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絵本分析『ごろはちだいみょうじん』:コンタクトゾーン①~④

Ⓒ1969 福音館書店

① 序論:題材と目的

本論では、文学理論を元にした絵本分析の試みとして中川正文作・梶山俊夫絵『ごろはちだいみょうじん』(福音館書店、1969)を取り上げる。本作には見逃すことができないいくつかの特徴がある:①奈良・大和言葉での語り、②線の太い黄土色を多用した絵、③大明神信仰という土着文化、④西洋文明の強引な介入、⑤死をきっかけとした土着文化の強化。
 また、本論で着目するのは社会言語学者メアリー・ルイーズ・プラットが "Arts of the Contact Zone" (1991)及び『Imperial Eyes: Travel Writing and Transculturation 』(1992)にて提唱したコンタクトゾーンという概念である。コンタクトゾーンとは異なる文化同士が接触する空間のことで、以下の留意点がある:①基本的には「場所」についての概念である点、②文化同士が争った結果一方が他方に影響を与える点。
 本論は『ごろはちだいみょうじん』をコンタクトゾーンの物語として整理すると共に、絵本という物語形式が内包している二項対立について言及し、絵本分析の第一歩を踏み出すことを目的とする。

② 二つのコンタクトゾーンとその消滅

『ごろはちだいみょうじん』の物語には大きく2つのコンタクトゾーンが存在している:①ごろはち/むらのひとやら(村の人たち)、②むらのひとやら/西洋文明。①は物語の前提であり、②は物語の主軸として機能している。そのため、読者にとって分かりやすく印象に残るのは②であろう。

 そこで、まずはコンタクトゾーン②について整理したい。二項対立の一翼を担うむらのひとやらは、文明開花以前の土着的(日本的)な神仏混合思想に基づいた一定の生活サイクルを維持している。お寺のごいんさん(ご隠居様)を中心に大明神を奉ることで村の規律が保たれているわけである。しかし、村に駅ができ、汽車が開通するにあたり、この規律に乱れが生じる。肝心なのは汽車の開通がむらのひとやらの総意ではなく何らかの原因により一方的にもたらされている点で、むらのひとやらには駅や汽車を自らの生活サイクルの中に取り入れるだけの知識や情報がまるで欠けている。
 つまり、(村人たちの思想や生活サイクルという)土着文化と(汽車という)西洋文明における影響力は一方通行なものであり、ここにコンタクトゾーンが発生することとなる。
 汽車についての正確な知識がないむらのひとやらはその危険性を理解できず迫り来る汽車を目前に線路上へ殺到する。人身事故の大惨事を防いだのはごろはちの自己犠牲であった。前述の通り、ごろはちは「ごろはち/むらのひとやら」というコンタクトゾーン①の片方を担う存在である。そんなごろはちがコンタクトゾーン②「むらのひとやら/西洋文明」に立ち現れるこの場面には2つのコンタクトゾーンの交錯が見られる。つまり、ごろはちが自己犠牲により汽車からむらのひとやらを救うクライマックスでコンタクトゾーンは多層化している。
 
 では続いて、このコンタクトゾーンの多層化を読み解くために、コンタクトゾーン①について論じたい。ごろはち/むらのひとやらの二項対立をコンタクトゾーンとして捉える際は、どちらがどちらに影響を与えているのかを慎重に考慮する必要がある。一見するといたずらで人々を翻弄する「てんごしい」のごろはちがむらのひとやらに影響を及ぼしていると思えるかもしれないが、実際は逆であると私は考えている。
 まず、ごろはちのいたずらはごいんさんの鳴らす鐘の音を真似る、しっぽで箒を真似た音を立てる、酔っ払いのお土産を失敬する、など村の生活サイクルを模倣した、あるいは利用したものばかりであると指摘できる。つまり、本来は狸に過ぎないごろはちの動物的習性は村の秩序や思想に溶け込むことで「矯正」されており、その矯正の結果「てんごしいのごろはち」が仕上がったと考えられるのである。言い方を変えればごろはちはむらのひとやらに影響され、狸の文化を手放したと見なすことができる。
 また、ごろはちは「油揚げが好物の大明神様」として村のしきたりに沿って勝手に奉られているが、「ごろはちには、そこがまたきにいらんのや」「きつねとまちごうとるのとちがうのかいな」(p.5)と、実像とかけ離れた解釈に彼は不満を述べている。この描写からは、ごろはちが村人にもらたした影響はあくまで村のシステムの中で処理される程度に留まっていることが分かる。従って、ごろはち/むらのひとやらのコンタクトゾーン①ではむらのひとやらがごろはちに影響を与えていると結論付けることができるのである。

 さて、コンタクトゾーン①と②で導き出された力関係を合算すると以下の図式になる:西洋文明>むらのひとやら>ごろはち。本作の興味深い点は、ラストシーンにてむらのひとやらとごろはちが結託することで西洋文明の暴力性を無効化したところにあると私は考えている。つまり、ごろはちが自ら生贄となって汽車を止めたことで「西洋文明=むらのひとやら+ごろはち」という力関係に変化したのではないだろうか。作中一貫して右から左へと走っているように描かれていた汽車は、奥付けでは左から右へと走っている。これは、一方的で暴力的だった西洋文明とのコンタクトが双方向で対等なものになった証と見なすことができるだろう。
 一方でごろはちは狸の肉体という実体を失うことで、大明神信仰のシステムに完全に取り込まれることとなる。むらのひとやらはごろはちという異質な存在を取り込むことで西洋文明という異質な文化と渡り合う強度を手にしたのではないだろうか。そして、関係性が対等となった時点でコンタクトゾーン②は消滅する。
 『ごろはちだいみょうじん』はごろはち・むらのひとやら・西洋文明の接触で発生した2つのコンタクトゾーンがごろはちの死により消滅する物語と解釈できるのではないだろうか。

③ 第3、第4のコンタクトゾーン

前章では物語世界における2つのコンタクトゾーンについて論じたが、本章では絵本という形式に注目することで『ごろはちだいみょうじん』に更に2つのコンタクトゾーンを見出したい。
 序論で述べた通り、本作には「奈良・大和言葉での語り」と「線の太い黄土色を多用した絵」という特徴がある。この2点の特徴は確実に読者の認知に影響を及ぼす。絵本空間が読者/作品のコンタクトゾーンとして機能するのである。

3-1
標準語/方言のせめぎ合いがコンタクトゾーン③である。方言による発音とリズムが標準語によって成された読者の思考や価値観に強烈な印象を残す。言うまでもなく、黙読よりも読み聞かせやストーリーテリングの方が両者の力関係を不均衡にする。

3-2
写実的視覚情報/梶山俊夫の絵がコンタクトゾーン④である。独特な絵のタッチは読者の写実的な視覚認識能力にインパクトを与える。本作は物語を抜きにしても絵画的な楽しみを読者にもたらしてくれる。

 文章のリズムと絵のタッチの相乗効果は絵本の大きな強みである。『ごろはちだいみょうじん』もこの強みを持っているが、本作の場合文章と絵は異質な文化として読者の認知を異化しようとする。物語のみならず、絵本という形式にもコンタクトゾーンが活用されていると言えるだろう。
 『ごろはちだいみょうじん』は4つのコンタクトゾーンによって物語としても絵本としても魅力的な作品に仕上がっているのではないだろうか。

④ まとめ

〇コンタクトゾーンとは:異なる文化同士が接触する空間、一方が他方に影響を与える
〇『ごろはちだいみょうじん』4つのコンタクトゾーン
 ・物語内のコンタクトゾーン
  1. ごろはち/むらのひとやら
  2. むらのひとやら/西洋文明
  ごろはちの自己犠牲により「西洋文明>むらのひとやら>ごろはち」の図式が「西洋文明=むらのひとやら+ごろはち」に変化する
 ・絵本という形式が内包するコンタクトゾーン
  3. 標準語/方言
  4. 写実的視覚情報/梶山俊夫の絵

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