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アイアコッカ”わが闘魂の経営”3

その3                                  勝利と栄光の日々。”カーガイ”よろしく、新車開発に熱中した彼は社内で協力しつつ、名車”ムスタング”で大ヒットを勝ち取ります。さらに”クーガ”、”マークⅢ”とヒットを連発。総支配人といっても就任当初はぽっと出の身で、「われわれの失敗を期待している社員が少なくなかった」といいます。実際、急に伸びる者は警戒され、妬まれる事、世の常。

しかしこれを跳ね返して大成功を重ねた彼に、次第に頂点の座は近づきます。1968年には次期社長の第一候補に。その後GM引き抜きの社長就任、次いでトップ3人制の曲折を経て、1970年についにアイアコッカ社長が誕生します。社主・フォード2世の内示を受けた感想は「生涯最高のクリスマスプレゼントだな」こんなプレゼント、受け取れる者は世界にほんの一握りでしょうね。

絶頂                                社長の業績、処理した数々よりも、映画のように”情景”が浮かぶ言葉を引用したいと思います。「社長であった期間は、生き甲斐の日々であった」と綴るその頃。

「それは、酒が滝となって流れ、薔薇が咲きこぼれる日々だった」ランチをとる重役専用の食堂は最高級レストランと同じ。「毎日イギリスから空輸されてくるドーバー海峡の舌ビラメ、季節最高の美味な果実、極上のチョコレート、異国の花・・・・」この値段を計算したら、当時で一人104ドル

ウィキペディアにもあるとおり、当初は社主・ヘンリーフォード2世との関係は良好だったと書いています。「フォード2世が皇帝なら私は皇太子」「フォード2世は私を好いていてくれている」彼が社主を自宅に読んで食事会をした際、社主が彼の両親の前で彼を褒めちぎってくれたこと。ジョンソン元大統領に紹介してくれたこと。「私を子分と思い、人の前でも子分として扱った

不協和音 のはじまり                                 しかし蜜月は儚いもので、絶頂を綴るページをめくると、一気に社主への不安に暗転していきます。エドセルの息子である社主についてウィキペディアは、かつてフォード社が苦境に陥ったのを立て直した才を評価しています。そんな彼について、有能な人でも「お前はクビだ」の一言で弁明の機会もなく解雇したことが何回もあったといいます。「部下に居心地よい思いをさせてはならない」「ヤツらの意表を衝き、不安な状態にさせておけ」これが経営哲学だったそう。親の巨額の財産に恵まれた分、自身で稼いで生きたことがなく、失うことばかり心配する種族、と書いています。本当のところはどうなのでしょうか。

亀裂                                  事業について一言。当時は世界をオイルショックが襲い、小型車全盛になります。社運を背負った彼は、日本に来てあの、本田宗一郎氏と会談しています。それも自宅に招かれ、花火を見せてもらったうえ、小型エンジンとミッションを安価でフォードに提供する約束を得た!            小型車大ヒットを確信し、「炎のようになって」戻った彼を打ちのめした社主の一言は、「ジャップのエンジンを載せた車に、何が悲しくてフォードの名を?」の一言で消滅! NGワードですが。              暗転へ                               以降、ページは一転して暗澹の「」が続くことになります。            =続きます=




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