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ないものねだりと戦争

戦争はなぜ起こる?

人間の正義がぶつかり合うから?

過去の恨みがめぐるから?

意図的に戦争を引き起こす支配者がいるから?

どれも間違ってはいない。
しかし、根本的な原因は他にある。



「この世界は悪魔に支配されていて、そいつらを崇拝する悪魔崇拝者が悪魔と契約をして人々を騙してるんだ!」


本気でこう思っていたのが二年ぐらい前

「この世界はユダヤ金融資本、軍産複合体に支配されていて、この世で起きる大きな出来事は全て彼らが起こしているんだ!戦争も彼らの力によって意図的に起こされる!日本もいずれ巻き込まれるんだ!支配者を倒せ!


本気でこう思ってたのが半年ほど前

今となっては、もしこんなことを本気で言ってる奴が居たら、ただただ、退屈な奴だな〜と思って俺はまともに相手にしないだろうね。

でも、今でも思うんだが悪魔崇拝云々、ユダヤ金融資本云々は論外として、この世界がある程度、誰かの都合によって動かされていて支配者的な存在が居るって言うのは事実だと思うんだよね。

実際、
「異なるイデオロギーを用意し、争わせる」
という手法は愚かな人間を統治下に置くには非常に有効な手段だと思うんだ。

半年前ぐらいまで俺は、この世を支配する支配者を倒せば世界が良くなると本気で思っていた。たった1%の支配者を99%の我々が倒すんだ!だから、皆目覚めろ!ってね・・・

でも支配者が居なくなれば本当に世界は良くなるのだろうか?



ここで、少し思考実験をしてみた。

まず、この世を支配する支配者の存在に民衆が気づいたと仮定する。

そしたら次は、世界中を巻き込むようなかつてないほどの規模のデモ、あるいはストライキが起こると予想。

貴族や既得権益や政治家連中にヘイトが一点集中し、民衆によって袋叩きに。

人々は支配から解放され、意図的に作られてきた競争社会が終わり人々は競争することよりも協力を選ぶ。

そこで、人々は言う
「浅ましい支配者どもを倒したぞ!夢の精神文明!黄金時代の到来だ!」

やったぞ!これでハッピーエンドだ!

・・・
 
とはならないだろう。

確かに、支配脱却のカタルシスと世界をひっくり返した達成感で一時的に人の精神レベルが上がって、支配者が必要ない理想的な世界になる可能性はある。

だが、支配が作る負の歴史を人間はいつまで覚えていられるだろうか?何世代にも渡れば、あるいは支配からの脱却を選び行動を起こした世代が皆死ぬ頃には、また支配者が現れるのではないだろうか?

さらに、問題なのが
人間自体が持つ決して変えられない性質だ。

人間は
「管理されると自由を求め、自由を与えられると管理を求める」
という非常に厄介な性質を持つ。ないものねだりというやつだ。

他人を支配したがる者が出て来るだけなら、過去の歴史から学んで徹底して従わなければそれで済む話だが、支配したがる人間がいれば、支配されたがる人間も居るのだ。

これは人間に限った話ではなくて、おそらく、この世において「支配する者が居て、支配される者がいる。」という構図は覆すことのできない根本原理なのだろう。




そして、更に別の思考実験をしてみた。

例えば、あるところに村があったとする。そこでは支配者はおらず、所有の概念も希薄。人々は自分の財産を分け合って生活している。しかし、そんな場所でも喧嘩や殺人が起きないと断言できるだろうか?いや、その村の存続が長く続けば続くほど、そういった事件が起きる確率は収束していくだろう。

ある日、その村で殺人が起きる。
殺されたのは、誰しもが慕う村の人気者だった。そして、犯人も判明した。犯人もまた、殺された者と同じぐらい村の者たちに慕われる存在であった。
こうなると、数の違いはあれど、間違いなく犯人を制裁しようとする者と犯人を擁護しようとする者に二分するだろう。 

そして、またある日制裁派側の人間の一人が擁護側に守られる犯人を闇討ちする。

そうなると今度は更に、その後擁護側の人間が闇討ちをした制裁派の一人を復讐として殺害する。

以下、負の無限ループ。
こうなると思考実験は終了だ。

さて、この仮説は果たして正しいのだろうか?

この仮説を裏付けるものとして
卑梁の釁(ひりょうのきん)という中国のことわざがある。

「卑梁の釁」とは、小事から大事を引き起こすことの例えに使われる。

「釁」とは、隙間とか手抜かりという意もあるが、血祭や争いという意もあり、戦争を表わす。

そして、このことわざの元になった話は

呉の国境にある卑梁の子供と楚の国旗にある鍾離の子供が養蚕用の桑の葉を奪い合って喧嘩となり、それがやがて子供の親同士の喧嘩に発展した。
その結果、呉の農家が喧嘩に負け、家を焼かれた。
これに怒った卑梁の大夫が警備兵を出し、楚の鍾離の村を攻め立てた。
さらに、これを聞いて今度は楚の平王が怒り国軍を出した。
そして楚軍は卑梁を滅ぼした。
その後、呉と楚の仲は決定的に決裂し、
最終的に呉が滅亡するまで戦争は続いたのだ。

こういった話が裏付ける事実は
「人間が戦争をすることと、支配者がいることはあまり関係がない」
ということ。

もちろん、意図的に戦争を起こすことで利益を得るような輩が存在し、そういう者たちによって作られた戦争があったというのも事実だろう。
だが、人々にはそれに「乗せられない」という選択肢がある。
実際、戦争が起こる原因は支配者の策略以上に人々の感情によるものが大きい。

そして支配者は「それを利用した」だけ。
支配者がいようがいまいが、人間は勝手に感情に振り回され、勝手に争うものなのだ。

結局人間ってのは、あまり群れるべきではない。

協力するなとか、コミュニケーションを取るなとか、そういうことではなく、余計な帰属意識を持つべきではないということ。

人間が群れると、だいたいおかしくなるから



子供の喧嘩から大人同士の喧嘩に発展するところを見るに、おそらく人間ってのは、自分が大人の年齢になった時、子供の頃と比べて心も成長しているはずだ。と思い込んでいるが、大半の大人はこと精神面においては基本的な部分は子供と全く変わらないのだ。

本能的な部分を成長させられる人は、むしろ、少ないのだろう。

“戦争”と言えば大層な話に聞こえるが、実際やってることは単なる規模のでかい“喧嘩”。

つまるところ、戦争ってのはガキの喧嘩と変わらないわけだ。
どっちかがどっちかを叩く。それに腹を立て、今度は叩かれた方が叩き返す。

はい、以下負の無限ループ

しかしこれがガキの喧嘩なら圧倒的な力を持った大人が制することで終わりを迎える。
もっと言ってしまえば、喧嘩をしているのが二人ならまだ大人が出るまでもなく周りが止めればいい話。
しかし、周りが止めようともせずにどっちかに肩入れして、あろうことか加担したり相手を叩く武器を送ったりしようものなら、やがてそれは組織vs組織の争いになる。そうなると全滅するまで止められない。

最悪のパターンとしては本来、喧嘩を止めなければならない大人が感情的になり幼稚化してどっちかに肩入れあるいは両方を扇動する。という展開だ。“大人”が不在の喧嘩も組織vs組織と同じく全滅という末路を辿るだろう。


まとめると・・・
戦争とは、人間のないものねだりによって起こされる。

結局のところ、戦争は「暇つぶし」に過ぎない。
平和とは、言い換えれば退屈だ。

人間は常にないものねだりをする。
刺激的な日々の中では平和を求めるが、いざ平和になると退屈を感じ刺激を求めるようにできている。

平和は退屈だが、刺激は人間にとって快楽になる。
そして、より刺激的なものを追求した先にあるのが戦争なんだ。


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