは笑う。後ろには息を切らした梛さん。おもしろいな、何もかも。

 言葉少なのまま歩みを進める。斜面は緩やかだが、その分本当に登っているのか、実感には乏しかった。木の根が段差を作る。所々、沢から流れ出た雨水が泥濘になっていた。薄暗い林の中。わたしは常に後ろへ注意を払っている。いつ梛さんが立ち止まってしまうか分からない。もしくは、足を取られて転んでいるかも。フードを被っている分、背後の気配はどうしても感じ取りにくくなる。せめて八合目まで。そこまで辿り着けば小屋がある。五合目で下るくらいなら、いっそそこまで登ってしまいたかった。もしくは、ここで帰るか。雨の日を選んだのは私自身なのに、同行者の安全を今更気にする。

 やっぱりこの辺で、はっきり聞いておこう。口を開くのは気が進まないが、どうしようもない。わたしは後ろを振り返った。梛さんはそれに気付く様子もなく、わたしに向かって歩いてくる。

「梛さん」

 仕方なく声を発する。俯いていた梛さんが顔を上げた。元々血色の悪い顔が一層青ざめて見える。今までに水死体を見たことは無いけれど、それはきっとこんな顔をしているだろうとわたしは思った。

「本当に、このまま登りますか」

 梛さんは言葉を発することにさえ苦労しているようだった。心臓は内心と無関係に全身へと酸素を送り届けるために絶え間なく脈動を続け、肺は際限なく酸素を欲する。自分の意思ではどうすることもできない自律神経系に、わたしたちは生かされている。

「当たり前だよ」

 その疲弊した様子からは想像もつかないほど、梛さんは柔らかな声色でそう言った。そしてまた、大きく肩で息をする。

「わたしには」

「わたしには、今の梛さんに、登頂できるとは思えません」わたしは語気を強めてそう言った。梛さんの口調が気に食わない。こんなときまで、平静を装うつもりなのか。「下りるなら、早い内に決めましょう」
 
 梛さんと目が合った。二メートルと五十センチ。わたしたちの適正距離。

「何のために、あなたはわたしを誘ったの」梛さんはわたしに向き合っていた。

 さっきまでは地球の重力に蹂躙されていたくせに。背筋はいつの間にか伸びていて、それは虚勢なのか、はたまた疲弊しているように「見せかけていた」だけなのか、わたしには判断しかねた。わたしは口を閉じたまま、梛さんを見つめていた。視界はややぼんやりとして、次第にフートから落ちる雨粒へとピントが合った。その奥で梛さんは話す。背景みたいだ。わたし対世界。生まれてこの方、そればっかり。他人は世界の一部で、それら全てとわたしは相対する。わたしの隣に誰かがいて、わたしと一緒に世界に向き合ってくれたら。もしくは、わたしの想像する「世界」の枠組みをぶち壊すような、誰かと出会えたなら。

 梛さんと初めて出会ったとき、わたしはそれを運命だと感じた。恥ずかしくなっちゃうくらい、わたしはドラマに憧れていた。物語の主人公にはいつだって宿命の出会いが待っている。そして、運命の再会。酔ってるよね。

「死に場所を探そうなんて、馬鹿みたいな大義を掲げないで」

「いつわたしが、そんなことを言いましたか」

「分かるよ」

「何が」

「あなたはわたしと、よく似ているから」梛さんはわたしに近付いた。「そう思わない……」

 膜の破れる音。一度背景になった梛さんは、再びわたしの前に、「主題」として現れた。似ているとはどういうことだ。この言葉を以前にも聞いた覚えがある。梛さんがわたしを見初めたのは、わたしと梛さんがよく似ているから。ばらばらでいましょう、と多様性を強要する空気とはてんで混ざり合わない、「同じ」という言葉。進化系統樹の根っこ、わたしとコウジカビが別の道を歩み始める前の話。わたしたちは全部一つの細胞で、膜が分離して、二つになって、そしてまた別れて。似ている、とは、過去を共有していることなのかもしれない。

「似ているって、梛さんは消えてしまいたいと思ったこと、あるんですか……」わたしは視線を返した。視線の間を無数の雨粒が通り過ぎる。それをわたしは見た。本来ならこんな会話を立ち止まってしている時間なんてない。登るか、下りるか。わたしが聞きたいのはそれだけだった。

「そりゃあるよ」いつもこう。言葉足らず。梛さんはそれを分かった上で、こうして曖昧な会話を繰り返そうとする。だからわたしは何も知らないまま、非対称性は大きくなるばかり。でも、だから、わたしは梛さんから離れられずにいる。まだ出会って一年も経たないわたしたちの関係は、恋人のように情熱的なものでは決してない。だからこそ、冷めることもない。わたしの身体に残った熱。雨に流れることのない熱。そのいちばん深いところを、わたしは知りたいのだ。

「今は、話したくはないかな」

「それって、ずるくないですか」

「ずるいって……」梛さんは当惑した振りをしている。

「梛さんばっかり、わたしのことを知ってるじゃないですか。それが、ずるいんです」
 
 梛さんはフードを下ろした。しとしとと降り続ける雨が梛さんの黒髪を濡らしていく。黒檀、というのはあまりにありきたりな比喩だ。漆器、漆がいいかな、とわたしは考えた。触れるとかぶれてしまう、漆の樹液。ぴったりじゃないか。

(続く)

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