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藤田嗣治について

レオナール・フジタ[Léonard Foujita1886-1968]

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おかっぱにちょびひげ丸眼鏡がトレードマーク

彼の名は藤田嗣治。東京美術学校(現:東京藝術大学)を卒業後、単身渡仏。"乳白色の肌"などフジタ独自の画風を確立して、エコール・ド・パリ(パリで制作活動を行う外国人芸術家達の集まり)の仲間入りを果たします。

戦時中には日本で戦争画を制作し、戦後はその国策協力を問われ、離日。フランスに帰化し洗礼を受け、洗礼名をレオナール・フジタと言います。

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世界を知る日本人としての生き方を願いながら最終的にレオナール・フジタとしてフランスで生涯を終えた。遺骨はランスの"フジタ礼拝堂"に眠っています。ランスはシャンパーニュ地方の街。G.H.マムのルネ・ラルー(当時の協力のもと、マムの敷地内にフジタが設計し手掛けたその礼拝堂があります。マムはフジタに捧げるシャンパーニュ「メゾン マム RSRV」も生み出しています。

2014年シャンパーニュの地に初めて降り立った時、日本人なら一度は訪れなければと礼拝堂に向かいましたが、タイムアウトか柵に鍵が掛かっていて中を見学できなかったです。(時間はギリギリ間に合うと思っていたけれど、今振り返ると開放期間で無かったよう)

また来るチャンスはあるだろう、というか作らなければと当時はすぐに切り替えましたが、コロナで海外渡航が難しい今考えると時間は有限。何でもかんでもまた行けば良いという思考は少し変化しました。

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数年後、フジタの没後50年藤田嗣治展が東京都美術館で開催されました。画風というよりは、彼自身の生き方に興味関心があり、しっかりと作品を鑑賞したことがなかったのでこの企画展はフジタを堪能するに十分すぎる内容でした。今まで行って満足美術展の一つです。

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冒頭で綴ったようフジタの最大の特徴は乳白色。油彩でこの繊細なまるで大理石の彫刻のような色彩。細い輪郭線で囲う独自のスタイルは日本人もあると思いました。

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フジタはパリから中南米への旅立っています。私はこの頃の絵が好きでした。どの画家さんもそうだけれど、時代によっての画風のちょっとした変化ってとても面白いです。(今度オディロンルドンについて書こう!)

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力強さがあってなんだか逞しくて。ラマと4人の人物はお気に入り。これが三重県立美術館蔵であることを今知りました。

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争闘(猫)は第二次世界大戦勃発後パリで描かれたもの。どこか日本画のようなニュアンス。そして欧州から日本に帰国し、フジタは戦争記録画を作成します。

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この絵を前にして、フジタの愛国心を深く感じました。おかっぱ頭を丸刈りにして(そりゃそうか)、絵画における戦争の表現に力を注ぎ、自らの意思で手掛けた作品もあります。どうでしょうか。自ら戦争を世界で日本で経験し、それを伝えるべく筆を取る国に捧げて、終戦の後彼は戦中の協力者として追われるのです。フジタは祖国の裏切りを嘆きます。芸術美術の評価の相違と絶望を感じたのだろうなと思います。そして再びフランスへと旅立つのです。

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1950年60代でパリに戻り制作を続けます。エコール・ド・パリ時代とは様変わりした世界ではあったものの、フジタの絵画はオリジナルを貫きながらより洗練されていったように見受けられます。

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フランス国籍を取得したフジタはランスの大聖堂でカトリックの洗礼を受けます。洗礼名はレオナルド・ダ・ヴィンチにちなみ"レオナール"。洗礼後はキリスト教徒として熱心に宗教画を制作したといいます。非常に信仰深いというか、忠実な人物像が浮かびます。戦争画にしても宗教画からみても、"身も心も捧げ表現する"ことができる人だったのでしょう。潔く清々しい生き様です。

時代に翻弄され、心に傷を負いながらも画家として描き続けたレオナール・フジタ。そもそも日本というフィールドでは収まり切らなかったでしょう。フランスを最後の地に選んだのも納得です。こんな風ですし。

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彼の作品は国内でも色々な所に収蔵されているようです。これらがまた一堂に集まってくれる美術展やって欲しいなと願います。60周年かな?

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