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ランドマーク(22)

「お母さん」
「桃、切ってこようか」
「忙しいんでしょ」
「あなたのお母さんだから」
「いいの」
「もらい物なの」
「じゃあ」
「ひとつでいい?」
「ん」

 何度目かの試験が終わり、わたしはまた、無菌室のベッドへ横たわっていた。音も色もないこの部屋は、わたしの精神状態と似ている。〈塔〉という計画を、物語を書き綴るのがお父さんだとしたら、わたしはその主人公だ。主人公は作者の意図に沿って行動する。お母さんは進行役。わたしにこの世界のことを伝える。まんべんなく、あますところなく、必要なところを、必要なだけ。だからわたしはこの計画のすべてを知らない。知る必要がない、とお父さんは考えている。はず。
 もしわたしが父や母の立場だったら、自らの子どもを一人きりで宇宙へ送り出せるだろうか。かわいい子には旅をさせよ。そう口にして、笑ってみた。
 そういえば、何年かまえまで、両親とはよく言い争いをしたっけ。理由は覚えてないけど、とにかく泣いていたことだけは覚えている。声を出して、たたんだ布団に顔を埋めて、涙を染み込ませるみたいに。あの時はあんなに泣けたのに、今は涙が出ない。エレベータに乗ることを決めた日の夜も、初めて体に針を入れた日も、わたしは泣かなかった。強くなったわけじゃない。きっと頭のどこかが、麻痺してるんだとおもう。今だって、どうしようもなくさびしくて、悲しいのに。泣き疲れて眠ることもできない。こころはこわれて、元には戻らない。とにかく瞼を閉じる。扉の開く音が聞こえたけれど、わたしはそのまま、意識を遠くへやることにした。こんなやりかたでしか、わたしは抵抗することができない。

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