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テレビを見ない生活について

テレビを見ない生活。

昨今、私たちが興じることができるメディアとは多様に存在する。

新聞、雑誌といった古くからある紙媒体。

音だけで情報を伝えるラジオ放送。

ネットの普及により飛躍的に伸びてきたネット放送、動画投稿サイト。

そしていつだって話題の中心だったテレビがある。

今回はこのテレビについてがテーマである。

最近のテレビは面白くなくなった。昔みたいに攻めがないよね、攻めが。

なんてことを書くつもりは毛頭にない。製作者側も規制の中で、熟成きった中で、あれやこれやと考えていることを真っ向から否定することはできない。
この思考は逆の立場を考えたとき、糾弾されることを恐れたための防衛策かもしれないが・・・
どちらにせよここではその明言は避ける。

しかし、だ。

しかしながら、テレビを見なくなったのは事実である。

それはいつからか敢えてそうしている。

普段、あまりテレビ見ないという人に会うと僕は心のどこかで小馬鹿にしている節があった。
テレビをつけない生活はただ殺風景な空間きわまりなく、どこか浮世離れしているとさえ思っていた。

だから、僕は何かをするときいつもテレビをつけ作業をしていた。

雑誌を読むとき。昼寝をするとき。

ギターを弾くときはミュートにして映像だけを流す。

その行為はテレビを見るというよりはテレビをかけるといった感覚に近い。
曲をかけるように、テレビをかける。
そして気になった映像になれば作業を中断してボリュームを上げる。

小学生の頃、授業か何かの時。担任の先生から昨日は何時間テレビを見ましたか?という質問を受けた。
先生は
「1時間の人ー?2時間の人ー?」
と段階的に時間を増やし児童に挙手を願う。
確か、僕は5~6時間ほどの付近で手を挙げたと思う。

そんなに費やしたテレビの視聴時間だが、当時見たテレビの記憶はあまり覚えていない。
それでもそれだけの多量の時間を見てきたのは、テレビが好きだという本質ではなく、テレビによって生じる話題性である。
一つの番組を家族で見ることによって笑ったり、時には気まずくなるようなシーンを共有できるハコなのだ。
そして次の日、学校に行けば昨晩見た番組が話題に上がる。一つのコミュニケーションツールである。

話を現在に戻す。

現在は前述したようにネット放送が充実したことに加え、テレビでも衛星放送のチャンネル数は多数ある。
それだけ選べるものは増えたし、テレビが担うコミュニケーションツールとしての役割は弱くなったかに思う。

そして、特に意識を持たず、自分が必要としない情報をただただ掛け流す時間は効率的とは言えない。

集中力は妨げるし、目に入る必要過多の情報は脳へのストレスが大きい。

何よりも、今まで僕がテレビを掛け流す時に作業した行動が結果として未来に結びつかなかった今があるなら、その行動は控えるべきだと思った。
何事も実を結ばなかったのは才能だと嘆くより、行動を見直したい。
方法を少し変えただけで、集中力の入り方をスムーズに行うだけで、物事はより容易に身につくのではないかと思う。
そう感じたのは友人の中でもテレビを見ない人に限って、能力が高いと感じたからだ。

テレビを見ないようにするということではない。
テレビを見るときはテレビを見ることに集中する。そうでないときはテレビをつけないということ。

ながら作業はしない。

~しながら。テレビを見ながら。本を読みながら。

だけれども、僕は以前「ながら」というタイトルの曲を作った。

このまま。手を繋ぎながら。二人で歩きながら。

そういった日常の中の日常の愛しさは、しかしながら大切にしたい。

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