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イラストレーターになって初めて父に絵を贈った話 〜片付けられない母と家族の記録〜

「この絵を描いた時の気持ちを文章にしてみませんか」

初めて言われたこの言葉に、ドキッとした。
書きたい。でもどうやって書いたらいいんだろう。

私はある頃から、自分の言葉や文章に対して恥ずかしさを感じるようになっていた。
過剰に人の目を気にするくせに目立ちたがり屋の私。
でも本当は文章で自分も思いを表現してみたかった。

初めに、新しいことに踏み出す貴重な機会をいただいたことを心から感謝したいと思う。
この文章を書いていて途中、涙が止まらなくなった。
心の想いを溢れるだけ吐き出した、稚拙な文章を、もし読んでもらえるなら。申し訳ない、だけど、ありがとうございます。


私の家族の話をしたい。この絵は私の家族の絵だ。

その前に私は仲のいい友達には決まって家族の話をする。
今まで付き合ってきた歴代の彼氏にはまず自分の家族の話をして、引かれないかを試したりする。
私は自分の家族を好きなだけ、同じく嫌いとも思っている。
自分のエネルギーを根こそぎ持っていく、彼らに愛情を通り越して憎悪や執着や劣等感でいっぱいだからだ。
これはもう愛なのか憎悪なのかわからない、愛着家族の実録である。


私の幼少期から学生時代、上京して就職、今に至るまでの話をしたいと思う。


山口県下関市という本州の一番端っこ(最西端)に暮らす父、母、兄、私、弟の5人家族。
父も母も下関生まれ、下関育ち、親戚もほぼ山口県内か、隣県の福岡か島根、鳥取周辺に住んでいる。


いつも友達に話すのは決まって母“いくちゃん”の話である。
いくちゃんをお母さん、ママと呼んだことはない。生まれてからずっといくちゃん。
友達みたいな関係といえばそんな感じで、お母さんらしさを感じたことはあまりない。

いくちゃんは地元では有名な名物おばちゃんである。
ガキチャリ(小学生が乗ってるチャリ)を乗り回して、前歯がないのでコロナ前からマスクをしている。
黒マスクがお気に入り。私が中学生の頃にきていたような服を着ている。
マイケルジャクソンが好き。

これだけでかなりいかつい異様なおばちゃんが出来上がる。

ちなみにこれは私の鉄板の持ちネタなので、
仲良しな友達は「いくちゃん元気?」と言ってくる。
家族みんなにナメられつつ、愛されているのがいくちゃんである。

いくちゃんは父から「ごみえ」と呼ばれている。たまに旧姓で呼ぶときもある。
いくえなのでごみえだ。ゴミを片付けられないから、「ごみえ」だ。
うちの両親は私が物心つく頃には離婚している。だが一緒に住んでいる。

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私が幼稚園の頃、「うちは離婚半分だから」と友達に言ったらしい。
それをその友達のお母さんがいくちゃんに伝えたらしく、いくちゃんはあんまり家のことベラベラ言ったらいけんっちゃと言った後に、「それにしてもうまいこというなぁ〜〜」と笑っていた。

さて、ごみえこといくちゃんは優しい。
あと寝るのが好きだ。ナマケモノを擬人化したらいくちゃんになるんだと思う。

「ゴミ」という存在は、私が赤ちゃんの頃からすぐ隣にいた。

家が臭いのも、物で歩けるスペースが本来の広さの1/10なのも、変なんだろうと思いながら、当たり前に生活していた。
だが、友達の家は綺麗だし、足の踏み場もたくさんあるのは羨ましかった。

いくちゃんはいつも忙しそうにしてる。
でも用事は大体 スーパーの値引き後の買い物とか、電気代の支払いとか、そんな感じ。
なんでそんなことで忙しくて、私が言ったことを忘れるんだ、と怒ったのはもう数えきれない。
電話にもあまり出ない。私はいつもイライラして、なんで電話に出ないんだ!と何回電話ぐちで怒鳴ったことだろう。

とにかく普通の行動ができない母親に子供の頃から怒鳴りっぱなしだった。
期待して傷つき、何回話ても変わらず、話し合いのような推し問答のようなそんな会話。
今日だって10回は電話してるのに全く出ない。

そんな母親ほっとけばいいのに。何回も思った。

私が電話する用件というのは、まあそこまで大事ってわけでもない。
何かあった時はいくちゃんに話したいと思って電話してしまう。私も私なのである。

私は両親のダメなところを存分に受け継いでいると思う。
ナマケモノで基本働きたくないし、人付き合いもあまり得意でないし、短気で天邪鬼で寂しがりだ。


まず最初に住んだのが私が生まれてから6歳まで住んでいた家、次に引っ越した2軒目の家、最後はそこから徒歩3分ほどのおじいちゃんおばあちゃんの家。
初めはもちろん綺麗なのに、全てTVで特集されるようなゴミ屋敷に変わっていった。一瞬で。


特に最後のおばあちゃんの家は、私とおばあちゃんが2人で住んでいた思い出の家だった。
私が高校卒業後に上京してから、お盆に帰った頃にはもう汚くなっていて、
それでもおばあちゃんが頑張って掃除していたけど、おばあちゃんの体が弱くなって老人ホームに入った頃にはもう私が住んでいた頃の面影は無くなっていた。

私は帰省した時、その家の変わり果てた姿を見て、悲しい気持ちと怒りで気が狂いそうだった。
いくちゃんは優しいけど、掃除や約束ごとなどは一切話が通じない、そんな人だ。


小学校低学年の時、1つ上の兄とショッピングセンターで5時間以上放置されたことがある。
「すぐ戻るから」「すぐ折り返すから」「○○分待っててね。」
こういった言葉に幼い頃から裏切られ、小さく傷ついてきた。

小学生の頃はいつもお腹が減っていた。
いくちゃんは節約のためと言って20時以降のタイムセール品しか買わないから、
小学校から帰ってきても何もない家で兄と弟と冷凍食品を冷蔵庫を漁って食べたり、家中食べ物がないか探し回っていた。

散々待ちくたびれた後に、いくちゃんが帰ってくると悪びれることなく「ごめんごめ〜〜ん!」とあせあせと慌てて夕飯の準備を始める。
私たちはその頃にはもう怒る気力もなくて、兄弟でお腹ペコペコで、子供ってなんて不便なんだろうなと思っていたのを覚えている。
家の食卓はケンタッキーとかモスバーガーとかファーストフードや、パウチされた惣菜が多かった。
簡単な手料理もあったけど、そういう日はもっと食べ物にありつける時間が遅くなってしまう。
何をするにも遅い。選択肢のない子供はいくちゃんに全てを預けるしかなかった。


父は下関の漁師町の出身で、とにかく口調も気性も荒かった。
自分で会社を経営し、現場仕事で毎日月曜から土曜は 朝早くから夜遅くまで働いていた。
家族内の権力ピラミッドがあるとすれば、父が絶対的一位で、子供ながらに父は少し怖かった。

いくちゃんも父が帰ってくると急いで夕飯の支度をする。
父の夕飯を出した後に子供の順番が回ってくる。
「いくちゃんお腹すいた〜」
「今パパ子のご飯準備してるから!」
とお預けで、出されるものも父は刺身などで、子どもとは違っていた。なんて特別扱いだと思っていた。


父のことはパパ子と呼ぶ。父からの命令だ。
よくわからないそんなチャーミングなところがある、彼も不思議な人だった。

毎週日曜日は必ず父と兄弟で車に乗って遊びに行く。
遊園地やテーマパーク、釣り、アスレチック公園など色々連れて行ってくれた。
外食ができる日なので焼肉や寿司も食べさせてくれた。

いくちゃんがついてくることもたまにあったが、いくちゃんがいると父と喧嘩になるので途中から一緒に行かなくなった。
子供としてはいくちゃんも一緒に来て欲しかったけど、
いくちゃんは今日は家のこととか洗濯するから〜!と留守番していた。

夕方になると決まってスーパーにいるいくちゃんと合流して、
買い物袋を車に乗せて家族で帰った。

今思えば、家族にとって一番 家族らしかったと思うのがその時間だった。
この絵も当時の情景を思い出して、描いた。


次に兄弟の話。
年子の兄は幼い頃からいじめられっ子で、大学を半年で中退した引きこもりだ。
引っ込み思案でいつもビクビクしていて、本人曰く いつも周りの空気が読めない発言をしてしまうそうだ。
学生時代はほぼ毎日いくちゃんは学校に呼び出されていたそうだ。


昔からそんな兄が嫌いだった。
いつもおどおどしていて自信がない。
小学校で兄がいじめられているのは私もみていたし、自慢の兄ではなかった。
小学生の頃、兄に「みゆのことお姉ちゃんって呼んでいい?」と言われ、心底げんなりした。

小学校の頃、私はクラスの女子で一番足が早くて人気者な方だった。
そんな私と兄は年齢が上がるにつれてどんどん話が噛み合わなくなり、会うと喧嘩ばかり、しまいには全く喋らなくなった。


弟は4つ下だ。
少し年のあいた次男なので祖父祖母から可愛がられ、弟も年配者と話すのがうまく、よく親戚を喜ばせていた。
兄と私とは性格も違い、穏やかで平和思考。家族の衝突は弟によって緩和されたこともあった。
弟の本気で怒ったところを見たことがない。
楽観的で仕事は嫌いなナマケモノだが家族には必要な存在だった。


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中学になると私は家族と暮らす家を出て、おばあちゃんの家に一人だけ離れて暮らすようになる。(徒歩3分ほどの距離だが…)
私は生まれた時から反抗期みたいな性格で、中学高校に上がる頃には、家族誰にも手がつけられなくなった。

そして父と何かのきっかけで大喧嘩し、5年ほど父と一切口を聞かなくなる。
まして顔も合わせたくない!と道で車が見えただけで避けた。

反抗期真っ只中の私の面倒を祖母が見てくれた。
祖母ともよく喧嘩して、「仲直りしましょうね」という手紙を何通も交わした。

時々感情が抑えられなくなって、ブワッと沸き上がってグツグツして止められなくなった。
今も感情の起伏が激しいのだが、高校1年生の頃に初めて精神科に一人で行った。

とにかく辛くて、親にこの気持ちを理解して欲しいのに、かまって欲しいのに、
問題児の兄しか いくちゃんの頭は回ってないようだった。寂しかった。

兄と喧嘩すると、大概 兄を庇ういくちゃんに腹が立って仕方がなかった。
いくちゃんに依存して生きてる兄が嫌いだ。


高校の頃、人生が辛くて、いくちゃんは何もできない、してくれない、愛されてないと感じ 死にたくなった。
学校も楽しくなくて、小学校の頃のキラキラした人気者の私はどんどん捻くれていった。
父とも相変わらず少ししか会わなかった。

私は中学生の頃から、とにかく東京に行きたかった。
「この狭い田舎で、この家族に、苦しめられたくない。」と、東京に絶対いくと決めていた。

東京に行くためには、東京の大学に行かねばと思い、
東京の美術大学で浪人しないで入れそうなところを選んで入った。

高校2年の夏から画塾に通うことになった。
画塾の費用をその頃は知らなかったが結構な値段だったそうで、
いくちゃんにいまだに「みゆは画塾も大学も高い金を使った、私が子供の頃は親に支援なんてされたことなかった」と毎度顔を合わす度に言われている。

その通りだが、毎度言ってくるのがしんどい。

そんな父親には感謝しても仕切れない。奨学金もなく美大に行かせてくれた。口を一切聞かない娘に。
私立の医大と変わらない額で自分は将来子供に同じことができるんだろうかと考えてしまう。


もし、家族に父がいなかったら。


去年の年末、私はそんな自分と向き合いたくて適正診断を申し込んだ。

自分で自分を考えてもいつも泥沼にはまって抜け出せないからである。
そして、この文章を書いてみてくださいと言ってくれた カウンセラーの高さんに、
「お父さんがいなかったらどうなっていたと思いますか?」と言われてゾッとした。

恥ずかしいことだが、私は今までの人生 いくちゃんのことばかり考え悩み、構ってもらえない、辛いと嘆いている。

パパ子がいなければ自分は今、東京で暮らしていないだろう。
美術の勉強もしてなければ、イラストを書いて仕事してもいない。
今周りにいてくれる友達も誰も知り合ってないと思う。

今までそんなこと考えたこともなく、生きてきた自分が急に恥ずかしくなった。


大人になった私は、母親に奪われた祖母と、祖母の思い出の家を取り戻す、そのことで頭がいっぱいになっていた。
そんな私は祖母が他界した時、私はなんのために生きてるのか本気でわからなくなった。
仕事も結婚も人生全部、いくちゃんに飲み込まれないように自立した自分でいるために選んだ。


彼女は聖母のように優しくてナマケモノみたいに可愛い時もあれば、残酷で他人に興味がなく、一緒にいると悲しくなって怒りが抑えきれなくなって、辛くていられなくなるのだ。
いくちゃんは私にとっては理解不能、人間の外の世界の人。


ただ、父も同様に怖くて絶対の権力で、力があって暴力的で逆らえない人間だと思っていた。
昔は父の方が怖くて、父も母も話し合いなんてできる人ではなく、私たち家族のコミュニケーションは歪だった。

ただ、「私たち家族に父がいなかったら」と考えると全くこれまでの解釈では納得いかなくなる。

父は母のこの異様な行動や性格に約30年間付き合っているんだ、子どものために。そう思った。
子供の頃から 父がどうしてこんな母と一緒にいるのか、理解できなかった。
母に生活費を渡し、家のある程度のことをさせている。できなくても怒りはするが、ペナルティもない。

父はここ最近、自分で洗濯をするようになった。

還暦を過ぎても、仕事詰めで、洗濯を自分でやらないといけなくて、
体力のいる仕事現場で、コンビニ弁当とコンビニのペットボトルの飲み物を買って食べている。

確かパパ子といくちゃんはお見合いで結婚したと聞いていた。
パパ子はよく「ごみえとその母親に騙された」と口悪くいうが、子供の頃は、だったら別れたらいいのに と思っていた。
そういうと「だから離婚したんや」と言い返される。昔からいつもこの会話の繰り返しで、離婚ってなんなんだ?と思ってしまう。
「一緒に暮らさなかったらいいやんか!」というと後ははぐらかされた。


「パパ子がいなかったら、うちらみんな生活できなかったと思う。ありがとう。パパ子は家族の太陽やったんやね。」

年末、恥ずかしながら電話で伝えてみた。

いつもはおしゃべりなのに、肝心なことは言葉にしない父。
この後もまたはぐらかされるんだろうと思っていた。

「子どもは親を見て育つから。」そう呟いた。

びっくりした。ちゃんと言葉のラリーができた。

父が子供の頃、家庭の金銭的な都合で、高卒で自衛隊に入隊したそうだ。
本当は大学に行きたかったと言った。

子供にはそんな思いをさせたくなかったと話してくれた。

親が離婚するとその子供もそのように育つ。

いくちゃんとの生活がどんなに劣悪でも、いくちゃんを見捨てずに私たちを育ててくれたことに変わりはない。
もちろん、いくちゃんだって、考えてることはわからないけど、愛を持って育ててくれたと思う。

「あんたの母親が子供の運動会に弁当忘れた時は本当許せんかったけどなあ」

そんなこと、あったっけ。
まあいくちゃんならありえるな、日常茶飯事やったな〜。そんな会話だった。

すごく父親じゃないか、パパ子…。

子どもの頃の父親は運動会でもいくちゃんを怒鳴ってたような気がする。

子どもの頃は朝から遅くまで働いて、関わる時間がいくちゃんより少ない分、少し怖いくらいに思っていた父。

逆にいくちゃんは家で昼寝したり再放送のドラマを見たり、ライオンのごきげんようとか、メレンゲの気持ちとか、いいともを一緒に見ていたけど。
話す時間が多かった分、いくちゃんの視点で父のことを捉えていたと気づいて悲しくなった。

家族は父のおかげで平生を保っていた。


「なんて愛のある家族なんだと思いました。」と言われ、本当に嬉しかった。


高さんにそう言われた。家族を肯定された気がした。
今まで散々否定してきて、普通の親が欲しかったと何度も思った。
でも自分の親はこのいくちゃんとパパ子で今後も変わらないんだ。


幼稚園〜小学生低学年の頃、父が爆弾のようにブチギレる夜があった。
そうなると家族全員でゴミの片付けを始める。深夜まで、父の怒りが治るまでその作業は続く。
いくちゃんに怒号を浴びせ、暴力をふるう父に兄弟でビクビクしながら泣きながらゴミをビニールに詰めた。
父の怒りが頂点に達するとその場にいるのも怖くて仕方なくて、兄弟3人で身を寄せて隠れていた記憶がある。

そんな寝れない夜が定期的にやってくる。

私は一方的に怒られるいくちゃんを見て、心配ながらかわいそうとはあまり思えなかった。

どうしていくちゃんはゴミを片付けられないんだろう?
パパ子は怖いけど、当たり前のこと言ってるだけなんじゃないか…?

家族総出でゴミ掃除を終えた後、
いそいそいくちゃんがゴミ捨て場から先ほど詰めたビニール袋を回収し家に持って入る。
「これはいるやつ!大切な書類があるんよ〜!」と。数日経つとまた元の状態に戻る家。

しかし本当にそのゴミの中に運転免許証や保険証などが入っていることもあり、
こちらも捨てるに捨てられなくなる。
私たちの命はこの人に握られてるんだなあと子供ながらに思い、情けなかった。


小学生の頃、近所に住む祖父祖母が地元へ1ヶ月間ほど帰省する為家を開けた。 
その間、おばあちゃんの家をかり、家族5人暮らした時があった。
いくちゃんの親に当たる祖父祖母は綺麗好きで、家は快適だった。

いくちゃんは昭和の厳しい家庭に育った。
いくちゃんがゴミを片付けられない、電話に中々出ない等の問題を祖母に話したことがあった。
すると おばあちゃんは「昔からあの子はそうなんよ。」というような感じで困ったね〜という感じだった。
障害、病気 私も詳しくはわからないが、そんな重大なものという感覚はないようだった。それかあっても孫には言えなかったか。
叱りつけるけど具体的には、どうしたらいいかわからないという感じだった。

「しょうがないようなあ、、言っても聞かないし、、。」

そのおばあちゃんちで快適な生活をした期間に、ふと一人で我が家を訪れた。
しばらく(2週間程度)家を開けているので、ゴミやものだらけの廃れた家は余計に異才を放っていた気がする。

その時ガラガラッと音がして、近所の2つ下くらいの悪ガキ兄弟が家に入ってきたのだ。
私は咄嗟に隠れた。
なんで人の家に勝手に入ってくるんだと戸惑ったが、
この家に「人の家としてお邪魔する」という感覚があるわけないか…。とすぐに状況を整理して思った。

足を踏み入れた悪ガキたちは
「やば…」「なにここ汚な・・・」と言ってすぐに出て行った。

他人(しかも年下)に勝手に家に入られ、汚いと言われ、家に対するコンプレックスがどんどん強くなっていた。

今になってもたまに思い出して悲しい気持ちになる。
友達の家に遊びに行った時、
家族で仲良く綺麗な家に住んで、綺麗な母親の手料理が出てくるのが本当に新鮮だった。
お父さんが気さくで話しやすく一緒にゲームしてくれるような家にいまだに感動してしまう。

私は今も昔もずっと、何かあるといくちゃんに電話して話したくなる。
悲しかったことも、楽しかったことも話を聞いてほしい。
受け止めて欲しい。
私の中の小さい私が叫んでいる。

いくちゃん聞いて、今日こんなことがあって悲しかったよ、つらかったよ、聞いて、ねえねえ。
いくちゃんはほしい答えをくれない。

電話に出ない。

悲しい。なんで出ないの。つらい。
だんだんイライラしてくる。なんで出れないの。
基本的に1ヶ月に数回出たら良い方で、基本電話に気づかなかったり気まぐれで出なかったり、あとは充電を忘れていたりすることが多い。

アダルトチルドレン。
気分循環性障害、鬱病。
ADHD。発達障害。
私と兄弟を括ってきた言葉の一部たち。


しかし、これまでの自分の気持ちをいくちゃんに話しても、このモヤモヤは消えないのだ。

聞いてほしくて、ほしい返しが欲しいだけなのに。
私はなんでこんなにいくちゃんに固執するんだろう。

母親とは割り切った付き合いをしてる人を見ると羨ましい。

私の心の鎖がいくちゃんなのはずっとずっと、もうずっと前からそうだった。

何か大きなストレスが発生すると、すぐに私の心がいくちゃんを求めていてもたってもいられなくなる。
グラグラ動揺して自分を保てないほど泣いたり、罵声が止まらなけなる。


うるせえブス、だまれ、ふざけんなてめえ。兄と弟ばっか甘やかすな。だからダメな大人になるんだ。お前がおかしいから兄弟もみんなおかしいんだ。ふざけんな、ふざけんな。電話に出ろ。基本的なことをしろ、ホウレンソウしろ。ゴミを捨てろ。
一人で生きろ。嘘ばっかつくな。迷惑かけんな。てめえなんていなくても生きていける。母親らしいこと何もしてないのに説教すんな。ふざけんな。寝てばっかいないで買い物にもっと早く行け。物を買ってくるな、増やすな。早くしろ、早くしろ。いくちゃんに愛されたい。かまって欲しい。もっとしゃべりたい。


27歳になった今も、なにも変わらない自分にうんざりする。
普通を取り繕っても、異常な気持ちを隠し切れない。

いつも何か足りない、満足できない、誰になにを言われても一瞬だけ嬉しいだけで、でもそうしてないと自分で自分を保てない。


父も母も生きていて、幸せなんだと思いたい。

父はお金を稼いでくれて家族を養ってくれているし、

母も元気に生きている。

子どもの頃何か足りなくて悲しかった記憶は大人になると、自分が自立すると無くなると思っていた。

でもそれはうまく他のことで見えないように隠していただけで、
ちょっとぐらつくと、明るく優しい自分を保てず一気に本性が現れてしまう。

口も性格も悪く、人の幸せなんか願えないし、否定ばかりしかできない悲しい人間が私だ。


人のことを否定してしまう。
無意識に。認めたくない。

いくちゃんにいうこと、やることのほとんど否定されて、
どうして否定するの、肯定してくれないのか、
そんなことを自分は訴えるのに、同じことを他人にしてしまう。
近くにいる人ほど余計否定的で独裁的になってしまう。決めつけてその檻から逃げ出すことを許せない。


新卒で会社員をしてしばらく経った頃、友達とルームシェアを始めた。
仲の良い友達と毎日恋バナしたり、TVを見ながらああでもないこうでもないと話すのが楽しかった。

ただ、どんどん彼女と仲良くなって好きになると共にどんどん自分の中で彼女を否定したくなっていた。


生意気で反発したくなる性格は自分のせいなのだろうか。
なんでこんなふうに育ったんだろう。

帰省するたびにいくちゃんに、「いつも口の聞き方を気をつけろ、東京で一人暮らしして変わってると思ったのに。何も変わってない、悪いのがもっとパワーアップしてる」と言われる。


小学生の頃のミニバス内のいじめがひどくて、家から動けなくて涙が止まらなかった時も、
私はあの時止めたのに。ミニバスなんて絶対続かないと思った。と言われた。

会社を休職するとき、勇気を出してうつ病になったかもというと、
あんた馬鹿やね、鬱って保険おりんのよと第一声で言われた。

家庭教師をつけてすぐ大学に合格したときは、
お金がもったいない。だからやめろって言っただろと、どれもいまだに会うたびに言われズキズキ刺さる。

なんでしゅうくん(兄)に優しくできないの。
アンタの言葉にずっと傷ついてるんよ。人の気持ちを考えられんの?

私もいくちゃんの話を聞く姿勢があまりないのか、
否定されることが分かっているので何を言っても揉めてしまう悪循環。


親ってそういうもの?
ドラマとかでもあるよね。本当は子どものこと考えてるみたいなストーリー。

でもそれを信じたら、全部こっちが悪いのかな?考えが浅はか?親は絶対なの?

私自身が親を否定しながら肯定を求め、矛盾に心が追いつかなかった。


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なんで普通に会話できないの。
なんで普通に暮らせないの。

正月 実家に帰省するとき、私は最寄りのホテルに泊まる。
家にも泊まったことはあるが、状態によっては体が痒くなったり体調が悪くなるので長く滞在できない。

1畳ほどのスペースで食べ物を食べ、寝て、TVを見ていくちゃんと過ごす。
数日過ごすと東京に帰りたくなる。


学生時代、なんでこんな親を断ち切れないのか自分に腹が立って仕方なかった。

自分のダメなところを指摘したりバツが悪くなると、逆ギレして私の昔の話を掘り返して罵声を浴びせてくる。

家はネズミやらゴキブリやら虫や腐った食べ物の匂いで蔓延して、
昔大事にしてた服も思い出の品も全部、今はどこに行ったのかわからない。
運よく見つかってもカビが生えてたり、汚く見るに耐えず劣化している。
祖母祖父の大事なアルバムも服も全部が腐って滅んでいく。


大事なものを全部奪われて、会話で説得しても話は通じなくて、傷つけあってきた。

いくちゃんが“できない”のは分かってる。

でも、どうしても認められない。期待しなければ傷つかないのに。分かってるのに。

東京にいても、地元にいる時ほど苦しくは無くなったが、この鎖が外れない。


人を否定して、いくちゃんみたいになってる自分にも嫌気が差す。

人の気持ちに敏感で自分も障害者なんだろうか、会社も続けられなかったし、何も続かないし、意欲もないし、信頼も何もなくて、
歪な、いくちゃんみたいな人間になっているんだろうか。怖い。嫌だ。

普通になりたい。

私の目標は普通になりたいことだった。


中学から会社を辞めた3年前も、ずっとしにたいが口癖にだった。
本気で死ぬわけじゃなくても、ふと気持ちを言葉にするとその4文字になった。
もっと掘り下げると、もう消えたい、だめだ、できないこんな私だめだ、そんな意味だったと思う。
常に生きづらさを感じていた。

擬態して生きてきた。

どうして死にたいの?と居酒屋のバイト先の女の子に聞かれた。
どうして死にたくないの?咄嗟に出た。

絵を描くことは幼稚園頃からずっとしている。
空いた時間、家で暇な時間、無意識に絵を描く。

学生の頃は賞もたくさんとった。
勉強そこそこで、運動はまあ好きだったが
中学高校になると美術部に入った。

小学校の頃ミニバスでいじめに遭ったこと、厳しい練習も苦手だった私は、運動部は怖くて入らなかった。

美術部は個人競技なので、人と無理にずっと関わらなくていいし、
こちらの方がより多くの賞をとれるので家族に褒めてもらえる回数が多いのでいいなと思った。

「みゆうは暇さえあればずっと絵を描いてるね。」


リビングでいくちゃんに言われたのを覚えている。
そこに余白があれば、ティッシュの箱にもマジックで絵を描いた。ハンガーにも描いた。
人と話しながらに、無心で手が動くままにすらすら描くのが好きだった。

いくちゃんも絵は上手だった。
すごいね、上手だねと言われたくて、嬉しくて、無意識に描くようになっていた。

高校生の頃、いくちゃんの絵を油絵で30号キャンバスに描いた。

私は母を愛して仕方ないんだと思う。

母はかろうじて生きている。父のおかげでゆらゆらと赴くままに自由に生きている。


私が高校生の頃、いくちゃんが内職の仕事を始めたときがあった。
チラシを折って束ねて、近所へ配る仕事だ。
いくちゃんが働くなんてすごいことだと思った。

子どもみんなで手伝った。

ただ、何ヶ月か過ぎた頃には家中そのチラシの束まみれになっていた。
ゴミが増えただけだった。

いくちゃんはテレビを見ながらいつものようにダラダラしていた。
「いくちゃんもうチラシ全然やっとらんやん」とからかうと
「へっへ〜そうなんよ〜」と笑った。
「ほんとアホやな、いくえは」兄弟で笑った。


いくちゃんは友達みたいな人で、
夏休みは毎日いくちゃんと兄弟と一緒に遊んだ。
いくちゃんは車を持ってなくて、運転もできないので、自転車や電車で遊びに出かけた。
ポケモンの映画を見に行くといくちゃんは絶対寝ていた。
「いくちゃん寝ちゃいけんよ。今年は一緒に見てや」そう言って劇場に入って、いつもすぐ寝た。

大学で上京することになった時も、
私は銀行でお金をおろす方法も何も知らなかった。
親には教えてもらわなかったが、一人で東京で生きるために必死だった。
私の生活の基礎のほとんどはYahoo知恵袋先生だった。

そんないくちゃんが、唯一上京する私に持たせてくれたのがケトルだった。
「これがあれば大体大丈夫や!!!」と自慢げに言っていた。
大丈夫ではない。他に一人暮らしの女子大生に必要なものはたくさんあるはずだ。否、ある。
思い出すと大概 笑えてムカつく話題がいくちゃんには山ほどある。


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一昨年の祖母の葬儀で久しぶりに会った兄は「俺、空気読めんこと言ってしまうみたいなんよね」と言った。

相変わらず自信のなさが溢れ出たような姿にげんなりした。

引きこもりだった兄はパパ子の会社で雇われている。

会社と家以外、一人でアニメグッズを買いに行ったりしているそうだ。

もっといろんな人に出会えばいいのに。

親以外に関わる大人が少なすぎる兄。
話す内容も感覚も高校のころから何も変わってない。
時が止まっている。

いくちゃん以外とは心から自然に話せないそうだ。
いくちゃんを中心に生きる兄が嫌だった。


幼い頃から兄は周りと比べて一歩二歩遅く、
宿題は中学生までいくちゃんが隣で見てあげないとろくにできなかった。
しかもその日の朝にバタバタと宿題をし出す。
忘れ物も多い。いじめられるわけだと思った。

私はそんな兄が恥ずかしくて仕方なかった。
いくちゃんは生まれたての弟と兄につきっきりだった。

私はよく「みゆは何も言わなくても一人でできるもんね。」と言われていた。
寂しかった。いくちゃんを独占する落ちこぼれの兄が憎くて仕方なかった。

ただでさえいくちゃんは思ったとおりにかまってくれないのに。

ミニバスでいじめられた時、何も言えなかった。
練習に行くのが怖くて、父と毎週日曜日に遊ぶことも試合でできなくて悲しかった。
布団で隠れて泣いていた。
家では、優等生の兄に威張っている私は家族に弱いところを見せられなかった。
すごいねと言われることしか、できなかった。

いくちゃんもいっぱいいっぱいだったんだと思う。
生まれてから、いくちゃんは何回 人に同じようなひどいことを言われて続けて、生きてきたのか、私にはわからない。

行き場のない私のかまってちゃんがうようよしている。

そんな両親はこれまで私を育てる為にやってくれたことがたくさんあるのは分かっているのに、
こうじゃない、そうじゃないと自分が本当に求めたことはそうじゃないと、反発する想いが頭を支配する。


母の愛に飢えて渇望して、しんどくてしんどくて。

もし父がいなかったら本当に死んでいたか、気の遠くなるような人生を生きていたんだと思う。

だけど、父がいてくれて私は幸せです。十分満足です。とはなれないのはなんでなのか。


色紙に描いた絵は、楽しくてワクワクしてなんの曇りもない幼い私だ。


ただしかし、本当はいくちゃんもこの車で家族みんなの日曜日に一緒についてきてほしいと思っていた。

いつも日曜の朝は、「いくちゃんも行かんの?」と聞いて、
夕方また帰ったら今日会ったことを全部話した。

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今思えば、
いくちゃんを連れて行っても、父と喧嘩するのは目に見えていて、
そうしたことは父の最善の選択だったのかと思う。

父はいくちゃんと離婚して、子どもを自分の親権にし、
その距離感を保ちながら過ごすことが、家族全員を護る選択だったのかと考えてみた。

この絵は父が護ってくれた空間とそのひとときを一番に感じるこの日曜日の情景を絵にした。色ペンと色鉛筆でささっと描いた。年末に兵庫県で父の友人の家で落ち合って渡した。恥ずかしいのでサッと「絵、描いたからあげる。」と言った。目は合わせない。覚えてないが、「ん。」みたいな言葉が返ってきたような気がする。

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私たちは歪にこれからも互いを愛し傷つけながら生活する。

やるせなくて数え切れないほど泣いたけど、
歪で問題だらけの家族を、私は一生向き合い続けるんだと思う。


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