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米アカデミー賞ポリコレ推進の穴

米アカデミー賞が2024年の作品賞にノミネートされるための条件として多様性の項目を設置した。

みなさんこんにちは、
女子高校生フェミニストのピッピちゃんです。
今回は騒がれている米アカデミー賞のポリコレ推進について、多様性項目設置がマイノリティを抑圧してしまう面についてお話します。

多様性項目の設置にあたって

米アカデミー賞がこんな声明をだした。


今回多様性の項目に規定された少数派は
・女性
・人種・民族的マイノリティ
・障害者
・LGBTQ

である。

作品賞のノミネート要件として、次の4項目を少なくとも2項目、マイノリティを起用することがあげられた。

・俳優やテーマ部門
・映画作成部門
・インターンシップなど訓練機会部門
・広報やマーケティングや流通部門

ではなぜ多様性項目ができたのであろうか?

アカデミー賞では、2016年、俳優部門にノミネートされた全員が2年連続白人だったことから #OscarsSoWhite 、白人ばかりのアカデミー賞と猛烈な批判を受けた。ハリウッドもまた、白人でありシス男性であり異性愛者であり健常者である人が中心となる、そんな社会の縮図があった。そこで発足したのがこの多様性の項目設置だ。

多様性項目は誰を救う?

ここで性的マイノリティの性的指向であるLGBを取り上げてみたい。

LGBは異性愛者中心の社会で「それ以外」を表すために作られた言葉である。考えてみれば、性的指向を表す言葉に、レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・パンセクシャルは広く流通していたとしても、ヘテロセクシャルという言葉はそれほど認知されていない。なぜなら異性愛者が当たり前とされた社会では、異性愛者自身がわざわざ性的指向をカミングアウトしなくてもいいからである。

性的指向が異性愛であるのが標準とされた社会であるゆえに、LGBという「異性愛以外」を表す言葉ができた。LGBという言葉が流通し、異性愛中心社会に同性愛や両性愛を認知させるという点では進歩であるが、同時にその言葉が異性愛中心社会であることを体現してしまっている。

LGBという言葉は欠性対立によるものである。欠性対立とは、対立する項の一方だけに特徴があり、他の項はその特徴がないことによってのみ定義されることをいう。

例として「不良少年」という言葉をあげる。不良少年の対義語は「不良少年でない少年」と書かれる。

これとLGBは同様だ。異性愛が中心の社会では同性愛や両性愛を「異性愛以外」と表すしかなかった。その異性愛以外を具体化したのがLGBという言葉である。

突き詰めていった先、性的指向における平等はLGBという言葉が使われなくなる社会だ。異性愛も同性愛も両性愛も無性愛もくくりなく、ただ「性的指向」とだけ呼ばれる。それは異性愛中心の社会を解体していかなければならない。

ここで本題に戻そう。
多様性項目は誰を救うのか?

先程論じた通り、私たちは異性愛中心の社会に生きている。アカデミー賞の作品賞にノミネートされるには「LGBTQだとカミングアウトした人」等マイノリティが関わることによって項目が満たされる。つまり、カミングアウトしなければLGBTQとは見なされないのだ。これは「異性愛者が中心の社会では自分が同性愛者だとか両性愛者だと告白しなきゃ、あなたは異性愛者だよ」ということである。なんと傲慢なことであろうか。カミングアウトしていない同性愛や両性愛者はおのずと異性愛者とカウントされ、米アカデミー賞審査側から勝手に、「多様性ではない」と言われてしまう事態もおきえるのだ。

障害者の項目も同様である。表面にはわかりにくい知的障害や精神障害を持った人も、カミングアウトしていなければ「あなた健常者だから」と言われてしまう。自らマイノリティが「私はマイノリティなんだ!」と主張していかなければならない社会がさらなるマイノリティ抑圧を生む。それはマイノリティ側だけにかせられた「声をあげなければ認められない」というコストである。

マイノリティだと主張すれば石を投げられ、殺されたケースさえ存在する。そんな中、自らの属性のために声をあげるのがどれほど勇気のいることだろうか。

一見、米アカデミー賞の多様性項目は、マイノリティとマジョリティの平等を押し進めるように見えるが、その裏では「声をあげなければ認められない」というさらなる抑圧を作っているのも事実である。

ポリコレ推進とその裏にあるさらなるマイノリティ抑圧について、さらなる議論を深めていきたい。

9月11日
女子高校生フェミニスト
ピッピちゃん

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