美容院と「まとも」
10年近く同じ美容院に通っている。
特別に思い入れがあるという訳でもなく、上京した時に一番近くで一番いい感じの美容院だったから今も通っているのだけど、それは大学の4年間だけの話で、引っ越してしまった今は片道1時間以上はかかってしまう。それでも美容院を変えようなどは一回も思った事が無く、10年ほど粛々と通い続けている。
そんなに通い続けていれば、すっかり美容師さんとも仲良しになったかと思われるかも知れないが、僕は美容院では一言も喋らないのでそんな事にはなっていない。(初来店の時に問診票みたいなものを書いて、その時に「話しかけないでください」みたいな欄に花丸をつけたので対応としては間違っていない)
最初の6年ほどは誰も指名せずフリーで切ってもらっていたが、ここ4年ほどは一人に決めてずっと指名している。その人の気怠そうで話すのがあまり好きそうでは無い雰囲気がとても気に入っている。
先日、その店に髪を切りに行き、いつものように無言でボーっとしていたら事件は起きた。
担当の人が別の場所に行き、代わりにある工程を任された美容師が、普通に、本当に自然に話しかけてきたのだ。
「この後はなにか予定とかあるんですか?」
と聞かれた僕は本当にびっくりした。この場所でそんな会話を一度もしたことが無い。あの時の問診票を持ってきて見せてあげようかとも思ったが、10年前だしさすがに残ってないか。ていうか俺は10年間も喋っていないんだな流石にキモくなってきた。この後の予定はご飯を食べてネタを書いて映画に行くだけど「ネタを書く」を言ってしまったら芸人とバレて面倒な事になるからそれは避けなくてはいけない。じゃあ、えーと、
「映画を、観に行きます」
「へー、何を観るんですか?」
会話を続けてきた。まあ、会話としては自然な流れだが、具体的に映画名を言わなければいけない状況にパニックになった。今、僕は、初めて会う人に何を観に行くのか言うのか?
その日観る映画は、大手シネコンではやらないような、ちょっとマイナーな作品だった。ミニシアターや演劇に興味があれば知っている映画だろうが、ここでそんな冒険などできない。そのタイトルを言ってしまえば「それってどういう映画なんですか?」と聞かれて更に会話が進んでしまう。あと、なんかそういう映画も気軽に行っちゃう映画通みたいな感じに思われるのもめんどくさい。あーどうしよう。
「・・・まだ、決まって無いです」
10秒ほどの沈黙が生まれた。
「映画観に行くんですよ。何を観るかは決めてないですけど」そんな奴いる?焦りすぎて気持ち悪い嘘を言ってしまった。こいつは目当ての映画があるんじゃなくて映画館に行ってから観る映画を決める奴だと思われてしまった。なんか、それってすごい映画通というより、本当に暇すぎる変人みたいな感じしないか?
「竜とそばかすの姫観ました?気になってるんですよー」
先ほどの会話を無かった事にしてくれて優しいパスを頂いた。本当にありがとうございます。
「観ました!面白かったです!」
先ほどのミスをカバーするように食い気味に答える僕。
「フリー・ガイとかも面白そうですよね」
「フリー・ガイ観ました!面白かったです!」
いける。僕は今、美容師と普通にトークをしている。
無言の10年間を埋めるように僕は今普通に喋っている。美容師と普通に喋れる人間が「まとも」だと思っていて、それができない自分は「おかしい」と思い続けて諦めていた自分が今普通に会話をしている。そりゃそうだ、もう28だし。僕ももう大人になったんだ。むしろこれが正しい姿なのだ。もっと、もっと、ガンガン喋るんだ。
「わー、映画めっちゃ観てるじゃないですか。凄いですねー!」
「あっ・・・っす」
ムリだった。なんか急にムリになった。
こういう事を言われてしまってもこちらは何も返す事ができない。
肯定か否定かどちらかでも「オススメなんですか?」と聞かれてしまい、会話が発生してしまう。これ以上椅子に縛られたまま体力を奪われたくなかった。
その人に髪を洗われている時、この感覚がすごく懐かしくなった。
他の人はなんの気負いもなく普通に会話をしている。こんなに会話を失敗しているのは僕ぐらいだった。この空間で自分だけが「まとも」じゃないという感覚。
この感覚は学校や会社にいる時によく感じていた。その場に適した「まとも」がどこの世界にも存在していて、そこから少しでも外れると「おかしい」と思われて空気が歪んでしまう。
僕は飽きるほど空気を歪ませてきた人間だが、最近はそれを感じる事は無かった。
日常で話す人は芸人ばかりで、みんな「まとも」から外れている人ばかりだ。でも、それによって空気が歪むことはない。お笑いはどんな人でも優しく受け入れてくれる。だから僕はお笑いが好きだ。どれだけ失敗しても誰か一人でも笑ってくれるなら、全部報われた気持ちになる。
でもたまには、まともな会話をしなきゃダメだよなあと思いながら、熱すぎる水を我慢し続けた。
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