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私の子育て卒業文集「育児は育自ではない」 ー私とチビナツの14年ー 【#創作大賞2023 #エッセイ部門 応募作品】

「子育てってお菓子作りに似てるよね」
これは、第1子の「お世話期」を共に乗り切った戦友(ママ友)の言葉である。
お菓子作りは、料理のように途中で味見して微調整することができないからだ。オーブンを開けてみるまで、これまでの工程が適切だったのかどうか分からない。そう、うまく子育てできたのかどうか、この小さい人が大人になるまで、私たち親には分からないのだ。
こんな暗中模索を続けて早14年になる。第1子(ここでは1号と呼ぶ)が14歳になり、第2子(同様に2号と呼ぶ)が高学年になった節目に、私は私の「子育て卒業文集」を書いてみようと思う。

3つの育児期
卒業文集といっても、もちろん親の仕事はまだまだ続く。節目の文集、小学校の卒業文集くらいに思ってほしい。
何の節目かというと、それは「育て期」の終わりである。
1号が小さい頃、私はこれから始まる育児を3つに区切って見通しを立てていた。
① お世話期
② 育て期
③ 見守り期
「お世話期」は読んで字のごとく、子どもの世話(生活介助)が中心になる時期だ。
とにかくこの時期の子どもは1人でできることの方が少ない。授乳、おむつ交換、着替え、入浴、離乳食など、親の手がないと生きていくことすらままならない。
少し目を離しただけで、誤飲、転倒などの事故につながってしまう緊張感満載の時期だ。スリッパを丁寧になめる、かりんとうだ!と言って犬の糞を拾おうとする、どういう目算で大丈夫と判断したのか分からない高さから飛ぶ、など子どもたちの仰天行動は枚挙に暇がない。気に入らないことがあれば癇癪を起すし、容赦なく他人を叩くし、所かまわず泣き散らす子どもたちに親は気の休まる時間がない。
そんな子ども特有の無邪気な姿は、確かに可愛く愛おしいものだ。だが、彼らの命と人生を預かる親にとって、それは時に悩みの種にもなる。目の前の危険回避という今現在の責任感はもちろんのこと、「このままこんな大人になってしまったらどうしよう」という未来に対する不安も同時に押し寄せてくるからだ。
冒頭で紹介した戦友の言葉には、こうした背景がある。
ただ、うちの場合、「お世話期」はトイレトレーニングをクライマックスに、1号2号とも幼稚園入学くらいを目処に終わった。
この時、私は心底ほっとしたのを覚えている。とにかく「生きる」という生物としての最低限のスキルを叩きこむ時期が概ね終わったからだ。そうはいっても、もちろんまだ目が離せる時期ではない。でも、2人の関心事が、スリッパや犬のうんちのみならず、周囲の人間関係や暮らし、将来のことの方へと広がりを見せてきたのだ。
つまり、「お世話期」に続く「育て期」は、「生きていく」ための最低限を一緒に考える時期ということになる。
前置きが長くなってしまったが、この「育て期」の終わりが見えてきたので、いったん大事なことを確認し直しておきたい、という思いで私はこのエッセイを書いている。これからはじまる最も長い「見守り期」に向けて、自分のふんどしを締め直すために。
つまり、このエッセイは、私の子育て奮闘記ではない。私が、親というものになるための奮闘記といった方がいい。妊娠してから今までの、私自身の心の記録だ。具体的に言えば、親になるために、親であり続けるために、私が乗り越えなければならなかった幼少期の私自身との対話の記録ということになる。それでもよければ、お付き合い願いたい。
それでは、本題に入ろう。

「育児は育自ではない」
私が肝に銘じ直したいのは、タイトルにしたこの言葉だ。
この言葉を、私は1号の妊娠が分かった時から、自分に唱え続けている。
まずはじめにことわっておくが、これは、子育てを通して親も一緒に成長してく、親も子どもに成長させてもらうといった話を批判する言葉ではない。
子どもと一緒に成長しようという親のスタンスには全面的に賛同しているし、私もそうありたいと思っている。
では、この言葉は何を意味しているのか。
それは、「自分の子どもを育てることで、幼い頃を自分を育て直してはいけない」ということなのだ。
私には、自分の幼少時代を一生懸命乗り切ったという感覚がある。ニュースになるようなハードな家庭環境では決してなかったが、小さい私はよく頑張っていたと思う。何にでも「なぜ?」を考えてしまう生来のめんどくさいパーツを持て余していた私は、自分なりに考えて考えて考えて、それで何とか現状を処理してきた。一人っ子の私は、超絶多忙な母親と趣味に生きる父親、クセの強すぎる祖母と無口な祖父という4人の大人に囲まれて孤軍奮闘していたので、幼い頃の記憶がめちゃくちゃ残っている。それはつまり、幼い私が、当時、家族に何を求めていたのか、今でもずっと覚えているということなのだ。しかも、その多くは叶わないまま、私は大人になった。
今さら、自分の育った環境に文句をつけたいわけでも、家族を責め立てたいわけでもない。まして、自分のことを被害者だと思っているわけでも決してない。育ててくれた両親にも祖父母にも感謝しているし、彼らに様々な事情があったことも理解している。問題は、周囲の環境ではなく、私自身の中にあるのだ。
1号を出産し、親になった私の中にまだ「泣いている幼い私」がいたのだ。
「泣いている幼い私」を「チビナツ」と名付けよう。1号が女の子だったこともあり、彼女を育てていくなかで、このチビナツと1号が重なっていくだろうことは容易に想像できた。
放っておいたら、私は、自分の娘を育てているつもりで、幼い自分を育て直してしまうだろう。その先には、1号ではなく、チビナツの要望を叶えようとする子育てが待っている。チビナツがして欲しかったことと、1号がして欲しいことを勝手に同一視して、それを喜ばない1号に怒ったり、失望したりするだろう。目の前の1号は、もうどこにもいないチビナツを満足させるための道具になってしまう。私は、きっとそうしてしまう。そんな恐怖が、出産をひかえた当時の私にはあった。
私は親になったのだ。だから、私はチビナツではなく、1号と2号の気持ちを考え、彼らの意見を聞き、彼らに寄り添い、彼らのしたいことを叶えてやりたい。でも、その奥にいるチビナツとも目が合ってしまう。1号2号も、チビナツも、みんな抱きしめてあげたいが、そんなことはできるのか。
でも、やらなければならない。そうでなければ、子どもの人生と自分の人生との区別がつかなくなり、子どもたちを自分の思う通りに支配しようとしてしまうだろう。時には高圧的に、時には懇願するように、手を変え品を変え、子どもの人生を通して私自身が生き直しているかのように、子どもの人生に深く関わろうとしてしまうかもしれない。
私はそれを、「見守り」とは呼ばない。
「支配」と「見守り」を混同しないように、私はチビナツを封印するのではなく、1号2号とは切り分けて、3人姉弟のように接していくことにした。

チビナツに助けられる ー「ごめん」じゃなくて「ありがとう」
1号と2号が「お世話期」にある頃、つまり彼らがまだ自分たちの思いをうまく表すことができない時期には、私はチビナツの思いを優先的に叶えてやることにした。彼らが自分の思いを表明するようになるまで、という期限をしっかり守ることを条件に。私が手作りした洋服を1号にも2号にも着せたし、1号にはヘアゴムやアクセサリーもいっぱい作った。チビナツが習いたかったダンスも習わせた。とはいえ、できるだけ本人の意見に耳を傾けるようにし、したくないと言ったことを無理やりさせることはしなかった。豹変するように怒ったり、こちらの機嫌をとらせるように促したりもしなかったつもりだ。
けれど、「ずっと一緒にいてほしい」というチビナツの要望は全面的に叶えてやることができなかった。私は大学院在学中に2人を出産しているので、彼らが幼い頃は家にいないこともあったし、家にいても一緒に遊べないことも多かったからだ。隣に住む夫方の両親と祖母の助けをかりて、私も1号2号も過ごしていた。
ただ、チビナツは私に思い出させてくれた。それは「自分の我慢が誰かの役に立っていると思いたい」という願望だ。だから、「育て期」に入り、「行かないで」「一緒に連れて行って」と私にすがりつく1号2号と離れるとき、私は「ごめんね」と言いたい気持ちをぐっとこらえて、「ありがとう」と伝えるようにしていた。「2人のおかげで、あーしゃんはお仕事ができるんだよ。いつもありがとう」と。「あなたたちの我慢は無駄じゃないんだよ」と伝えるために。
子どもの思いを優先するなら、自分のやりたい事を諦めるしかない。でも、私にそれはできなかった。というか、してはいけないと思っていた。自分自身の人生を細々とでも続けることは、まわりまわって子どものためでもあると思うからだ。つまり、自分の人生を子どものために路線変更したという感覚は、うまくいっているうちはいいが、何かがうまくいかなくなったとき、私の中で「子どものせいだ」というドス黒い感情に変わる確信があったのだ。こんなリスキーなギャンブルは、避けた方がいい。私には向いていない。
だから、どのみち一緒にいてあげられないのなら、自分の申し訳ない気持ちを軽くするために謝るよりは、少しでも1号2号の我慢にプラスの意味を上乗乗せして渡したかったのだ。このあたりは、チビナツの意見を大変参考にさせて頂いた。
子どもの頃、みんな昔は子どもだったはずなのに、どうして大人はこんなにも私の気持ちが分からないんだろうと考えたことがある。その結果「大人になると忘れてしまうからだ」という結論に至った。だから、私はずっと覚えていようと決めた。このチビナツの決意は、親になった私を何度も助けてくれたが、同時に苦しめもした。

チビナツに苦しめられる ー自分の子どもに嫉妬する
1号と2号にも辛い思い出はあるだろうし、親である私や夫に対する不満もたくさんあるだろう。けれど、多くの大人に見守られながら、こども中心の生活を当たり前に享受する彼らの幼少期を見ていると、チビナツの孤独が本当に不憫に思えてくるときがあった。
自分の子どもたちに、自分と同じ孤独を与えたくないと思って動いているのだから、それが成功している今の状況はむしろ喜ぶべきものなのに、心のどこかがもやもやしてしまう。無邪気に笑う子どもたちを見て安心する一方、無邪気に泣いてわがままを言う子どもたちを、うらやましいとさえ思ってしまう。チビナツはもっと頑張っていたし、もっと我慢していたのに、あなたたちは贅沢だ!と怒りさえ覚えてしまう時があった。
こういうとき、私はこの自分の感情に何と名前を付ければいいのか、しっかりと見極めるようにしている。目を背けず、向き合って、その結果、私はこの感情を「嫉妬」と呼んだ。
この結果には、自分でもほとほと参ってしまった。まさか、幸せになるようにと自分が育てている子どもの幸せに、当の自分が嫉妬するとは。

「嫉妬」の源泉はどこだ?
このいかにもねじれた感情だけを見ると、親としての自分の足りなさに失望して、親失格だと自分を責めてしまいそうになる。でも、そんな自責よりも先にやらなければいけないことがある。それは、このねじれた感情の源泉を突き止める、ということだ。
子どもをちゃんと見守れる親であり続けようとする親の道にあって、この手の「嫉妬」は妨げにしかならないだろう。だって、この「嫉妬」の先には、こどもの不幸を喜ぶ未来だってあるのだから。
だから、この「嫉妬」が湧き出てくる源泉を、早々に見つけて塞がなければならない。どうやったらこの感情を抑えられるのかというハウツーの問いは、その後ゆっくり考えればいい。
では、この「自分の子どもの幸せに嫉妬してしまう」という現象は一体どこからやって来るのだろうか。

私を嫉妬に駆り立てているのは、チビナツだ。親としての私は、確かにチビナツを持て余していた。
もうどうしようもない過去の時間を、もうどうしようもないのに忘れさせてくれない。もういいことにして蓋をした辛い思い出を、こじ開けてくる。チビナツは、なぜそんなことをしてくるのか。忘れた方が、封印した方がいいと多くの人が言うだろう。いつまでも過去に囚われていてはいけないと、いつまでそんなことを言っているのかと、お説教したくなる人だっているかもしれない。時間が解決してくれると励ましてくれる人もいるだろう。
でも、そういう対処療法を長年やってきた結果がこれなのだ。
チビナツは、消えてなくならない。それなら、チビナツの要望をとことん聞いてやろうじゃないか。

「誰かに知ってもらう」ということ
一般的に考えるなら、私は私の親に自分の頑張りを褒めてもらいたかったのではないか、と予想することができる。いわゆる承認欲求だ。私はこれを、検証してみることにした。つまり、今までちゃんと話してこなかったチビナツの頑張りを、自分の両親に話してみたのだ。けっこう勇気のいることだったが、これは自分の子どもたちのためでもある!という思いが背中を押してくれた。
両親はチビナツの奮闘ぶりを聞いて、様々な反応を示した。褒めてもくれたし、共感してもくれたし、謝ってもくれた。でも、私の心がもっとも晴れたリアクションは「今まで知らなかった」というものだった。つまり、今まで知らなかった両親が「知ってくれた」ということがうれしかったのだ。チビナツの頑張りが私以外の誰かに届いた!ということだけで、確かに落ち着いていく自分がいた。
これを機に、私は昔からの友人たちにも、チビナツの抱いていた思いを話すようになった。
こうしたことから考えるに、どうやらチビナツの暴走は、「自分の頑張りや孤独が誰にも知られていない」ということに起因するのではないかという説がもちあがった。幼い頃はもちろん、自分の現状を適切な言葉にすることができなかったわけだし、もう少し大きくなってからも、家庭内のことやそれについての自分の複雑な思いなどは誰かに話すようなものではないと思っていた。だから、チビナツの奮闘をよく知るのは、私しかいなかったのだ。にもかかわらず、私はチビナツの頑張りを過去のこととして押し流そうとしていた。そうか、本当は、私はチビナツの頑張りをなかったことにされたくなかったのか。どうりで、忘れる、封印する、といった技には効果がなかったわけだ。真逆のことをしていたのだから。
でもそれは、他者に承認してもらたい、という種類のものとは少し違っているように思えた。誰かに話せば、もっと辛い人は他にいっぱいいるよ!というように、チビナツが否定されることもあるだろう。また、逆に同情されたり、励まされたりすることだってあるだろう。でも、そのどれもがチビナツの求めているものとは違う気がした。それは、両親の反応に対する私の心の動きをみても明らかだ。彼女が求めているのは、そういう他者を巻き込んだ相対評価ではない。なら、私は誰に知ってほしいというのだろうか。
それは、今の私自身だった。チビナツに蓋をし、すべてを仕方のないことだったとして片づけてきた私自身こそが、私自身にもっと耳を傾けなければならなかったのだ。チビナツの奮闘ぶりを知るのは、私しかいないのに、その私が一番目を背け続けてきてしまったわけだ。これでは、チビナツも立つ瀬がない。

チビナツを泣きやませるために
こうして考え続け、私はやっと2つのことを言葉にすることができた。
まず一つ目は「私、よく頑張ってたよな」、だ。大した事ではないように思われるかもしれないが、私にとっては大したことなのだ。幼い頃から自分の思考の仕組みを研究してきたが、実のらなかった努力や頑張りを、私にはそのまま肯定することができないというクセがあるらしい。結果がすべてだとまでは思っていないが、あくまでそれは叶わなかった頑張りなのだ。だから、徒労に終わったチビナツの頑張りも、私はどこか認めていなかったのだろう。頑張ったけど…っていう形でしか認められていなかったのだと思う。つまり、必要だったのは、自分自身によるチビナツの頑張りへの絶対評価だったのだ。
それともう一つは「私は悪くない」、だ。家族がうまく機能していなかったことを、私の頑張りが足りなかった、あるいは私のやり方が間違っていたからだと、私はどこかで責任を感じていた。でも、違う。それは、子どもだった私の仕事ではないはずだ。私は守るのではなく、守られるべき存在だった。私の孤独は、私のせいではない。周囲の大人たちに責任があるのだ。
ここだけ読むと、ただの責任転嫁のように思われるかもしれないし、人によっては何を当たり前なことを言ってるんだと不思議に思うかもしれない。でも、自責傾向のある私にとって「ちゃんと他人のせいにする」ことは至難の業なのだ。だって、他人のせいにするより、自分のせいにする方が楽なのだから。
つまり、私は、チビナツの頑張りを「失敗」と評価し、どこかで彼女を責めていた。だから、チビナツは泣いていたのに、私はそれを無視し続けてきてしまったのだ。

そんなだから、家族がうまく機能するように振るまわない子どもたちにイライラし、空気を読んだり我慢したりしようせず堂々と自分の要望を主張し、それがまかり通っている我が子たちに「嫉妬」していたのだ。
私はもっと頑張っていたのに、この子たちばっかり「ずるい」。
「ずる」をしている人など一人もいないのに。そればかりか、まっとうに頑張っている人しかいないのに。
これは私の経験則だが、実体のない「ずるい」に紐づく「嫉妬」は、いい結末を連れてこない。原動力になるような「嫉妬」は大事にするべきだが、この類の「嫉妬」の蛇口は閉める必要がある。
先に言った2つの思いをちゃんと言葉にできたことが、チビナツの涙を止めるための鍵になった。

こんなにも自分と向き合わざるをえないとは…
自己肯定感という言葉を最近よく目にする。子育ての文脈ではもちろん、大人の自己啓発などの文脈でもよく出会う。確かに、自分で自分を肯定するということは、自律した人間になるために必要だろう。
ただ、今回、その肯定する自分が、まさか幼い頃の自分であったとは思いもよらなかった。
自分の人生に親という役割が乗る前、私にとって自己肯定感とは、今の自分に対してのものだった。でも、自分が親をやらねばならなくなったとき、私は幼い頃の自分、つまりチビナツと、ちゃんと向き合う必要に迫られたのだ。なぜなら、目の前の子どもたちとチビナツがリンクしてしまうから。だから、自分の幼少時代と、ちゃんと和解しなければならなくなったわけだ。そのためには、チビナツの孤独と奮闘そのものを認め、肯定することが必要だったのだ。

勘違いしないでほしいのでことわっておくが、辛い幼少時代を抱えたままではいい親になれない、ということが言いたいわけでは決してない。ひとそれぞれに様々な幼少時代があるはずで、なかには、思い出すことさえできないような辛く大変な幼少期を過ごした人だっているだろうし、他人からすれば大袈裟なと言われるようなことが、魚の小骨のようにずっとひっかかっている人だっているだろう。そもそもすべてに共通する対応策なんて存在しないし、その人の性格や状況によって最善策も変わるはずだ。解決しない、という解決策だって人によってはあり得るだろうし、向き合わずに封印いしてしまうことが最善策になる人だっているはずだ。
そしてそれは、他人が外野からずかずかと踏み入っていいような領域の話ではない。やわらかくて傷つきやすい、その人の芯にあたるような所の話なのだから。だから、私はこのエッセイを通して、自分と向き合うことを推奨しているわけではない。
ただ、私の場合には、親になっていく道行で、そうした自分の領域に踏み込む必要があったというだけなのだ。
だから、私が言いたいのは、いい親になるには自分の幼少期に決着を付けなければならない、という一般論ではなく、親になろうとすることは、こんなにも自分と向き合うことだったのか、という個人的な驚きなのである。色々想像していた親道(親になる道)のなかで、これがもっとも意外だった。そして、私がもっとも長く取り組んだことだった。

チビナツの今
今となっては、親が自分自身ととことん向き合い続けることが、子どもと向き合うことにつながると私は思っている。でも、親をはじめる前は、子どもと向き合うことこそが親の仕事だと思っていた。もちろん、それはその通りなのだが、それを実行するために、その基盤として、私にはチビナツを抱きしめることが必要だったのだ。

今や、子どもたちも成長し、特に1号は「見守り期」に突入しはじめている。
どんなお菓子が焼きあがるのか、誰にも分からない。
ただ、私は親になることを通して、自分に対するピントが合ってきたような気もする。自分自身の解像度が上がった感じ。そう考えると、育児は育自であってはいけないが、やっぱり育自なのかもしれない。
ということは、このお菓子は「成人」というタイマーで焼きあがるものではないのかも。もしかすると、私もまだまだオーブンの中なのかもしれない。


おわりに
ここまで、私とチビナツの14年を書いてきた。「私の子育て卒業論文」と銘打つなら、自分の子どもとの子育てのエピソードを書くのが筋だろう。今回のように、親が自分のことばかり書くのはお門違いなのかもしれない。でも、私の親としての14年は、確かにチビナツとの濃密な時間でもあったのだ。だから、今回、私はどうしても1号2号ではなく、チビナツを主人公してやりたかった。チビナツの頑張りをなかったことにしないためにも。自分自身とちゃんと和解するためにも。
もちろん、1号2号のエピソードもたくさんある。それについては、彼らが公開することを許してくれるなら、またの機会に書こうと思う。つまり、「生きていく」ための最低限を一緒に考える「育て期」に、どんな関わり方をしていたか、ということについてだ。でも、またそれは別の機会に。

チビナツ研究を通した自分研究も、こうして言葉にできたことで、やっと一段落した。
子どもたちの後ろで泣いていたチビナツは、今、私のとなりで一緒に子どもたちを見守ってくれているような気がする。
さあ、子育て「見守り期」。今までは、子どもたちの巣を整備するのが、親の仕事だったのに、これからは巣立ちをアシストしなければならない。それは、自分が子供たちのために作ってきた居心地のいい巣を、親という拠り所を、子どもたちが気持ちよく捨てられるようにするアシストに他ならない。「見守る」とは、そんな逆説的なアシストだ。ここからが、親道の正念場。
チビナツの年齢を追い抜いた子どもたちが、1人の人間になっていく過程を、チビナツと手を取り合って見守っていきたい。

#創作大賞2023 #エッセイ部門

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