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比較論『ONE PIECE FILM RED』と『シン・仮面ライダー』:ニューウェーブSFと怪物論

Ⓒ2022 「ワンピース」製作委員会
Ⓒ2023 「シン・仮面ライダー」製作委員会

『ONE PIECE FILM RED』
監督:谷口悟朗
脚本:黒岩勉
公開:2022年

『シン・仮面ライダー』
監督:庵野秀明
脚本:庵野秀明
公開:2023年

① 序論

2022年と2023年、非常に似たタイプの二つの映画がヒットを記録している。一つは国内興行収入201億円(アンコール上映分含む)と特大スマッシュヒットを記録した『ONE PIECE FILM RED』。もともと尾田栄一郎による大人気の少年漫画『ONE PIECE』 を原作としているため、本作で15作を数える劇場版も毎回ある程度ヒットしているが、興行収入シリーズ2位の『ONE PIECE FILM Z』が68.7億円であったことを考えると、3倍近くの差をつけてぶっちぎりの興行収入を記録した本作は相当な大ヒットと言えるだろう。

 続いて庵野秀明監督の『シン・仮面ライダー』。こちらは現在のところ『FILM RED』ほどのヒットとは言えないが、それでも歴代仮面ライダー劇場版の中ではナンバーワンの興行収入を記録している。

 この二作は、原作が共に少年誌連載のバトル漫画ということもあり、悪役(必ずしも悪人とは限らない)と戦い打破するという物語構造は自然と似通ることになるが、原作から引き継がれた共通点以上に、独立した映画作品として看過できない特徴的な共通点を持っている。

 本論では、そんな二作について以下の二点を論じることを目標とする。
【1】『ONE PIECE FILM RED』と『シン・仮面ライダー』の「怪物表象」について整理し、ウタと緑川イチローの共通点を指摘するとともに、両作品をニューウェーブSFとして位置づける。
【2】ウタと緑川イチローの怪物性をFantasticとUncannyというキーワードで差別化し、両作品が想定する「怪物像」を読み解く。

【1】【2】について述べる前に、まずはSFを始めとした物語に登場する「怪物」にどのような種類があるのかタイプ別に纏めたい。

② 4種類の怪物像

SFやファンタジーを中心に多く登場する「怪物」は、その形態と人間社会とのかかわり方で4種類に大別できると考えられる:①闇深人間、②人間ベース、③亜人・動物タイプ、④生態系構築パターン。ネーミングセンスがないのは勘弁していただきたい。

 まずは①闇深人間について。4種の中で怪物度合いは最も低い。「見た目は人間と変わらず」「特異な能力もない」が、心の闇が深すぎて「物語的にモンスターの役割を与えられてしまう」パターンである。特徴は人間社会から孤立していることと、自分のテリトリーを持っていることの二つであろう。
 例として、スティーヴン・キング『ミザリー』におけるアニーが該当する。彼女は小説家ポールを人里離れた自宅に監禁し強制的に小説を書かせ、ポールの身体と精神に深刻な打撃を与える。臭いから始まる彼女の身体描写、殺人も辞さず怪我してもなおポールを追いつめる行動など彼女は人間でありながら怪物の役割を与えられていると言える。
 また、ジョージ・R・R・マーティン「洋梨形の男」における洋梨形の男もアニーと同様自室に引きこもり獲物を自分のテリトリーに引きずりこむ手段を取る。彼の怪物性もチーズドゥードルという菓子の不快な臭いにより表現されている。

 続いて②人間ベースについて。「見た目は人間」だが先天的あるいは後天的に「普通では持ちえない能力を所持している」パターンである。アメコミヒーローやジャンプ主人公はだいたいこのパターンに当てはまるため、怪物として扱われるかヒーローとして描かれるかはキャラクターや作品の性質に委ねられることになる。
 人間ベースの怪物は女性だと悲劇的、男性だと加害的に描かれる傾向にある。森見登美彦『ペンギン・ハイウェイ』のお姉さん、筒井康隆『家族八景』『七瀬ふたたび』『エディプスの恋人』の火田七瀬、新井素子「グリーン・レクイエム」の三沢明日香、スティーヴン・キング『キャリー』のキャリー、小松左京「ゴルディアスの結び目」のマリアなど、女性キャラクターはいずれも怪物としての能力ゆえに悲劇的な結末を迎えている。しかし、例えば同じ小松左京でも男性中心の闘争物語である『日本アパッチ族』では、新人類(つまり怪物)たちは旧人類に反旗を翻す加害者的立場を貫いている。
 もちろん例外も多々あり、ダン・グリーンバーグ『ナニー』のルーシーは女性ではあるがその怪物性を主人公の若夫婦を追いつめるために発揮することとなる。

 三つ目は③亜人・動物タイプについて。こちらは「見た目が人間とは異なっている」パターンであり、メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』の怪物が代表的な例であろう。特徴は、人間社会においてハンデとなる外見の代わりに人間を超える能力を所持している点である。『フランケンシュタイン』の怪物も人間を超える驚異的な体力を持っている。(亜人扱いをするのは倫理的に問題があるかもしれないが) 飛浩隆「デュオ」のデネスとクラウスもこのタイプに該当し、彼らはシャム双生児としてのハンデがあるものの天才的なピアノの才能を持っている。彼らは人間社会に一応の居場所があるという意味で『フランケンシュタイン』の怪物とは作中での扱いが異なるが、これは能力がハンデを上回るほど魅力的かどうかの差であるように思える。
 H・G・ウェルズ「モロー博士の島」の獣人たちなど、このタイプの怪物はいよいよ人の手で制御できなくなってくるものも多い。特徴的なのはピーター・S・ビーグル『最後のユニコーン』の赤い牡牛であろう。本作はそもそもが怪物であるユニコーンを主人公としたファンタジックな作品だが、作中明確に「怪物」として扱われるのはユニコーンを追いたてる赤い牡牛のみである。変幻自在かつ神出鬼没で人の手に負えない存在であるが、面白いことに人間の城で飼われている設定であり、制御はできないが所持はできる点が現代における核兵器の扱いに近い。
 核兵器としての怪物といえば香山滋「ゴジラ」を挙げなければならないだろう。映画同様原作でもゴジラは核兵器や戦争の体現者であり、赤い牡牛が「所持された核兵器」だとしたらゴジラは「放たれた核兵器」である。原作版で興味深いのは「東京ゴジラ団」なるゴジラを崇拝する宗教団体の存在で、行きすぎた怪物性は神と同等の扱いを受けるようである。

 最後に④生態系構築パターンについて。これは人間社会に怪物が入りこむのではなく、「怪物が独自の生態系を作りあげている」パターンである。その世界の生態系が分かるように性役割の描写が多いのが特徴で、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア「愛はさだめ、さだめは死」、大原まり子「異世界Dの家族の肖像」、アイザック・アシモフ『神々自身』などが当てはまる。しかし、生態系の説明だけでは話が作りにくいのか、人類とのコンタクトシーンを含む作品が多くある。前述の『ゴジラ』も映画シリーズが進むにつれ昭和版平成版ともに人類と怪物が意思疎通を行う話が増える。怪物との相互理解は多くの人の願望が込められたモチーフなのかもしれない。
 反対に全くコミュニケーションの余地がない怪物としてスタニスワフ・レム『ソラリス』の惑星ソラリスなどが挙げられる。また、怪物中心の生態系の中で生きる人類を描いた作品としては山田正紀『宝石泥棒』などがあるだろう。

 長くなったが、物語における「怪物」はその見た目と能力、そして人間社会とのかかわり方によって①闇深人間、②人間ベース、③亜人・動物タイプ、④生態系構築パターンの4つに大別できる、というのが私の意見である。

 では、『ONE PIECE FILM RED』と『シン・仮面ライダー』における怪物表象がどのパターンに当てはまり、それがSF作品としてどのような意味を持つのか、次章で述べていきたい。

③ ニューウェーブSF的要素:ウタワールドとハビタット世界

『ONE PIECE FILM RED』と『シン・仮面ライダー』はともに怪物表象が多く見られる作品である。前者は「悪魔の実」という口にすれば超人的な能力を得る果実を食べた「能力者」たちが多々登場する「怪物による闘争」が物語の中心であり、実際原作では度々「怪物」という表現でキャラクターの強さや怖さが語られている。『FILM RED』の中心人物であるウタもウタウタの実を食べた怪物である。後者もまた「怪物による闘争」の物語であり、主人公サイドの「仮面ライダー」も敵サイドの「ショッカー」も怪物であることは間違いない。本論では特に緑川イチロー(チョウオーグ)を中心に怪物論を展開する。

 前章の分類に従えば、ウタも緑川イチローも②人間ベースの怪物に当てはまる。前述の通り、人間ベースの怪物は「女性は悲劇的に」「男性は加害的に」描かれる傾向にあり、ウタと緑川イチローもおおむねそのように扱われているが、二人の怪物描写自体は驚くほど共通している。
 大きな共通点は以下の二点である:【目的】「人類の幸福」という目的のため怪物性を発揮する、【手段】「ウタワールド/ハビタット世界」という肉体を捨て去った世界へ人類を引きずりこみ一体化させる、という手段で怪物性を発揮する。特に【手段】については、人間の精神面に注目するニューウェーブSFとしての側面が共通している。

 ニューウェーブSFとは、「外宇宙より内宇宙」をテーマに1960年代頃盛んになったSFのスタイルであり、内宇宙(=人間精神)を掘り下げる臨床心理学的な作風が特徴の一つである。ニューウェーブとして扱うことに議論はあるものの、私としてはフィリップ・K・ディック作品が一番ニューウェーブSFの特徴がわかりやすいと思う。ディックは夢や無意識などの深層心理学的な要素からアプローチし、現実と虚構の境界を曖昧化する手法を多用している。実際『ONE PIECE FILM RED』がディックの代表作の一つである『ユービック』に影響を受けていると指摘するブログ記事もあり⁽¹⁾、少なくとも『FILM RED』にニューウェーブSF的な要素を感じた鑑賞者は私だけではないようだ。

 ウタワールド/ハビタット世界は「肉体」から「内宇宙」への移行という発想を基に成り立っており、場所そのものにウタ/緑川イチローの精神性が大いに反映されるニューウェーブSF的な設定であると言える。特に『FILM RED』はこのウタワールドが舞台の作品であるため、背景や服装の描写ひとつひとつがウタの精神を反映している。人形やお菓子などの小道具がファンシーな色合いの中に散りばめられたウタワールドはウタの歪で幼児的な内宇宙を視覚化したものであろう。加えて、ウタのライブが行われるエレジアのステージは上から見ると肋骨のようなパーツに覆われており、ライブ会場そのものが人体の内部のように見える点も、「内宇宙」を重視するニューウェーブSFの舞台として相応しいと思える。
 反対にハビタット世界は何もない真っ白な空間として視覚化されており、緑川イチローの空虚な精神性が垣間見えるようになっている。また「カラフルで小道具が多い/漂白されて何もない」という内宇宙の視覚的表現は、ウタ/緑川イチローが「他者の視線」を意識しているかどうかの差にもなっており、同種のやり方で怪物性を発揮する彼らが実は全く異なるタイプの怪物であることを示唆している。この点については次章で詳しく述べる。

 続いてウタと緑川イチローの内宇宙について深層心理学の観点から掘り下げたい。深層心理学には人間の自我を三層に分ける考え方が存在する : ①スーパーエゴ=自我の最上層であり社会的規範の領域、②エゴ=自我の中心層でありスーパーエゴとイドの間でバランスを取る領域、③イド=自我の最下層であり最初に発達するが成長とともに抑圧される本能の領域。上記に沿って考えた場合、ウタと緑川イチローの内宇宙には「スーパーエゴの不在」「イドの解放」という共通した特徴が見受けられる。
 ウタの場合、シャンクスがスーパーエゴにあたり、トットムジカがイドに相当する。海賊であるシャンクスを「社会的規範」と解釈して良いのかという意見もあると思うが、シャンクスは作中屈指の常識人であり、ウタにとって「父性」を象徴する存在であることを考えれば、スーパーエゴとしての機能を充分に果たしていると言える。ウタの怪物性はエレジア城の地下(=最下層)に古代から封印された(=最初に発達するが現在は抑圧された)トットムジカが「シャンクスというスーパーエゴの不在により解放される」ことにより発揮される。そして、トットムジカは楽譜=音楽を視覚化したものとして封印されており、音楽がテーマであるはずの『FILM RED』が徹底して視覚に依存した作品になっていることは指摘しておきたい。

 緑川イチローの場合、父の緑川博士がスーパーエゴ、母の緑川硝子がイドとして機能している。緑川イチローにとって博士は「超えるべき障壁」であり、反対に硝子は「再結合の対象」である。深層心理学において、男性は母胎にいた頃から引き継がれた母親との一体感が父親により断ち切られることで、①母親との再結合を望むマザーコンプレックス、②自己と母親を切り離した父親へのオイディプスコンプレックスの二つを持つことになるとされている。緑川イチローは父親を仮想敵として設定し排除することによりスーパーエゴを失い、母親への憧憬というイドが解放されてしまう。そのため、ハビタット世界は「人類の一体化」という彼のマザーコンプレックスを基にした設定になっており、「スーパーエゴの不在によるイドの解放」というウタワールドと同様の構造が見て取れるのである。

 本章では、ウタワールド/ハビタット世界がウタ/緑川イチローの内宇宙を反映した深層心理学的な装置である点に着目し、ニューウェーブSFとしての共通項を整理した。次章では、ウタと緑川イチローの怪物性について論を進め、同じ構造で成り立っている両作品の怪物像が実は正反対の性質を持っている可能性について指摘したい。

④ 「他者の視線」への意識

ともにニューウェーブSF的な手段で怪物性を発揮するウタと緑川イチローだが、顕著に異なる点が存在する。それは「他者の視線」への意識である。他者の視線を集めることに依存しているウタは一見魅力的な歌姫として映る一方、他者の視線を徹底して排除する緑川イチローはともすれば醜悪な悪役として映る。本章ではウタを「Fantasticな怪物」、緑川イチローを「Uncannyな怪物」と分類し、双方の特徴を探ってみたい。

 Fantasticな怪物であるウタは他者の視線を前提としてその怪物性を発揮している。彼女の能力は「歌を聞かせたものの魂をウタワールドへ引きずりこむ」ことなので、本来であれば視覚への意識は必要ないはずである。しかし、彼女の怪物性が解き放たれたきっかけは「新種の映像電伝虫を拾ったこと」であるため、他者の視覚を想定したパフォーマンスがはじめから前提になったのだろう。
 彼女のステージも過剰な演出や振付けが多用されており、観客も「歌を聴く」というよりは「ウタを見る」という視覚に頼った楽しみ方をしていると考えられる。
 特徴的なのはステージの最中に暴れ出した海賊を捕縛する際にウタが行った衣装チェンジで、戦闘の場におもむくための甲冑は主に手足にしかまとわれず、「顔」や「胴体」といった視覚的に彼女と認識できる部位はもとのままになっている。これは、戦闘の際に仮面と装甲具で顔と胴体を覆いつくす緑川イチローとは正反対である。
 ウタは戦闘時においてさえ視覚的な「魅力」を最低限保ちながら怪物性を発揮しているため、「Fantasticな怪物」という特異なキャラクターとして映画の中心人物になり得たと言える。そして、「他者の視線」を意識しているからこそ彼女のステージは劇中劇として機能し、映画の観客は「映画内でウタのステージを見ている観客」と一体化して作品に没入できるのである。

 一方、Uncannyな怪物である緑川イチローはむしろ他者の視線を遮断することで怪物性を発揮している。そもそも『シン・仮面ライダー』という作品は、ヒーロー映画にもかかわらず悪役が表立って市民に危害を加える場面がない。言い換えれば、市民に「見られる」場面が存在しない。このような作品のためか、緑川イチローも主要人物以外には姿を晒しておらず、外界から遮断された閉鎖空間にいながら怪物性を発揮するという、ウタとは真逆な存在として描かれている。
 個人的にはこの閉鎖空間が母胎を象徴しているように思えてならない。主人公たちはどこか産道を連想させるトンネルを逆走する形で緑川イチローのいる閉鎖空間=イドの中心部へと辿りつき、緑川博士に代わってスーパーエゴの役割を果たしているようにも見える。
 緑川イチローのイドは母への愛着という非常に内向的なモチベーションによって成り立っているので、自然と彼も内向的な方法を取ることになったと考えられる。他者の視線を排除し、更には仮面ライダー0号として仮面を装着することで彼の怪物性は完成するのである。他者を全く意識しない彼は外見も変身シーンもどこかグロテスクであり、ウタとは対照的なUncannyな怪物像を体現していると言えるだろう。

⑤ まとめ

◯ウタと緑川イチローの共通点
・人間ベースの怪物
・ニューウェーブSF的な手段 : 内宇宙=ウタワールド/ハビタット世界
・深層心理学的な要素:スーパーエゴの欠落、イドの解放

◯ウタと緑川イチローの相違点
・他者の視線を前提とするウタ=Fantasticな怪物像、劇中劇的な魅力
・他者の視線を拒絶する緑川イチロー=Uncannyな怪物像、内向的な閉鎖空間


【参考】
(1)

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