見出し画像

社会的発言とクリエーション1

特定の分野におけるアーティストやクリエイターが社会的メッセージを作品に込めて発信することの重みがかなり変わってきているように思う、というよりも受け手が感じる部分という意味合いでは、ほとんど意味がなくなってきているのではないかなと思ったりしてます。のでその考えを書きながらまとめてみようかなと。


作品の意味は受け手のもの

そもそもく彼らが何かしらの作品にどれほどのメッセージを込めたとしても、それが伝わらないと意味がないのではないか。という意味ではそのメッセージは受け手次第であって、作り手がどれだけ大事なメッセージを込めようと、分かりやすさであったり、汲み取りやすさがないとせっかくのメッセージが台無しになってしまうわけです。


それを棚に上げてたまに、「私が作品に込めた思いが伝わらない」的なことを言う人もいるみたいですが、それは根本的に間違った解釈ではないかなと思っています。


まず、作品に意味を込めるという行為の前提には受け手側に
・作品には意味が込められているものだという認識。
・意味があるのだとしたら何か考えてみようという思考。
の2つが必要なのではないでしょうかと。


もちろんそれだけではないでしょうけど、少なくともこの2つがなければ作品を見てもそこに絵があるだけで終わってしまうわけで、更に言うとその考えを肯定するように、「ただそこにあるものがアートである。」と認める人も一定数いるということも考慮する必要があると思います。が、今回はそこは割愛して上記2つの前提条件について考えていきたいと思います。


作品には意味が込められているものだという認識

まず1つ目ですが、これについては割と多くの人が持っている前提ではないかと思っています。むしろ自分含めてそこに引っ張られすぎているようにも思うぐらいで、世の中には何につけても評論家や批評家が山のようにいます。


彼らの仕事は、「作品には何かしらの意味がある。」といった前提条件があり、その意見を見聞きする人がある一定数存在する。
彼らのような職業が存在しているという事実はまさに、「作品に意味がある」という認識がある程度浸透している証明ではないかなと。

むしろ都市伝説的に本当かどうかわからない考察を話し合ったりするのが好きな人は結構な数いるんじゃないでしょうか。

要するに、わかりやすく、面白おかしい要素があれば、多くの人は意味を受け入れるということなのだと思います。


評論家の意見を「ああ、そうか」と納得し、面白おかしい都市伝説を「こんなことが」と伝え合う。


それらを考慮するとやはり1つ目の前提は多くの人が持ち合わせているものだと言えるのではないかと。

ただ、それらは人の意見であっても一人一人の意見ではないことがほとんどではないでしょうか。誰かの意見をその通りだと受け入れ、こんな話がと伝えることを考えているとは言わないはず。というのが私の意見です。

意味があるのだとしたら何か考えてみようという思考

2つ目の前提ですが、これは1つ目の話に続けて言うと、意味は考えるものではなく誰かしらから受け取るものである。という考えが先行していて、自分で考える。という考えを持っている人は少ないのではないかと考えています。

作品には意味がある、そしてそれについて考える人がいる、その考えを聞く人がいる。
「それについて考える人」が中継となり、「その考えを聞く」受け手に渡す。
ほとんどの受け手は自身では考えないというのがこの前提に対する私の考えで、これはその前提を多くの人が持っていない、または多くの作品には何かしら意味があるが自分で考えるものではないと思っている。ということを意味します。

ではその2つの前提条件に対し、どのように作品に込められたメッセージを受け手に渡せばいいか、またそれは可能かどうか。などを次回以降考えていきたいと思います。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?