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歌詞に触れない歌詞分析:ポルノグラフィティ「サウダージ」

Ⓒ2022 ナターシャ

作詞:ハルイチ [新藤晴一]
作曲:ak.homma [本間昭光]
発売:2000年

① 序論

2021年9月3日に公開されたTHE FIRST TAKEをきっかけに、23年前(執筆時点)発売されたポルノグラフィティ「サウダージ」の人気が再燃している。上記動画の再生回数は2,800万回に迫り、2023年年間カラオケランキングでは今をときめく数々の楽曲に交じり7位にランクインしている。元々ミリオンヒットとして現30代に絶大な知名度を誇っていた同曲であるが、昨今更なる人気を獲得したと言えるだろう。
 その理由の一つに同バンドギター新藤晴一が手掛けた歌詞の魅力があることは間違いない。ボーカル岡野昭仁も「新藤の歌詞のクオリティの高さは僕らにとっての強み」と語っており⁽¹⁾、「サウダージ 歌詞」で検索すると「すごい」とサジェスチョンされるものの、どのようにクオリティが高くどこが凄いのかという具体的な説明は「詩的」「文学性」などの曖昧な用語ではぐらかされるか「『寂しい…大丈夫…寂しい』が凄い」のように単なる歌詞の引用に留まっている場合が多いように感じられる。

 本論はポルノグラフィティ「サウダージ」の歌詞を「水の女」の系譜に当てはめて再考し、文学的な価値を再認識することを目的とする。

② 「水の女」の系譜:セイレン、ウンディーネ、人魚姫

「サウダージ」には語り部「私」の海への回帰願望が垣間見える「水の女による独白」という側面がある。新藤の歌詞は細やかな状況設定のもと統一感のある単語で構成されている場合が多く、本作の場合「波」「海の底」「物言わぬ貝」「海に帰れたら」といった海を連想させる表現群が失恋というモチーフと組み合わさることでハンス・クリスチャン・アンデルセン「人魚姫」を彷彿とさせている。新藤自身が「人魚姫」との間テクスト性を意識していたのかは不明であり、そもそも男性目線での作詞であることも明言されているものの⁽²⁾、作者の意図を超えて作品を読み解くことこそ文学批評の要であるため、本論ではあくまでテクストのみに注目し作者の言葉は考慮しない。「サウダージ」は「海から来て失恋の果てに海への回帰を望む」女性が描かれた「水の女」の系譜に位置付けることが可能な作品だと私は判断している。
 では、そもそも水の女は文学作品においてどのように語られ、また変遷してきたのであろうか。本章では以上の点を小黒康正『水の女:トポスへの船路(新装版)』を参考に整理したい。

 小黒は「水の女」の文学的系譜はギリシア神話のセイレンに端を発すると論じている。時代による変遷はあるものの、セイレンは元々歌により船人を惑わし死へと誘う半人半鳥の怪物として設定されており、特にホメロス『オデュッセイア』におけるセイレンは重要な特徴を有している:①歌という聴覚的な手段を用いる、②姿は見せず正体は怪物である、③知識欲を刺激する歌詞を操る、④陸の男と水の女の死を賭けた闘争が展開される。つまり、セイレンは水に表象される「自然性」言い換えれば「他者性」こそが英雄オデュッセウスの闘争・侵略対象として肝要な要素であり、外見=視覚性という女性的魅力は排除されていると判断できる。
 しかし、セイレンは女性を堕落の原因と考えるキリスト教と結びつきながら次第に女性的な要素を強めていく。誘惑の手段は視覚重視の「魅力的な容姿」に変貌し、文明vs自然の闘争は男vs女というジェンダー的視点に置き換わる。魅力的な容姿を武器にするセイレンが体現するのは理性に対する肉欲の誘惑であり、知識を以て男を誘惑した『オデュッセイア』のセイレンとはもはや真逆な存在とすら言える。

 歌の消失はすなわち言語の消失を意味する。「水の女」は言語コミュニケーションの不全に着目する形で発展していくこととなり、描かれるモチーフも闘争から和平へと派生していく。その代表とも言えるのがフリードリヒ・フケー『ウンディーネ』である。
 本作は陸の男フルトブラントと水の女ウンディーネによる異類婚姻譚である。ウンディーネは結婚により永遠の魂を手に入れることを目的としており、セイレンを通じて表象されていた生死を賭けた闘争は魂の獲得を賭けた和平へと大きく変貌していると指摘できる。また、セイレンが次第に失っていった聴覚的手段が部分的に回復しており、ウンディーネが男性を幻惑する手段の一つとして美しい歌声が挙げられている。しかし、ウンディーネとのコミュニケーションは彼女の魅力的な容姿という視覚的要素を媒介として成り立っているため、聴覚的手段の完全な復権にまでは至っていない。そのため、陸の男と水の女の隔たりは完全に埋めることができず、コミュニケーションは不全に陥る。ウンディーネはフルトブラントとのすれ違いの果てに魂を獲得する機会を逸し、海の底へと帰ることになる。
 陸の男と水の女の邂逅というモチーフに失恋の要素が加わる『ウンディーネ』は男を打ち負かすことを命題としていた『オデュッセイア』と比較すると格段に「サウダージ」で描かれる状況に近しい。しかし、『ウンディーネ』がコミュニケーション不全を原因とした恋愛関係の不可避的破局を描いた物語であるのに対し、「サウダージ」の描く失恋は(強がりという側面はあるものの)水の女による能動的な恋愛関係の放棄が強調されており、両作品の水の女を同系譜に分類することはできない。

 さて、『ウンディーネ』に描かれる水の女はセイレンが変貌過程で一度失った聴覚的手段を不完全とは言え再獲得し、闘争ではなく和平を志している点が特徴であった。これらの特徴が更に変化した水の女像がアンデルセン「人魚姫」にて確認できる。本作は王子との結婚という和平が目的である点は『ウンディーネ』から引き継がれているが、声の喪失とそれに伴うコミュニケーション不全が物語全体を支配しており、回復した聴覚的手段が再び剥奪された一例と見なすことができる。水の女は言語の運用という聴覚的手段を再喪失し、愛らしい見た目の活用という視覚的手段に依存することとなる。聴覚的手段の喪失はそのままコミュニケーション手段の喪失を意味する。事実人魚姫は自身の状況や感情を王子に伝えることができず、決定的な失恋によって身を滅ぼすこととなる。自らの命運すら男性の言動に左右される水の女像からは『オデュッセイア』にて陸の男と命懸けの闘争を繰り広げた強さが失われている。聴覚的手段の喪失は強さの喪失となり、水の女には弱々しい女性性のみが虚しく残される。

 こうして聴覚的コミュニケーション手段を剥奪され無力化された水の女は、どのようにして陸の男と渡り合う強さを取り戻すことができるのか。その答えを「視覚的コミュニケーション手段の獲得による主体性の回復」と仮定したとき、新たな地平で水の女を表現した作品として「サウダージ」が浮上してくる。

③ 「サウダージ」が示す新たな水の女像:手紙と独白

「人魚姫」にて描かれる水の女の無力化は陸の男とのコミュニケーション手段、言い換えれば闘争手段をセイレンから続く伝統である聴覚的手段に限定したことで発生したと考えられる。人魚姫には聴覚的言語能力の代替として視覚的言語能力を運用する発想に欠けている。
 例えば、人魚姫を読んだ読者が「なぜ彼女は手紙で王子に意思を伝えなかったのか」と疑問を抱いたとしてもおかしくはないだろう。実際、視覚的言語運用手段として手紙は有用なツールである。しかし、実は「書く」行為と「女性性」には根深い断絶がある。エレーヌ・シクスーが著書『メデューサの笑い』の中で指摘しているように、書くという行為はそもそも男性原理的言語運用ルールの中でしか達成されないからである。つまり、手紙という視覚的言語運用には男性優位という問題点が存在し、海の女が陸の男と渡り合う強さを再獲得する手段としていささか心もとない。

 そんな中、「サウダージ」が採用した方法は恋愛(=闘争)相手との直接的コミュニケーションを前提としない「独白」形式であった。まず、「サウダージ」は歌詞カードが手紙風になっており、(歌唱されることが前提であるにもかかわらず)視覚的言語運用が念頭に置かれていると指摘できる。この際、従来の水の女が採用してきた「見られる」ことを前提とした視覚的手段が「読ませる」ことを想定した能動的な行為へと変化している点は見逃せない。この「見られる」から「読ませる」への変化は水の女が視覚的な方法を用いて主体性を発揮する手段を得たことを示している。また、女性性の影に隠れ長らく喪失していた理性的な側面が復活していることも指摘できる。
 加えて「サウダージ」の水の女の主たるコミュニケーション相手は愛した男性でなく彼女自身の恋心であり、男性との闘争や和平を目指していない。「書く」行為が持つ男女不平等性はコミュニケーション相手の不在により不問となる。『オデュッセイア』において猛威を振るったセイレンの歌と同様の一方通行な言語運用が「独白を書く」方式によって復活を果たす。結果、水の女は男性の判断に従うことなく恋愛関係を放棄できるまで主体性を回復し、無力化された強さを再獲得する。もはや「サウダージ」において声の剥奪および聴覚的手段の喪失は問題にならない。本作に登場する水の女は陸の男とのコミュニケーション不全すらも手紙による独白という新たな武器に昇華する強かさを持っている。このような水の女像を提示する「サウダージ」は一つの文学的系譜に新たな地平を開いた作品として大きな価値を秘めているのではないだろうか。

 強さの再獲得により「サウダージ」は「人魚姫」と正反対の結末を迎える。「人魚姫」は人魚 ▶ 人間 ▶ 空気の精と二度の変身を遂げており、その過程で海の底 ▶ 地上 ▶ 空中と上昇の一途を辿っている。これは明らかに魂を獲得した人魚姫が神の国へ近付いていることを意味しており、空気の精となった人魚姫は「明るいお日様」に迎えられ、「涙を流す」ことを覚える。一見すると善良な人魚姫が報われる明るいラストシーンに思えるが、この人魚姫の劇的なメタモルフォーゼの根底にあるのは水の女の拒絶に他ならない。つまり、人魚姫は水の女という自らの出自を捨て去ることでしか(明るいお日様に象徴される)神の国に入る権利を得られないのである。「空気の精」と「水の女」には明らかな上下関係が存在している。そして、「涙を流す」行為が水の女から空気の精へのメタモルフォーゼの完了=上位身分への移行完了を担保している。
 一方「サウダージ」における水の女はメタモルフォーゼの必要に迫られていない。なぜなら彼女の主体性は神という男性原理に依存していないからだ。そのため「私」は海の底 ▶ 地上 ▶ 海の底という出戻り行為や「涙」を飲み干して悲しみを体内に再循環させる行為を全く自然に希求できる。また、そんな彼女を取り巻くのは夕日や夜空といった「明るいお日様」とは対極の存在となっている。

 「サウダージ」は水の女と失恋を題材にした「人魚姫」を連想させる作品となっている。しかし、新藤が描いた水の女は声を剥奪された無力な人魚姫とはまるで対極な強かさを持っている。聴覚的手段の代わりに手紙による独白という新たな視覚的手段を手に入れた彼女は「見られる」女性性を「読ませる」能動性へと発展させ、闘争・和平相手に依存しない主体性を獲得することによって「水の女であること」そのものを肯定する。闘争相手として、あるいは女性存在として異化され続けてきた水の女を真にフラットに描いた作品として、「サウダージ」の文学的な価値は再評価されるべきではないだろうか。

④ まとめ

〇水の女の系譜:セイレン ▶ ウンディーネ ▶ 人魚姫
・セイレン=聴覚的手段による闘争、聴覚的手段の喪失と視覚的手段への移行
・ウンディーネ=聴覚的手段の部分的回復、「闘争」から「和平」への移行
・人魚姫=聴覚的手段の再喪失、主体性なき和平
〇サウダージの示す新たな水の女像
・手紙と独白=新たな視覚的手段の獲得と主体性の回復
・「見られる」から「読ませる」へ=理性の復権

【参考】
(1) もりひでゆき「ポルノグラフィティ「暁」インタビュー:岡野昭仁と新藤晴一が5年ぶりのアルバムに注ぎ込んだ等身大の音楽」『音楽ナタリー』2022.8.3 (2023.12.30 最終アクセス). https://natalie.mu/music/pp/pornograffitti07
(2) 「365日あの頃ヒット曲ランキング9月:【2000年9月】サウダージ/挑戦したポルノグラフィティ新境地で見事1位獲得」『スポニチ』2011.9.29 (2023.12.30 最終アクセス). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/09/kiji/K20110929001722140.html

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