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『リア王』、『乱』、バーク、そして世阿弥:Frame of Acceptanceに関する一考察

Ⓒ1985 ヘラルド・エース

① 序論

ケネス・バークが『Attitudes Toward History』(1937)において主張したFrame of Acceptanceについての意見は日本人の思考傾向を説明する時どれほどの役割を果たすのか。バークは最も良く表現されたアメリカ人にとってのFrame of AcceptanceはWilliam James、Whitman、Emersonによるものであると主張すると共に、彼らの論は共通して “mystical” “transcendental” “hankerings” であると述べている(p.5)。ただし、彼らの思想の神秘主義的、超越主義的要素はいずれもアメリカ的、更に抽象化して断ずれば西洋的だと見なさざるを得ない。なぜなら、彼らには個人の主体が揺るがない前提として存在しており、個人が世界をどのように受容するのかが問題となるからである。バークはこの思想傾向を「デカルト的」と包括し、西洋的なものとして位置づけている。
 しかし、日本人の認識は個人の主体を必ずしも重視していないのではないだろうか。例えば、世阿弥の夢幻能は主体の輪郭を崩す仕組みが多く登場する。『井筒』における移り舞は、シテである有常の女が思い人である在原業平の衣服を着用して行われる業平との憑依の儀式である。主体を固定化せず、それらが融合するイメージが表現されている。更に、有常の女は既に故人となった幽霊であり、自身の悲恋すらも他人事のように淡々と語る。彼らの世界認識は限りなく他者的であり、世界ー自己の関係性の当事者意識が極めて希薄である。

 本質主義的な議論を避け、あくまでも異なる文化訓練がもたらした両者の思考傾向の違いのみを論じた際、バークの考案した「デカルト的=西洋的」Frame of Acceptanceに対し、日本的Frame of Acceptanceはどのような立ち位置で論じることができるのであろうか。本論はバークの纏めたFrame of Acceptanceに対応する日本の作品のFrame of Acceptanceをシェイクスピア『リア王』と黒澤明『乱』の差異を手掛かりに考察し、バークのFrame of Acceptanceに新たな可能性を付与することを目的とする。

② 『リア王』におけるFrame of Acceptanceの崩壊

アダプテーションはFrame of Acceptanceを考察するにあたり大変有用な資料である。なぜなら、あらゆる文学作品が世界の受容と解釈の産物であるように、アダプテーションは元となった作品の「解釈」であり単なる「複製」には成り得ないからである。物語を特徴付ける固有のパターンは識別可能な範囲で反復されるが、それは決して忠実な繰り返しではない。リンダ・ハッチオンが『A Theory of Adaptation』(2006)にて指摘しているように、元テクストは翻訳者により利用されることも無視されることもあり得るような、再現対象ではなく解釈対象である(p.106)。
 ウィリアム・シェイクスピアの悲劇『リア王』の日本における有名なアダプテーションに黒澤明『乱』(1985)が挙げられる。本作にて黒澤はリア王の3人娘に該当するキャラクターを男性に変更する等幾つかの大胆な改変を行っている。この改変は黒澤の解釈の結果であり、彼が『リア王』をどのように受容したのかを端的に表している。例えば、物語全体を一文字孝虎の妻楓による復讐物語として完結させている点は作品のテーマ根幹に関わる重大なポイントであるが、ここには歴史的改変、人種的改変、性別的改変の3つの変異が見られる。彼の文化的Frameに最も合う形に物語が変容しているのである。

 バークの想定するFrame of Acceptanceは、特にJamesのDavidsonへの手紙を引き合いに出して主観の基準としての神について論じる際に顕著であるが(pp.12-3)、中心的概念と思考者の距離を常に意識している。世界を受容するためには自己の規定が必要であり、(Jamesのように)自己改善を図りつつFrameをより強固なものにしていく作業の最中、その自己改善の一つの基準としてどうしても中心的概念(Jamesの場合は神)に頼らざるを得ないのである。
 『リア王』は自己改善を怠ったFrame of Acceptance崩壊の物語として見ることができる。物語の起点はリア王が末娘コーディリアを勘当する冒頭である(1.1)。これが後に起こる動乱の火種の一つとなることを踏まえると、『リア王』は彼のコーディリアへのRejectionをきっかけに発生する物語であり、シェイクスピアは一貫してRejectionの主体を描いていると言える。つまり、コーディリアを拒絶したリア王がその行為の報いを受けるまでの流れを描写すると共に、権力をめぐる娘たちの彼への、あるいは互いへのRejectionが記されているのである。
 物語の起点は間違いなくリア王のRejectionであるが、その後彼は物語を牽引する存在ではなくなる。リア王と3人の娘に関する主筋、リア王の忠臣グロスター伯爵とその息子たちにまつわる副筋に分割されたストーリーはゴネリル、リーガン、エドマンドの3名により展開されていく。このリア王の疎外を吉田朋生は「彼は劇の中心にいるが、同時にそこからもっとも遠く離れている [……] 主人公であるにもかかわらず、リア自身が『善悪の抗争』という劇そのものの主旋律からいわば『論理的に』分離されている」(p.27)と述べている。一見相反する要素であるはずの「中心」と「主旋律からの分離」がリア王という人物の中に矛盾せず存在すると彼は論じているのである。
 しかし、バークが「中心」を詳細に意識していたのと異なり、吉田の論において「中心」という言葉は非常に曖昧に使用される。彼は人間関係と物語展開を区別しておらず、従って「中心」とは人物と展開どちらの領域を指すのか明らかにされないのである。だからこそリア王に内包された「中心でありながら主旋律からの分離を見せている」という矛盾を彼は扱いかねている。確かに吉田の指摘通りリア王は途中から物語展開の中心から疎外されるが、彼は一貫して人間関係の中心であり続け、物語は最後までリア王の悲劇という外殻を失わない。なぜなら、『リア王』はあくまでもリア王という主体のFrame of Acceptanceが他者によりどのように受容あるいは拒絶されるのかを記した作品であるからだ。
 冒頭、コーディリア以外のキャラクターはリア王の価値観に即して行動しており、ゴネリルやリーガンの甘言はリア王のFrame of Acceptanceに収まるように意識して形を合わせられている。しかし、彼が権力を失ったとき、彼のFrame of Acceptanceもまたその権威を失う。その後リア王は気違いになりまともな思考を放棄する。これは明らかにFrameの崩壊であり、思考の軸、判断基準の中心を失ったリア王は必然的に物語の周縁に追いやられる。彼は己と世界の安定した関係性を当然のものと捉えていたため、自分が支配する土地がどのような場所であるのか一切の言及をしない。彼が管理しなくても当然彼の領域であるという幻想を抱いているのだ。つまり、彼は自身の認識を改善させる努力を怠っていたのである。ここに彼の隙がある。自身のFrameの強度を疑わない者は、Frameに合致する意見を全面的に受容して疑わない。世阿弥の考える輪郭が曖昧な主体は『リア王』には登場しない。そのため個人のFrame of Acceptanceは他者のFrame of Acceptanceを侵食する。物語の支点であったリア王は異質のFrame同士の覇権争いに敗れ、まともな人間としての思考すら失ってしまうのである。

③ 黒澤明『乱』における個人主体の排除

『リア王』とは異なり、『乱』においては物語の支点がリア王に当たる一文字秀虎であると断定すること自体がそもそも難しい。物語の起点は確かに『リア王』と同じく秀虎による領地の分割と末息子直虎の勘当であるが、その後は楓による一文字家への復讐という方向に話が展開していく。つまり冒頭では秀虎が物語の支点を担っている『乱』は、後半部で楓による一文字家の崩壊という物語に書き換えられているのである。彼女はRejectionのプロセスにて秀虎を主人公の座から追放している。黒澤は『リア王』を一個人のFrame of Acceptance崩壊の物語として受容しなかったということである。

 主人公が秀虎から楓に変化し、物語が前半と後半で分断されることにより、秀虎の善悪が書き換えられることになる。原作『リア王』においてはリア王が過去どのような王であり、如何にして『リア王』の物語が発生するに至ったのか不明瞭であり、リア王の過去が『リア王』の筋にほとんど影響を及ぼしていない。しかし『乱』においてはこの点が明確であり、リア王に該当する秀虎の過去がある程度はっきり語られている。楓を支点とした後半部分の物語が作用した原因は、秀虎が過去楓の一族を眼前で滅ぼしたからである。秀虎を支点とした楓の一族皆殺しの作用が、次なる物語、つまり楓を支点とした復讐の作用を発生させているのである。過去の秀虎が支点である楓一族殺しの物語内においてのみ秀虎は主人公の側であり、彼の行為は正当化される。彼は動乱を平定した英雄である。しかし楓を支点とする物語に切り替わってしまえば彼は打倒されるべき悪役である。黒澤が描いたテーマはFrame of Acceptanceの崩壊ではなくRejectionの連鎖である。一人の人間を中心に据え物語を展開したのではなく、受容と拒絶の流動性を描いているのが『乱』なのである。あくまでも思考する主体の動向に注目した作品であった『リア王』と比較し、『乱』の主題は個人の思考という枠から逸脱し、Frame of Acceptanceの流動そのものに向かっている。
 リア王個人と中心との距離感を常に意識させられる『リア王』とは異なり、『乱』において秀虎個人の思考はさして重要な問題ではない。『乱』は楓によるRejectionにより秀虎の悲劇として受容されることを拒む作品となっている。鑑賞者の受容と拒絶のFrameすらも物語の展開に準じて変化を強いられる。人物の善悪に伴い鑑賞者の受容パターンすらも流動する。この楓による秀虎の価値の流動、過去の「悪行化」に関しHoile Christopherは以下のように述べている:“Kaede’s present actions reveal the evil of Hidetora’s past actions” (p.32)。Christopherは秀虎の過去の行いを悪行と断定してしまっているが、これはFrame of Acceptanceを楓の主体に固定化させた解釈であり、厳密には誤りである。秀虎の行為は彼を支点とする過去の物語の中では正当な作用であったのだが、楓に支点が変化したことにより悪行として書き換えられてしまったというのが正しい。reveal the evilではなくre-construct the evilなのである。この支点の変化により発生する善悪の流動の結果主人公受容の枠組みは書き換えられるのである。
 『乱』において鑑賞者が体験するのはこのFrame of Acceptanceの書き換えそのものである。『乱』におけるFrame of Acceptanceは「主人公(中心的価値)」という個人の主体を前提としない。これはメリオリストたちの提唱するFrame of Acceptanceの向上と変容とは全く異なる。あくまでも個人の主体レベルで話を展開するバークとは異なり、『乱』は個人の行為の意味合いを論じていないのである。

④ 結論:世阿弥式Frame of Acceptance

バークの提唱したFrame of Acceptanceには常に意識の主体が揺るぎない前提として存在している。しかし、日本人のFrame of Acceptanceはこの意識の主体すら曖昧な存在としてしか認識されない。そのため、Frameは流動性を持ち、他者の主体との融合すら可能にする。この流動的Frame of Acceptanceを世阿弥式Frame of Acceptanceと名付けることが可能ではないだろうか。
 世阿弥は能を「花」という言葉で表現している。花は散るからこそ人の心に残る。世阿弥の表現する世界では全てが膨大な時の流れの中で無に帰そうとしてしまっている。しかし、無に帰する正にその瞬間を第三者的視点で捉え直し、意味合いを流動させることによりこの世に留まらせようと試みている。観世寿夫によると世阿弥の夢幻能は「表面では幽玄と言い、無といって反発をうけ流し、その裏側において死の世界からの怨念といった最も人間的なものを描こうとした」(182)と表現されている。当時周囲の権力に振り回され、人の世の浅ましさに嫌気がさしていた世阿弥が、それら全てを無常と捉えた上で本物の情念を見出す筋書きの夢幻能に着手したのは自然なことだろう。Rejectionに対する「幽玄」や「無」という反応はデカルト的=西洋的な思考傾向においては目立たない発想であり、無常にも感じられる流動の中に本質を見出す世阿弥式Frame of Acceptanceは、バークとは違ったアプローチで認識の向上を試みる手段に成り得るのではないだろうか。

【参考】
(1) Burke, Kenneth. Attitudes Toward History. 3rd ed., University of California Press, 1984.
(2) Hoile, Christopher. “‘King Lear’ and Kurosawa’s ‘Ran’: Splitting, Doubling, Distancing.” Pacific Coast Philology, vol. 22, no. 1, 1987, pp. 29-34.
(3) Hutcheon, Linda. A Theory of Adaptation. 2nd ed., Routledge, 2012.
(4) 観世寿夫, 観世寿夫著作集1:世阿弥の世界. 平凡社, 1980.
(5) 黒澤明, 乱. 仲代達矢, 寺尾聰, 根津甚八出演. 1985. 角川, 2010. (DVD).
(6) シェイクスピア, ウィリアム. リア王. 野島秀勝訳, 岩波書店, 2000.
(7) 吉田朋生.「意味と無意味(『リア王』の場合)」東京歯科大学教養部研究紀要, 第35号, 2005, pp. 25-42.

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