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行き場を無くした念はただの怨念だ。

700字ぐらい書いたところで躊躇なく消した。消した理由はただ一つ、後で読み返したくないと思ったからだ。

自分で読み返したくない文章なんて多分誰に取っても必要のないものだ。

僕は文章を書くのが好きなのだけれど、好きだなと思える瞬間は書いている時ではなく、後で読み返したときに「おもしろっ」というナルシズムさを感じれるところにある。

自分で書いていて、センスあるなぁとか悦に浸っているのだから気持ちが悪いなと思う。でも自分で面白いと思えないものはどんなに他人に評価されようが続けられない。やっぱり楽しいと思える要素がなければ楽しいとは思えない。

もちろん足らないところなんて山ほどある。他の人の文章を読んで自分にはないものや、自分にはない視点、知識、経験があると「あぁ、オレってば幼稚クサイね」なんて思ってしまう。それでホントにやる気がなくなる時もあるけれど、忘れた頃にまたこうして筆を手にする時は昔の自分が書いた文章を読み返して、「こいつ、おもしれぇな」と自画自賛するときだ。

となると、僕は誰かに向けて何かを作ったという経験はないのかもしれないと思う。

その昔、バンドをしていた時分に曲を作っていたこともあったがその時もそうだった。

その時に好きだった子をテーマにした歌や、ドメスティックな感情を歌詞にしたりもしたが、そのどれもが自分のための歌だったと思う。

俗にいう「これは彼女のために作りました」なんて歌は自分には到底理解できない。

前述した通り、その時に好きだった子をテーマにした歌は作ったことがある。でもそれは「その子を想って作った歌」というだけで決して「その子のために作った歌」ではない。


理由はただ単純に「その子のために作った歌」という名目がサブいというだけではなく、僕にはそれだけの覚悟がないのだ。

「その子のために作った歌」が仮にその子が受け取らなかった場合、気に入ってくれなかった場合、その歌はどうなるのだろうという不毛さが恐いのだ。

「その子のために作った歌」が喜ばれず行き場を無くしてしまったらその歌が可哀想で仕方がない。そもそも想いのこもった歌なんて「念」にしかすぎない。その念が行き場を無くした時は、それはもうただの怨念だ。

自分の想いは自分で大切にしなければ可哀想なのだ。

だから僕は歌でなくてもこうした戯言一つでも自分がかわいいなと思える想いを綴りたい。


あなたには届かなくてもいい。でもあなたのことを想ったことが嬉しくて愛しくてこうして形にしました。


不器用ではあるけれど、そんな文章を作りたいしそんな作品を作りたいなと思った。


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