『大きな魚とスニーカー』②
4
降りしきる雨の中、傘をわすれた僕は地下鉄へ駆け込んだ。
次の電車まで五分程度。
乗車列に並んだ。
列といっても、僕の前に一人の男性がいるだけだ。
好ましい雰囲気を持ち合わせており、年齢はおそらく三十歳前後といったところ。
IT企業に勤めているのだろうか。
勝手に妄想を巡らせる。
カーキ色のチノパンに、品質の良い麻で織り込まれた白シャツ。
手入れの行き届いた真っ白のスニーカーは、ちょっとしたファッション雑誌を見ているようだ。
ジェルで濡れた端正な短髪。
それに、あっさりとした顔立ちに細身の金属縁のメガネがとてもよく映えている。
彼にはすでに家庭があるのだろうか。
想像してみる。
飛び抜けた美人ではないが笑った時に細める目が素敵な奥さん。
色白の少し細った女性だ。
そして、夫婦には子供もいる。
それもまだ3歳の。
家で妻と共に父の帰りを待っている。そしてふと、僕は思う。
彼を今、僕が、この線路に突き落としたら。
身体中の血管に銀色のゴキブリの艶に似た、淀んだ液体が混じった気がした。
しかし、血とうまく混ざり合うことなく、僕の体内で溜まっていく。
喉の奥の方から、吐き気がこみ上げてくる。
僕は引き剥がされるように乗車列から外れた。
フォームから一番遠い壁際でじっと自分の体を抑えておくことに必死だった。
殺意があるわけではない。
好奇心などでもない。
ただ、もし。
もしもそうすれば。
その先どうなってしまうのか。
間違いなく、僕はその場で取り押さえられるだろう。
そして、彼の家族は悲しみに暮れ、僕を憎むに違いない。
僕の親はなんて僕に声をかけるだろうか。
友人は。
あの彼女は。
僕をどう思うのか。
現実にその先の物語を作ろうとする自分に怯えていた。
そんな僕を、僕は壁際でじっと抑え込んでいた。
何事もなかったように、電車は到着する。
僕はその電車を見送った。
僕は古びたベンチに腰をかけ、泥を吸ったスニーカーを脱ぎ捨てる。
次の電車は十三分後だ。
5
いくつもの長方形をした箱の水たまりが部屋の中に浮かんでいる。
私はいつものアクアリウムショップに来ていた。
その中で観賞魚たちはふわふわと泳いでいる。
閉め切られた店内は、外とは別空間のように感じられた。
室内はそれほど広くはないが、整然とし、余すところなく掃除が行き届いている。
いつもの店主が、入店した私の気配を感じ、目線を上げたがまた手元の文庫本に目を落とす。
年季の入った銀縁眼鏡をかけた女性である。
営業中にもかかわらず、私が見る限りいつも文庫本を読んでおり、全く接客らしい接客をしない。
独特な店構えと雰囲気のせいか、毎回来店したときに私以外の客に遭遇したことはない。
クーラーと絶えず稼働しているエアポンプのモータ音だけが床を這っている。
約束の時間までまだ余裕がある。
お気に入りの水槽の前へ歩み寄り、少し腰を曲げて覗き込んだ。
何十匹かの観賞魚が賑やかに浮かんでいる。
万華鏡が弾け、混ざり合い、浮き沈みしているようだ。
餌を待っているのか皆一様に口を広げ、ぱくぱくと動かしている。
店主は文庫本から目を離さない。
その中で、水槽の底でみすぼらしい1匹が地面を見つめ、餌でも何にでもないものを探している様子だった。
私は、こんこんと、人差し指で水槽を弾いた。
そして、大丈夫だよ。
と独りごちった。
しかし、一匹を除き、そのことに気を止める魚はいなかった。
腰を起こし、静かに深く一呼吸置いて私は天井を見上げた。
濡れたスニーカーから靴下に湿り気が伝わってきて、気持ちが悪い。
6
もともとサカナは嫌いだった。
人間以外の動物に僕は興味がないのだ。
人間以外の生き物に時間をかけたり、思いを馳せたり。
僕には理解し難いヒマつぶしである。
彼女はいつも大きなサカナばかり見ていた。
水族館で大群のサカナを見て男女が騒ぐ。
あんなもの恋愛の幻想を増幅させる社会的装置でしかない。
これは、狭量甚だしい僕の持論だ。
けれど、彼女の瞳を泳ぐサカナは美しかった。
黒目の大きな瞳。
彼女の透き通った白磁のような肌。
記憶の薄暗い室内は、さらにその白を際立たせる。
彼女を前にしたサカナは、光輝いているような気さえした。
僕は、サカナを見る彼女の横顔がたまらなく好きだった。
その時だけ、サカナのことが好きになれた。
そんな過去を反芻している内に、待ち合わせ場所のアクアリウムショップに着いた。
ズボンに入れたラッキーストライクは雨のせいか少し湿っている。
ハードではなくソフトにしたことを後悔しながらタバコに火をつける。
なかなか火がつかない。
ようやく火がついたタバコで一息ついたとき、店内にいる彼女を見つけた。
タバコを一吸いし、スニーカーで残りを押し潰した僕は、店の入り口に静かに歩みを進めた。
(7.に続く)
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