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母のこと

前回、レッスンを通して私が考える子育てについて書きましたが、それは私自身が子供の頃にしてほしかったことなのかもしれません。


私の両親 

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父はそこそこ大きな会社の会社員で、かなりの努力をしてある程度の地位をつかんだ人です。

曲がったことは大嫌いな人でした。

運転手付きになっても、帰りの時間が遅くなるようだったら、運転手を帰してタクシーで帰ってくるような…そんな父でした。

父は私にとって、とても尊敬できる存在でもあり、とても怖い存在でもありました。

躾は非常に厳しく、それでも小さい頃はよく遊んでくれていました。しかしだんだんと仕事が忙しくなると、帰りも遅くなるし、私が中学生になるころから単身赴任生活になったので、父の存在は家ではほとんどないような状態でした。

そうなると、やはり母のワンオペになります。


母は専業主婦で、あまり外に出るようなタイプではありませんでした。

そしてまるで、大人になりきれないまま、精神年齢は子どものまま止まってしまっているような人。

思っていることはすべて吐き出し、思い通りにならないと荒れる。

どんな相手でもかまわず感情をそのままぶつけてくる。

家族に対しても、学校の先生に対しても、ご近所さんに対しても、初めて入ったお店の店員さんに対しても…


母の生い立ち

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母のそのような性格は先天的なものなのか、子供の頃の経験によるものなのかはわかりません。

母は小学生の時に実母を病気で亡くしています。

母には弟、妹がいましたが、当時まだ小さかった妹(私の叔母)だけ住んでいた山口県から遠く離れた大阪の親戚に預けられたそうです。

その後、父親(私の祖父)の再婚により、新しく「お母さん」となった継母とはうまくいかなかったらしく、おそらく子供の頃は十分な愛情を受けられないまま成長したのかもしれません。


母の子育て

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そんな母が子供を授かり育てていく…やはり大変だったのかもしれません。

母の性格上、他人とのトラブルも多く、あまり友達もいなかったようで、助けてくれる友人や親戚はまわりにいませんでした。

だからなのか…育児のイライラはそのまま私にぶつけられました。


あなたがいるから自由な時間がない!

あなたがいるからゆっくり寝られない!

あなたがいるから面倒な役員をやらなきゃいけないでしょ!


妹が生まれると、これがさらに激しくなります。

父親似の私と違って、妹は母親そっくりでした。

母は性格に難ありでしたが、娘の私ですら羨ましくなるくらいの超絶美人でした。
昭和30年代の雑誌の表紙になりそうな…

自己申告ですが、何かのミスコンに選ばれたことがあるとか…

そんな母にそっくりな妹は、少々気が強かったけど、明るく活発でスポーツもでき、それはそれは人気者でした。

私はというと…

引っ込み思案でめったに笑うこともなく、表情も暗い。

父の転勤で転校を繰り返していましたが、すぐ友達ができる妹と違って、私はなかなかクラスに馴染めずにいました。

そんな私を見ていると、なおさら母は「イライラする」と言っていたのです。


私の病気

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高校生になるまで、私は本当によく病気をしていました。

月に1回は熱を出して休んでいたような子です。

幼稚園の卒園式も、熱のため出席できませんでした。

そういうことも母にはイライラさせるようでした。学校を休むたび、

「また休むの?」

「またすぐ熱出して…」

「ほんとに弱い子だね!」

いたわる言葉より、このような言葉ばかりが母から出てきていたのです。


そして小学生になったばかりの頃、病院で心雑音がすると言われます。

子供の心雑音はよくあることです。成長とともに消えていくものなのですが…

私の場合は大きくはならないものの、消えることもありませんでした。

定期的に心電図検査をするよう勧められましたが、母はこれを面倒くさがってしまうのです。

大きな病院で学校を休んで検査に行く。とにかく混んでて待ち時間が長くてイヤ。

年に1回の検査でよかったのですが、それすらも母は嫌がり2年ごとにしてしまいます。

父の転勤もあり、引っ越してしまうので、同じ病院で続けて検査を受けることができず、意味があるのかないのかの検査…

(後に「1度房室ブロック」だと言われ、治療の必要はありませんが今も心電図検査は受けています)

中学生になると今度は拒食症のような症状が出始め、食事がほとんどできなくなってしまいました。

父がひどく心配をし、母に病院に連れて行くように言ってくれたので、病院に連れて行ってもらったという感じでした。

体には特に悪いところもなかったので、お医者さんからは

「ストレスだろう」

と言われたのですが、母はその場で大笑いし、

「この子にストレスなんてあるわけない」

と言ったのです。

そして

「こんな子、産まなきゃよかった」と…

母の過干渉

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一見、ネグレクトのような母の行為ですが、時々ひどく過干渉になることもありました。

私の持ち物、友人関係など知りたがるのはまあ当たり前。

カバンから机の中から、全てのチェックが入ります。

私が熱を出して学校を休むことは嫌がりますが、普段の外出もまた嫌がるのです。

どうにか家に閉じ込めておこうとすることもしていたのです。

友達と遊ぶ約束をすれば、外に出ればどんなに悪い人がいるか…注意というレベルではない。「脅し」に近い状態で怖がらせ、遊びに行くのをやめさせることもありました。

小学校に入学したばかりの頃、体育の授業でもしケガをしたら半身不随になる、下手したら命がないくらいのレベルの話をして、私はほとんど体育の授業が受けられなくなってしまっていました。

修学旅行ですら…あの手この手を使い、行かせまいとしたくらいです。

高校受験になると、私の志望など関係なく勝手に願書を出してしまう。

こういうときだけ

「お母さんはあなたが心配なの」

と言うのです。私への愛情なのだと…

そうかと思えば

「自分の子どもなんだから何をやってもいいんだ」

と言うこともありました。

もうぐちゃぐちゃです。

母との決別

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そんな母との関係に疲れ、大学進学は家から出られるところを選びました。

もちろん母は大反対で、認めてもらうまで大変でしたが、なんとか家から出ることができました。

しかし…こんどはストーカー化したのです。

一日中電話をかけてくる。

留守電にはものすごい量のメッセージが入る。

数分電話で話をしても、またすぐかけてくる。

これは私が結婚しても変わらず、ほとんど電話で何もできないまま1日が終わってしまうこともありました。

だんだん電話の音が恐怖になり、出産後の不安定な時期とも重なり、家の電話線を抜いてしまっていた時期もありました。

それでもやはり、私は娘なのだからと近くに呼び寄せた時期もありましたが、結局母と揉めてしまい、私も精神的に不安定になり、見かねた父が母を連れて九州へ引っ越してしまいました。

その後1度だけ、九州まで行って母に会っていますが、それ以降、全く連絡を取っていません。電話も着信拒否にしています。

そのような状態になりもう5年になります。

トラウマから仕事へ

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子供の頃から、友達のお母さんと母とは何かが違うと思いながら過ごしてきました。

周りの親子関係をひどく羨ましく思ったり…

ずっと母の愛情が欲しかったのだと思います。歪んだ愛情ではなく、もっと…

私個人を認めてくれたうえでの愛情。


子どもが生まれたとき、私は母のような母親には絶対ならない!と決めました。

それが良かったのかどうかはわからないのですが…


そして、それはまた今の仕事の原動力にもなっています。

音楽療法士を目指したいと思ったのもそのことが関係しているのかもしれません。

つい、おせっかいとは思いながらも、レッスンをしながら生徒たちの背景にある親子関係が気になってしまうのです。


母と決別してからの私は、全く別人のようになったと自分でも思っています。

子供の頃、行動の記憶はあっても感情の記憶がほとんどありません。

あんなことをした、こんなことをした、という記憶ははっきり残っているのに、その時に楽しかったのか、悲しかったのか、どんな言葉を話したのか…

そういう記憶が欠落しているのです。

それが今ではよく笑い、よく泣き、よくしゃべり…

周りの友達に昔の話をすると、ほとんどの人が信じられない、と言われます。

唯一、昔の私を知っている妹だけが、本当に別人だと笑います。

それくらい、私の子どもの頃の記憶は暗いものです。

それえゆえに、生徒たちや子どもたちの表情の変化には敏感になってしまうし、見過ごせなくなってしまいました。

それならいっそ…

過去の悲しい記憶にいつまでもしばられて悲しむより、私だからできることに生かした方がいいのではないか、と思うのです。




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