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自分が見たくないものを投影する。それをもゆるしていく。


「投影」とは何と巧みなのか!

と最近つくづく感じています。

(心理学でいう投影とは、自分の感情が「相手にある」と思うことです。)

自分のしてきた「投影」を真剣にあげ考えていけば、誰もが自分のやってきたことを直視しがたいと感じます。

例えば、私はかつて自分自身が母親と共依存だと感じていて、そのことを恥に思いながらやめられないとき、母子癒着をしている親子関係にある人をどこかで軽蔑する、というようなことを無意識にしていました。

自分自身が受け入れることができず、恥に感じているものを他者に投影する、ということを驚くほど日常生活で私たちはやっています。


その内面の状態こそ解放する必要がありますが、それより問題なのは、それを行動化してしまうことです。


例えば、頼まれてもいないのに、それをアドバイスのように他者に指摘し、言う方は恥から束の間解放されたようないい気持ちになれても、言われた方は、突然攻撃された!嫌な気持ちになった!と、トラブルに発展しやすいです。


ここで傷が少ない人なら、「何かこの人の指摘は不穏な気持ちになるな。」と冷静に状況を判断し、その人とそういう会話をしない、スルーする、その場から離れる、などトラブルを回避できます。


が、そこで自己肯定感が低かったり傷が多い状況の人が、何か他者から不穏になる言葉を理由なく言われたりされた場合、攻撃仕返したり、抵抗したりしやすく、トラブルに発展します。


私はかつて、親族から訳がわからない、理由なく攻撃を受けたとき、攻撃仕返したい思いにかられて、本当に苦しみました。


私自身の内側に、本当は「怒りたい!!」という思いが沈んでいたからこそ、それらの出来事を引き込んでしまったのかもしれません。


そう冷静に思えるようになったのは、その出来事を目の前で一緒に見ていた夫が、私と一緒かそれ以上に怒ったからでした。


その人自身に具体的なアクションを起こしてはいませんでしたが、いざとなったら行動化する(やり返す)気でいるのが見てとれました。


自分以外の他人がそのような姿を見せてくれたとき、はじめて、

あれ?あちらが勝手にしかけてきた攻撃に、どんなに理不尽であっても、いや理不尽であればこそ、そのことに視点を向け続けるのは、何かものすごく無駄にエネルギーを使っていないか?


あちらの問題に、こちらが巻き込まれていくのは意味のないことだ、と気づきました。

私たちのエゴは、

「私は正しい」と思っています。

「私は正しい!」と鼻息荒く、誰の助言も受け入れる余裕などない状態の人に、「こちらが正しい!」とやり返すのは、不毛です。


関わりを回避する、話しを逸らす、など触らないのが1番の防衛になり、私の何がいけなかったのだろうか?と真剣に考え自責したりするのは1番やってはいけないことです。


巻き込まれないためには、やはり自分自身の存在における尊重、何を言われても、私は自分をOKだと思っている、内側の状態が1番の鍵です。

私は、当時まだそこが育っておらず、悔しさや哀しみを回避するため、無意識に自責で処理しようとしていました。

「私の態度や言葉の何かがいけなかったんだ。」

「だからあんなに怒らせてしまったんだ。」

と思うことで自分を納得させようとしていました。

が、そのあと親族内で別の人に、その人がまた怒こり続けている、というのを聞いたとき、
やっぱりあの人の問題だったんだ、と当時の未消化な思いが表出しました。


未消化な思いを、私のように自責で納めようとしたり、その人のように他責で納めようとしても、必ずそれは他の出来事で表出してきます。


何もかもをゆるしたとき、いや、ゆるせない自分をも受け入れたとき、出来事すべてを受け入れられたとき、やっとホッと寛げます。



戦闘体制ではなく寛いではじめて、人も自分も癒せる状態になります。


私たちは、ゆるしによってしか寛げないし、癒されない。


どんなに外側のあれこれに手を出して忘れようと夢中になって獲得していっても、内側の虚無感、満たされていない思いは消えていません。


投影を思うとき、


どんな自分もゆるす、
どんな他者もゆるす、
どんな出来事もゆるす、



これ以上の手段はなく、これこそが生きる目的ではないか、と感じます。

お読みいただきありがとうございます。

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