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知らない、を、たのしむ


美術館がすきだ。

静謐な空気、人間ではなく作品の保全にあわせた湿度と気温(目薬とカーディガンは必須アイテム)、その作品をどういうふうに見て欲しいかを考え、工夫された作品の配置。
建造物じたいの美しさ。
一部の人気の企画展だと、静謐な…とまではいかないことが多いが、それはさておき。


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先日、東京国立近代美術館(MOMAT)で開催されているピーター・ドイグ展(館内の撮影が可能です!)を訪れた。

といっても、私は彼のことを知ったのはごく最近のこと、展覧会開催のツイートを見たことがきっかけだ。
「美術手帖」のTwitterをフォローしてから、そういうことがよくある。
いままで知り得なかったことに無意識のうちに触れられるのは、インターネットのすばらしいところだ。

数年前のわたしは、モネやゴッホなど、著名な近代西洋美術にしか興味がなかった。
しかし、モネとモダンアートを並べて展示した『モネ それからの百年』を訪れてから、現代のアートにも俄然興味がわき、初めて名前を聞くアーティストの展示にも、積極的に足を運ぶようになった。

何も知らないアーティストの作品は、何も知らないからこそ、先入観なく自由にみることができる。
色、かたち、これは木?、これは湖?これはお城?、こんなところに人影がある、このひとはなにをしているのかしら、この赤い色は何を示しているんだろう、この絵具は雪みたいですてき…
というぐあいに。


高木正勝さんは『こといづ』で、エチオピアに撮影旅行に訪れたときのことをこんなふうに書かれていた。

はじめから終わりまで、ずっとガイドが共に行動してくれ、一人では辿り着けないような場所に連れて行ってくれたり、村に入ったときに撮影しやすいように動いてくれたり。たくさんの幸運に恵まれて、一緒に旅ができてよかったと感謝しているのですが、ただひとつ、どうしても我慢できないことがありました。目にするもの、ひとつひとつに対して説明が入ってくるのです。「これは何年に建てられた建物で、こういう出来事があって」、一度はじまると止まらない説明がどしどし飛んでくる。最初のうちは、「ふむふむ、そうなのか」と真剣に聞いていたのですが、ほどなく、同行していた妻が、「ああ、だまって、勘違いさせて!!!」と、こっそり僕に耳打ちしました。そうそう、旅の醍醐味は「勘違い」なのです。「勘違い」したい、させておくれ!


だいすきなモネやセザンヌ、ミュシャ、アンリ・ルソーなんかについては、自分の中である程度知識が蓄積されている。そうした知識をフルに活用しながら鑑賞するのも、もちろん楽しい。

でも、背景を知らない芸術家の作品展に乗り込んで、さいしょの挨拶のパネル、作品のタイトルや説明のパネル、言語情報はなにもかもすっ飛ばして作品の前に立つと、先入観がない分感覚をとぎすませて受け入れることができて、自分の五感が存分にひらかれていくのを感じられる。



わたしだけかもしれないけれど、心を動かされる作品の前に立つと、心臓がぎゅっとなり、内臓がぜんぶ縮んだような心地がして、息が苦しくなる。
畏怖というのがもしかしたら近いかも知れず、でも、同時にいわゆる「フロー状態」に入ったような、完全なる没入感を得ることも多い。
画家の視点に一体化したような感じ。
どくどく、じわじわ、血流が激しくなるのを感じる。

その状態が終わって少し冷静になると、いろいろなものが細かく見えてくる。

この絵、中心に常緑樹があるけれど、左側が赤くて、右側が緑で、雪が降っているみたい。よく見たら小さく人がいる、家みたいなものも見えるし、もしかしたらクリスマスを迎えた村を描いているのじゃないかしら。温かみもあって…

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と、一通りいろいろな想像をしたところで、左側にある解説パネルに目を向けてみる。


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なんと、日本のスキーリゾートの広告!らしい。
母親が、昔は夜行バスでスキーに行き、また夜行バスで帰ってきていたという話をしていたのを思い出す。スキーが一大ブームになっていた時のことだろう。
わたしもほんの小さい頃、一度だけ連れて行ってもらったが、高所恐怖症なのでリフトがおそろしく、乗る前に大泣きして断念した。まさか遙かトロントの新聞にまで広告を出していたとは。

うわ、この絵は、東山魁夷みたいだ。
漂う静けさ、水面にうつる木々。
あの、一面緑の山の中に白い馬がぽつねんといて、それが水面にもうつっている、あれだ。タイトルがわからないけれど…。

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そうしたらどうやら、これは映画『13日の金曜日』のラストシーンが由来になっているらしい。
真ん中にぽつんと在るのは、白馬ではなく小舟。

でも、わたしは、やっぱり、東山魁夷を連想してしまう。


と、こういうぐあいに、勘違いと、妄想と、現実と、学術的見解と、そのあたりをぐるぐる、行ったり来たりする。
自分の解釈と、現実との往復運動。

作品と向き合ううちに、自分が普段どういうふうにものを見ているのか、というのが、ぽろ、ぽろとこぼれてくる。

わたしは、何も知らない場所に何の武器もなくほうりだされたとき、何と何を結び付けるのだろう。
何を思い浮かべるのだろう。

ていねいにものを見ることは、自分と向き合う作業でもある。
巨大なキャンバスの前に立ち、作品の世界に没入するのは瞑想にも近い。

自分が普段結んでいるものをほどいてみたり、切り離して考えているものを結び直したりしてみる。
むすんで、ひらいて。

そうしてほぐしているうちに、凝り固まった視点がほどけていくのを感じる。

体はマッサージでほぐすことができるけれど、精神は芸術に触れたときにやすらぐものだろう。

整体で骨の位置をもとにもどすみたいに、作品を見て視点の位置をすこし変えてみる。


MOMATの4階の窓からは、何百年も前に作られた皇居の石垣と、きっとわたしより年上であろう木々の奥に、ビル群が立ち並んでいる。その上には青白い月。

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ダムの写真をもとにこんなふしぎな光景を描いたドイグだったら、この石垣とお濠を、どんなふうに見るだろう。




見慣れた風景を前に、夢想してみる。


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