動物好きと子ども好きについて ~性格ステータスの数値化~
あなたは米が好きですか?
この手の質問をされた時あなたはなんと答えるか。
いや、なんと答えるべきか。
それは勿論、自分の気持ちを素直に答えれば良い。米が好きであれば「イエス」と答えれば良いし、仮にパンの方が好きであれば「ノー」と言えばいい。あなたが米派であろうとパン派であろうと、もしくはそれ以外であろうと答えるにはなんの差し支えもないはずだ。
仮にあなたが「パンの方が好きだ」と答えたとする。そうすれば質問者は「日本人はやっぱり米でしょ。」と言うかもしれない。
しかし、所詮はその程度だ。
あなた自身を否定するには材料が弱すぎる。
これが「動物好き?」という質問であればどうか。
仮にあなたが動物を好きではない場合なんと答えるか。
もし、僕が動物が嫌いだったとしても素直に嫌いとは言えない。
なぜなら質問者がこの質問をしてくる時点で「動物好き」であるのは9割型間違いないからだ。質問者は賛同を得るためにこの質問をしてくるのは見当がついている。
その質問者の価値観を捻じふさないために僕ならばきっとこう答える。
「可愛いとは思うけど飼いたいほどではない。」
これは模範解答ではないか。相手の価値観を尊重しつつも自分の意見を伝える。
「THE 日本人」である。だって日本人だからしょうがない。相手のことを傷つけたくないのだ。
でも、動物を嫌いな人は間違いなくいる。その理由としては「臭い」や「うるさい」といったところだろうか。実際、友人でこのような理由をあげた人がいた。それは、近所の犬がうるさかったり、動物園の匂いが嫌いであったり。 僕は動物が好きだがその理由もよく分かる。
ここまではまだいい。次が問題だ。
「子ども好き?」
これほどまでに強迫観念の強い質問があるだろうか。
他にこれ以上の質問があるのなら是非教えて頂きたい。
子どもが好きかと問われ、もし「ノー」を突きつけようものなら人格否定をされそうなほどの質問だ。
なぜなら「子ども好き=優しい」の数式が常識レベルで浸透しているからだ。
そしてそれ以上に「子ども嫌い=冷酷」というのが世間様の教科書には載っている。
だから、もし嫌いなんて言ったものなら、人でなし扱いを受けるだろう。
僕はこんな性格だからいつもこの手の質問には全力で「イエス!!」と答える。
しかし、僕は上記のような持論がありながらも実際に「子ども嫌い」という人に出会うと少し軽蔑する。
「子ども好き」と言う質問の固定観念に疑問を持ちながらも、実際に出くわしたら真っ先に先頭に立って否定するのだ。なんとういう性格の悪さだろう。
話を戻す。持論の話に戻す。
実際に飲み会等の席で「子ども好き?」の質問は度々聞く。その度に僕はこの強迫観念に襲われた。性格ステータスを数値化されているような気がしてげんなりするのだ。「ノー」を言えない空気に恐怖を覚える。そもそもその人物が「優しいかどうか」を直接本人に聞いて確かめるのは野暮ではないか。
例えば、「老人が重たそうな荷物を持っていたら手伝いますか?」や「迷子がいたらどうしますか?」
と質問をされたとき、質問者に「優しい人」と思われたいのであれば「老人には荷物を持ってあげて、子どもには保護者を探す」と答えるに決まっている。
そんな一目瞭然の嘘へつらいなどなんとでも言える。
そもそも質問だけで相手の優しさ度数を知ろうというところが気持ち悪いのだ。
そして、質問者は「子ども好き?」と先手をとることにより、「もちろん私は子ども好きで優しい人ですよ」アピールになっているのだ。このイチ抜けた感の脅迫観念に襲われる。
会話におけるテンプレートの出し合いによる茶番劇にうんざりする。
そんなこんなで僕は今まで子どもはかわいいし、動物が好きだという気持ちはありながらも素直に「イエス」とは言えなかった。
僕はこんなややこしい事を考えてしまう癖があるから子どもにも動物にも上手く接することができなかった。
次回、「動物好きと子ども好きについて 〜人間対人間〜」にて語ろうと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?