見出し画像

5年以内に私は必ず東京外環自動車道を走る。

今日、20歳が終わって21歳が始まった。
そこで、私は進路やキャリアプランなどと一切関係ない目標を一つ立てることにした。

それが「5年以内に必ず東京外環自動車道を走る」である。

全然意味がわからないと思うけど、この話を伝えるために、父とキリンジと私の話をさせてほしい。


「キリンジ」という歌を歌う兄弟を知っているだろうか。
これを読むあなたが「キリンジ」を知っていなくても、もしかしたら「エイリアンズ」は知っているかも。

今は「KIRINJI」というグループに改名して、そしてもうじき新しいステージに移るらしい。
題材に挙げておきながらあまり詳しくなくて申し訳ない。私はずっと20年間ずっとキリンジは「聴き専」で、20年聴いていたにも関わらずあまり詳しくはないのだ。

私の父は初期からずっとキリンジを聴いている。キリンジが最初のCDを出したのが1997年なので、私の生まれる2年前のことだ。

父は平日の昼、時間をつぶしていた時に八王子のタワーレコードでたまたまキリンジのインディーズデビューアルバム「キリンジ」を聴いて、そして買った。
(冷静に考えてサラリーマンの父が日中に八王子のタワーレコードにいるのはかなりおかしなことなのだと思うのだが、22年も前のことなので時効だろう、と思って書いている)

そして2020年の8/30の今に至るまで、我が家はキリンジのほぼすべてのCDが揃っている。

娘の私は生まれてからずっと、正確には小学校5年生まで家のカーステレオでキリンジしか聞いたことのない子供だった。
(小学5年生の頃に周りでものすごく嵐が流行ったこと、叔母がかなり熱心な嵐ファンだったことからその後の我が家はしばらく嵐旋風が起きる。)

そんなわけでたぶん私はこの20年間で聞いてきた音楽の半分はキリンジで構成されていると言っても過言ではない。実際小学5年生は10歳だし、母のお腹にいる頃からキリンジを聴いていたのではないかと思う。
最も、聞いている場所の8割はカーステレオのせいか、タイトルと曲が全く合致しないし、このCDはどの時期に出た、とかはほとんどわからないが。

小学生の時の楽しみは夏と冬に一回ずつ行く東京ディズニーランドだった。
でも子供の体調はすぐ悪くなる、と決まっている。

小学3年生か、4年生の頃だったと思う。ディズニーランドに行く日の朝、妹が熱を出した。

楽しみにしていた私は大いに怒った。泣いた。暴れた。

それを見た母がこう言った。

「お母さんと妹はお留守番してくるから、ようことお父さんでいってらっしゃい」

朝5時半、ポップコーンバケツを抱えた小学生の私は助手席に座り、ナップザックに荷物を詰め込んだ父の運転で、キリンジを流した車が出発した。

妹が生まれてから大きくなるまで、私の隣は基本的にずっと父だった。
助手席は妹が大きくなるまで私の席だった。
食事の隣の席はずっと父だ。
長子にありがちなことだと思うが妹は母とセットだったし、私は父とセットだった。

ディズニーランドに行くことができれば満足な、単純な私は大好きな父とのお出かけに有頂天だった。
とはいえ、子供にとって朝5時に起きる、というのはかなり難しい。
私は寝た。当然のごとく父の運転する車で爆睡した。

私の家からディズニーランドに向かうには首都高の外環自動車道を使う。

目が覚めたのは新小岩より少し手前の、スカイツリーが江戸川越しに見えるあたりだった。

「たなびく光化学のナプキン
 浅い笑窪に溜まりかねた音楽」

私はこの光景が父に関わる記憶の中で一番好きだ。

白い光と青い天気、首都高の早いスピードと江戸川の向こうの密集した街。

キリンジの「休日ダイヤ」。

高校生の時は父と壮絶なぶつかり合いがあった時期もある。今はディズニーに行く相手はもっぱら友人か妹がほとんどだ。

去年やっと免許を取って、まだ全然運転のできない私は首都高なんて走れそうにないが。

いつか、朝早くの首都高を、「休日ダイヤ」を流して走れるようになりたい。

あの光景をもう一度見たいのだ。

21歳になった私の、人生に大きくは関わらない、ささやかで、大切な目標だ。

「5年以内に私は必ず東京外環自動車道を走る」


(全くの余談だが、ここ3年くらいずっと父に「私が家を出るときに、キリンジの冬のオルカのCD(「休日ダイヤ」が入っている)を譲ってくれ」と言っているが聞き入れられたことはない。そして自粛中に始めた将棋で勝てたこともまだない。父と娘はそんなものなのかもしれない。)


この記事が参加している募集

はじめて買ったCD

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?