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カメラについて ~シャッターを切るときのドキドキ~

カメラを撮ることと、撮られること。

皆さんはどちらの方が苦手だろうか。

僕は撮ることの方が苦手である。

いや、苦手という表現は適切ではない。
正しくは照れるのだ。そして、タイトル通りシャッターを切る時ドキドキするのだ。

ファインダー越しに覗く対象物。それは男、女、動物に関係なく少なからずも気分が高揚する。

この高揚感が好きでカメラを手にするのだと思う。

もちろん、出来上がった写真を見て嬉しくなる時もあるし、レタッチをしてワクワクする時もある。

しかしながらそれは稀なことであり、多くの写真は選別作業でふるいにかけられ削除される。

そうなると、やはりカメラの醍醐味はシャッターを切る時、その瞬間であると思う。

では、なぜ苦手とも感じるほどドキドキするのか。

結論から言うと、それは「認知的不協和の解消」によるものであるという考えに至った。

認知的不協和の解消(アメリカの心理学者レオン・スティンガーによる)とはこうだ。

人は矛盾を嫌い、一貫した行動をする生き物である。

以下の例はメンタリストDaiGo氏の「なぜかまわりに助けられる人の心理術」から取り挙げる。

ある男性が川沿いを歩いていたら女の人が川で溺れていた。
それを見た男性は急いで川に飛び込み、女性を助けた。
その後、相手の異性を好きになるのはどちらであるかというと、それは男性なのだ。
男性は善意の気持ちで女性を助けたが、川に飛び込んでまで助けようとした行動は自分がその女性に好意を持ったからだと錯覚し、その行動に見合った自分の感情を持つのだ。
自分のとった行動に正当化を持つようになるということ。

また、こんな話もよく聞く。

女友達から彼氏の相談を受け、相談に乗っているうちに好きになるのは、いつも相談を受けた男性の方なのだ。
親身に相談に乗れば乗るほど、その子のことを意識する。そしてこんなにもその子のことを考えてしまうのは、きっと好きなのだという思考になるのだ。

そういえば、十代の頃、仲良くしてもらっていたバイトの先輩がいた。
その人は3歳年上で兄貴的な存在で色々遊びを教えてもらったし、恋愛の相談もよくした。

その先輩がこんなことを言っていた。

「自分が振り向いて欲しいと思う子に自分の印象を何も持たれないというのが一番あかん。
好きでも嫌いでもどちらかの振り切った感情を持ってもらうことが大切や。
相手の心の中に自分の存在を作り、意識してもらうこと。嫌いという印象を持たれていても、そのうちこんなにもあの人のことを考えてしまうのは、ひょっとしたらあの人のこと好きなんじゃないかなと思ってくれることもある。」

あの頃の僕はそんな行動には出れなかった。好きな子には好きになって欲しい。仮に好きになってくれなくても嫌われたくない。
先輩の言い分には納得することもあったけど、そんな風にはできなかった。

そして色々なアドバイスの中に具体的なアドバイスも聞いた。
好きな子と距離を縮めたいとする。
電話でもメール、最近ならばラインでもいい。
こちらから連絡をするのではなく、あちらからしてもらうようにするのだ。
口実は何でもいいが、暇だったら連絡してという曖昧なことではなダメだ。
一緒に遊んだ帰り、「家に着いたら連絡して」や、「電車降りたら電話して」といった具体的な作業が終わったら連絡して欲しいと提案した方が好ましい。

そして、念を押すようだが好きになって欲しかったら、何かしら理由をつけてあちらから連絡をもらうようにすること。
人は自分が取った行動に一貫性を持つ生き物だから、あの人に電話をするということは自分はあの人のことを好きなのかもしれないと思うようになるのだ。

ちょっと気になっていた人に自分から連絡して押して押して押しまくる人。
僕はそんなタイプだった。ちょっと好きだったのがめちゃくちゃ好きになり、舞い上がってしまう。相手との温度差が開いて自分だけが恋愛をした気になり潰れてしまう。
それはそれで素敵なことだけど殊の外、恋愛成就という観点からは遠のいてしまう。

当時の僕は感情100パーセントで一歩引いた考えは到底できなかった。何だかそれは外道に感じたし、心理操作をしている気がして卑怯だと思った。恋愛ゲームのような気がした。

でも今となってはそれは好きな人に振り向いて欲しくて努力している一つの行動だと思った。女の子が〇〇君は清楚系が好きだからという情報を嗅ぎつけて髪を長くし、髪の毛を黒く染める。
それと同じではないか。

その先輩が認知的不協和の解消という言葉を当時知っていたかどうかは知らないが、先輩の助言はとても理にかなっていた。

そして今日のテーマは何だったっけか。

シャッターを切る時にドキドキするということ。

つまり、シャッターを切るということは自分がファインダー越しに覗いた世界を認めているということ。
この世界を一枚の写真に閉じ込めたいという想いからシャッターを切るのだ。
だからファインダー越しに覗く被写体に好意を持っているということを認めてしまうことになる。

それ故、僕はシャッターを切る時ドキドキするのではないか。

「カシャ、カシャ」

(あー、この被写体好きだー)

「カシャ、カシャ」

(あー、この被写体好きだー)

僕の潜在意識の中でこのような呟きが駆け巡っているのではないか。

このエッセイ、やたら長くて、くだらないなと感じたにもかかわらず最後まで読んだあなた。

実は面白かったから最後まで読んだという一貫性を認めてしまおうではないか。


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