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まだ、海は荒れていたー「凪待ち」感想ー

木野本郁男はギャンブルをやめ、恋人の亜弓と亜弓の娘の美波と共に亜弓の故郷である宮城県の石巻に移住し、印刷会社で働き始める。ある日、亜弓とけんかした美波が家に帰らず、亜弓はパニックになる。亜弓を落ち着かせようとした郁男は亜弓に激しく非難され、彼女を突き放してしまう。その夜、亜弓が殺される。(シネマトゥデイより)

いろんな見方ができる映画だと思う。その時点で映画として傑作だ。映画は小説と違って多くを語らず、映像表現で見せるもの。だからこそいろんな解釈のしようがあって、それが映画の醍醐味だとわたしは思っている。

カテゴライズ上、凪待ちはサスペンスやミステリーに属されるらしい。だけど見る人によっては被災地について思いを馳せる人もいるかもしれない。田舎特有の空気感を感じ取る人もいるかもしれない。家族の関係について考える人もいるかもしれない。わたしはギャンブルに依存してしまった1人の男と周りの人たちの関係性の話だと感じた。

香取慎吾演じる郁男はズブズブのギャンブル依存症だ。そこから抜け出したいと思っていて、新天地である石巻でやり直そうとしていた。しかし度重なる事件やトラブルが起きて、ギャンブルにどんどんのめり込んでいく。この度重なるトラブルというのが本当に絶望感に溢れていて、悲しすぎて、でもきっと人が堕ちていく時ってこういう感じなんだろうな。助けてくれる人はいて、手を差し伸べてくれる人もいるけど、それすら裏切ってしまう。それがすごく見ていて辛かった。そんな自分をろくでなしと捉えている郁男も辛かった。

また裏切ってしまうかもしれない恐怖から郁男は側にいようとする人から離れようとする。だけど、決して周りの人は郁男を見捨てない。何度裏切られても許して、側にいることを止めない。そんな人たちの存在が郁男を少しずつ変えていく。

間違っても許されること。
間違っても受け入れてもらえること。
間違ってしまう人を見捨てないこと。
間違ってしまう人の側に居続けること。

そのどちらだって、たぶん苦しい。
だけど、きっと、それは尊い関係性な気がしてる。

わたしの父もおそらくギャンブル依存症だった。診断されたわけでもなくわたしの想像でしかないが、仕事もせず、家庭の状況を顧みず、ギャンブルにハマってしまいその結果家庭を崩壊させてしまった父は依存症だったと言えるだろう。

そんな父がわたしは許せなかった。ギャンブルを繰り返す心理も理解できなかった。どうして私たち家族を放っておいてギャンブルに打ち込んでいたのか、離れて暮らす今では理由はもう聞けない。

だけど、映画を見て少し父を理解した。” こういう感じだったのかもしれない”と、感覚的にそう思えた。父に何が起きたのかはわからないけれど、ギャンブルに逃げたくなる何かがあったのかもしれない。おそらく、弱い人だったのだ、父は。

周りの人たちが郁男を許しているのを見て、わたしも父を許してもいいかもしれないと少し思った。父のしたことは未だに正しいとは思えない。家族に嘘をついて裏切ったということは、変えられない事実としてある。だけど、そういうことをしてしまった人だと今なら受け入れられる気がする。許す、というよりは受容することに近いかもしれないな。

失敗はきっと取り返せる。やり直せる。そういう世の中であってほしいとわたしは思う。だからこそ、失敗してしまった父を受け入れたい。受け入れたいと思ったことが大きな気持ちの変化だ。

父には郁男の周りにいるような人たちがいてくれているだろうか。失敗を寛容に許してくれる人たちが。そういう人たちと出会って、ちゃんと生きてくれていることをせめて願いたい。

映画を見た後、なんだかずっと泣きたい気持ちだった。どこからくる泣きたさなのだろうか。わからない。

この凪待ちのノベライズ版では「まだ、海は荒れていた」という一文で物語は終わるらしい。映画は凪が来るのを待っているような描写がラストシーンだった。そう簡単に凪はこない。平穏な日々もきっと来ない。だけど、待っていればいつかはやって来るかもしれない。荒れる海を乗り越えた後の凪のような日々が、郁男にちゃんと訪れますように。

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