「大丈夫」という言葉、僕は好きになれない
なんの前触れもなく、後輩がうつ病になった。いや、何かしらの兆候はあったのだろうが見落としてしまっていた。なんで気付けなかったのかと考えながら歩いていた。
事故が危ないからと遊具が撤去されて、滑り台とブランコと鉄棒だけが残った公園。「先輩、私もう限界です」「なんか疲れました。仕事辞めたいです」そう言って去っていった後輩たち。取り残された遊具と自分が重なる。
学生時代の勉強とは違って社会には正しい答えなんてない。
公園から自宅までは目と鼻の先の距離だが、家に帰る気にはなれなかった。ブランコを漕ぎながら、あー、どうすればよかったのかなと考えていた。
「27歳にもなってブランコってガキじゃん。物思いにふけた感じだして、なんかのドラマの影響かな」と背後からふいに声をかけられた。急だったから心臓バクバクさせながら振り向いた。おそらくコンビニだからいいかなーと部屋着のまま家を出たのだろう、20代前半くらいの女性がコンビニの袋を下げて立っていた。だが、見覚えがなかった。
「あ、すみません… 人違いでした」と恥ずかしそうに言われた。
「ははは」と思わず声を出して笑った。
「そんな笑わないでくださいよ。こっちは穴があれば入りたいほど恥ずかしいんですよ」
「こっちもいきなり知らない人にガキって言われてびっくりしたよ」
「ほんとごめんなさい」と頭を深々と下げた。
コンビニの袋をガサガサして、「お詫びです。良かったら呑んでください」と缶ビールを2本出してきた。
「おー、ちょうど呑みたいと思ってたんだ。良かったら一緒に呑もうよ」と言って、缶ビールを1本だけ取り、もう1本を彼女に渡した。
「いいですね!呑みましょう」といい、プルタブをあけて乾杯をする。
「落ち込んでいるように見えたんですけど、大丈夫ですか? 私で良ければ話聞きますよ」
「だ、大丈…」大丈夫と言おうとして、口を噤む。
表情が暗く傍目からみて、大丈夫な状態ではないのは明らかだが、大丈夫ですと後輩から言われたシーンが頭をよぎった。
「大丈夫って言葉、好きになれないんだよね。大丈夫って言われると、これ以上近寄るなと境界線を引かれたように感じるんだよね。ほら、殺人事件の現場にKEEP OUTのテープが貼られるような感じ」
「あー、わかります。大丈夫って言われるとこれ以上パーソナルスペースに入って来ないでって言われたように感じますよね!」
缶ビールでほろ酔いになったのか、彼女が聞き上手だからか、はたまたその両方か。僕は後輩がうつ病になったこと、何もできなかったことを話した。
彼女は時折、自分の胸ポケットを気にするような素振りを見せながらも僕の話を相槌を打ちながら聞いてくれた。
「しかも一人じゃないんだよ。二人もうつ病になってしまった。一人目のときは全く気が付かなくて… 同じことを起こしちゃダメだと、仕事でミスして落ち込んでいる後輩がいたら声をかけるようにしてはいたんだけど… 何もできなかった…」
ふと我に返り、「ごめんね、初対面なのにこんな重い話して」と謝った。誰にも言えなかったことを初対面の相手に話していた自分に驚いた。
「こういうのって関係性が全く無いほうが意外と話しやすいんですよね。職場の人だと面倒くさい人だと思われたら嫌だな、仕事で影響が出ないかなと余計な気を遣って言えないけど。初対面の私には話しやすいでしょ」
確かに彼女の言う通りだ。彼女に話したことで胸の奥に仕舞っていた想いが溢れてきた。話すことで少しは楽になるかと思ったが、改めて自分は何もできなかったという無力感に襲われる。
急に黙り込んだ僕を見て、「そんなに自分のことを真剣に思ってくれる人なんていませんよ。その後輩は幸せ者ですよ」という。
「そうだといいんだけどな」
「後輩のこと気になりますか? 本人に聞いてみます?」と言うと、胸ポケットからスマホを取り出し、「美穂ちゃんいい先輩持ったね」といった。
突然の出来事に、何が始まったのか全く頭が理解できない。
「先輩!お久しぶりです!」と手を振りながら後輩が公園に入ってきた。片手にスマホ、もう片方の手にコンビニの袋を下げて。
「ひ、久しぶり。え、これどういうこと?ふたりは知り合いなの?」
突然の展開についていけない。
そんな僕を見て、二人はドッキリ大成功と言って笑い合っていた。
久しぶりに後輩の笑顔をみて、ホッとした。
「二人ともすっかり仲良くなってますね。私も呑みたくなって買ってきました」と言って、コンビニの袋から缶チューハイを取り出した。
缶チューハイのプルタブを開けながら、「先輩のこと気になってて、紗季ちゃんに協力してもらったんですよ」と言った。
「そういえば、自己紹介まだでしたね。美穂ちゃんの友達の紗季と言います」と言って右手を差し出してきた。
先輩の佐々木ですと言って握手に応じる。
「先輩たちの分も買ってきたんですよ。改めて乾杯しましょう」と言って、コンビニの袋を広げてきた。僕は缶ビールを、紗季は缶チューハイを取り、乾杯をした。
まだ困惑しているのが表情に出ていたのだろう。美穂は僕の顔を見て笑い、「先輩ちゃんと説明しますから」と言った。
缶チューハイを一口呑んで、「実はですね…」と事の経緯を語り始めた。
「仕事でミスして、必要以上に注意されて、次はやらかさないように気をつけても、同じミスをしてしまって…落ち込んでいる姿見せるのは良くないと思って、なるべく笑顔でいようって思ってたんですけど…」と言って言葉を切る。
俺と紗季は美穂の次の言葉を待つ。紗季はカバンからハンカチを取り出し、美穂に渡す。
美穂はありがとうと言って受け取る。
「ある日休憩室に入ったときに偶然聞いちゃったんですよね。『あの子全然反省してないよね』『ヘラヘラ笑って、成長する気ないよね』って言っているところを。反省しているのにそう受け取られてるんだって…ショックでした…」
美穂は缶チューハイを一口呑んでまた話し出した。
「彼氏に愚痴を聞いてもらって、どうにか精神を保っていたんですけど、『帰ってきたらいつも愚痴ばっかり。こっちも仕事で疲れてるんだよ』って言われて振られちゃったんですよ…」
紗季は美穂の背中をさすりながら「辛かったね」と言った。
「大丈夫じゃないって言ったら…自分がダメ人間なような気がして…」と声が途切れ途切れになりながらも言葉を紡ぐ。
僕が大丈夫って言われると距離を感じると話していたのをちゃんと聞いていたのだろう。
美穂の話を聞いて、自分のことしか考えていなかったことに気付き恥ずかしくなった。
後輩のことを考えているようで、実は自分のことだけだった。もしあのとき、今のように素直に打ち明けてくれたら満足してたのか。もし打ち明けてくれたとして、何もできなかったんじゃないのか。
心の中で思っていたつもりだったが、酔いが回って自制できていなかったのか、声に出ていたようだ。
「そんなことないですよ。自分を責めないでください。先輩と会話してたときは嫌なことを忘れられて、救われてました!これをどうしても直接伝えたくて」と美穂は俺の顔をしっかりと見ながら言った。その目は真剣そのものでお世辞で言っているわけではないことが伝わってきた。
「人伝えで先輩が落ち込んでいるってことを耳にして。先輩が私のこと気にかけてくれてることは本当に嬉しかったんです。それをどうにか伝える方法ないかなって考えてるときに、紗季ちゃんと話す機会があって」と言って紗季の方を見る。
「直接伝えたいけど、なんかいい方法ないかなって相談されて」と紗季が言う。
「実は私の家もこの辺りなんですよ。先輩がよく公園にいるところ目撃してて。そしたら紗季ちゃんが『私に任せて』って」と言って、ドヤ顔をする。どうやら紗季ちゃんのマネをしているのだろう。
「私ホントはもっとおしゃれなんですよ。ちょっとコンビニで買い物するだけだからいっか、というテーマでわざと部屋着なんですよ」と少し早口で言う。興奮気味なのが伝わる。
「もしかして俺に話しかけたのもわざと間違えて声をかけてしまった風を装ったの?」と聞く。
「そうですよ!わざとです。本当に恥ずかしかったです」と言う。
あのときの恥ずかしさを思い出したのかほんのり頬が赤いような気がする。
「私電話越しで聞いてたけど、紗季ちゃん女優だなーって思いましたよ」と美穂が笑いながら言う。
それに対し、もぉーと言って紗季が美穂を小突く。
「え、ちょっと先輩!大丈夫ですか?」と美穂が少し慌てた感じで聞いてくる。
気がつくと僕は泣いていた。突然の涙に自分自身困惑した。
「なんかホッとして… 日に日に笑えなくなって、目の隈を隠そうと化粧とマスクで顔の大半を覆っていたのを思い出してさ… 今は心から笑えるようになったんだなって…」
「やめてくださいよ…こっちまで泣けてくるじゃないですか…」と言って紗季から借りたハンカチで涙を拭う。
「あの頃のことを考えると今でも嫌な気持ちになるんですけど、距離を置けて本当に楽になりました。まあ、まだ薬は手放せないんですけどね」と言って笑ってみせる。
辺りはいつの間にか暗くなっていて、公園の外灯が僕ら三人を照らす。
どこかで花火大会をやっているのか、ドーンという音がする。
スマホを見ると20時と表示されている。
「そういえば今日観光ホテル付近で花火大会でしたね」と紗季が言う。
「今度三人で花火大会行きましょうよ。確か来週もありましたよ」と美穂が提案をする。
「今度はちゃんと化粧して浴衣で来ます!今日のリベンジです」と紗季が笑いながら言う。
「二人の浴衣楽しみにしてるよ」と答える。
じゃあまた連絡しますねと言って今日はお開きとなった。
人はみな、大なり小なり様々な問題を抱えながら生きている。平静を装いながら。時に傷つきながら。何が正解なのか。多分この世に正解なんてものはない。その都度その都度迷いながらも考えていきたい。
なんて二人が帰ったあと取り残された公園で一人、もの思いに耽っていた。
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