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Fruitvale Station

ライアン・クーグラー監督の「Fruitvale Station」(邦題:フルートベール駅で)を見ていて思ったことを少し。

この映画を見て思った差別に蓋をする行為と映画の役割の2つのことを簡単に残しておこうと思う。


差別に蓋をする

この映画を見て思ったことの1つは、差別とは「隠す」という行為によって引き起こされるのではないか。要するに「知っているにも関わらず知らないふりをする」という行為の結果ではないかと。臭いものに蓋をした事例の1つではないのかというものでした。

自分含め、多くの人が世の中に差別があるのを知っているにも関わらず、知らないふりしている。
肌の色が違うだけで同じ人間である。という事実を知っているのに知らないふりをする。
先祖が韓国、朝鮮籍であるだけで本人は日本国籍である。と知っていながらも在日と罵る人がいる。

などそのほかにも色々あるでしょうが、基本的には知らないふりが差別を生む。それが過激であるか、自身の考えの正当化のために他者を攻撃しているか、とは別に誰しもが差別の当事者である。ということではないかと。

日本は差別が少ない。ということを言う人もいますが、最近話題の女性軽視発言であったり、2年ほど前に川崎市で、日本以外の国や地域の出身者への差別が対象である「ヘイトスピーチ禁止条例」が成立したりと、差別が少ない国にあるまじき事例が多数あります。
日本は特別に差別が少ない国ではない。という事実を隠すのを良しとするのは良くないことなのでは。と個人的には思っていますし、その事実を隠すことが直接ではないにしても、積極的に差別をする人たちの正当性を認め、背中を押す行為となっているかもしれない。差別を受ける人たちの存在を無視している。という事実を考慮するべきだと思っています。

自分の無知によって、知らないうちに差別をしているということも考えるとやはり差別に対しては自分は関係ないではなく、当事者意識を持ち積極的に情報を集めたり、考える必要があるように思います。

私自身も、おおっぴらな差別を身近で感じる機会があるかといえば、そうそうあることではないですし、自分が差別を受けたと感じたこともない。
という幸運な環境において、ではどうすれば差別に対し当事者意識を持てるのか。ということも実際には大きな問題じゃないかと。

やはり差別についてもっとオープンに話し合える、一人ではなく多くの人と考えを共有できる環境が大切なのではと思ったりもします。話し合って、考える時間を作ることで少しは当事者意識を持てるのではないでしょうか。
義務教育のうちにそのような時間を儲けることができれば一番良い気がしますが、現状それは皆無に等しいように感じます。

私には関係がないから興味がない。は知らないという言葉と同じ意味ではない。ということを認識する必要があると。近頃よく思います。
それと同時にその興味をもつきっかけとしての映画の役割も改めて考えました。


映画の役割

娯楽として物語を楽しむ、自由な時間を満喫するための映画。
それでも十分だけれど、それだけではとどまらない。

映画を見るということは、自身が経験できない、知ることが到底できないことへの理解であったり、関心を持つきっかけを作ることと同等の行為ではないかと、この映画を見ていて改めて実感しました。
それが映画の持つ役割の1つではないかと。

2時間かそこらの映画で詳しい知識を得たり、製作から公開までのタイムラグを考えると真新しい情報を得れられるとも考えられないけれど、そこから湧き上がる好奇心や感情をきっかけにして、見た人がさらに深く調べてみたり、思考を凝らしてみたり、何かしらの行動を起こしたり。優秀な人達が作りあげた、それらのコンテンツが見る人の心を動かし、考えを変える。
そんなことがあってもおかしくない。そこを目指す作り手がいてもおかしくない。私は心からそう思うわけです。

ただそんなことばかり考えて映画を見ていると、楽しいものも楽しく感じられなくなってしまう可能性があるのも事実で、いろいろな楽しみ方があるうちの1つとして、これからもたくさんの映画を見たいとも思う。


ここまで書いて思ったのは差別には直接的なものと、間接的なものがあって、どちらも知らないふりによって起こる。間接的なものの中には知らないことを知らないということも含まれていて、無意識に差別をしてしまっている、差別であることすら気付かないなんてこともあるので基本的に全ての人間が当事者であることを意識する必要があり、できる限り意識的に理解を深める必要があるのではないかなと。
それを映画であったり、書籍であったりも助けてくれるのではないかなということでした。

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