禅語を味わう...025:梅花新たに發く旧年の枝...
梅花新發去年枝
春を迎え、恵林寺でもようやく梅が見頃を迎えました。
今回の禅語は、梅にまつわるものです。
梅の花は、「百花の魁」と言われるように、すべてに先駆けて花を咲かせます。
あるいは雪に閉ざされた一面の銀世界の中にあって、独り微かな春の薫りを漂わせ、あるいは寒風にさらされながらも、負けることなく可憐な花を咲かせます。
ですから、梅花に関しては、「新たに開く...」という一言の中に、待ちに待った春の訪れへの喜びと、まだまだ辛い寒さの中にあっても、けなげに春の到来を告げ報せてくれる清楚な花への共感の気持ちが溢れているのです。
梅の花は確かに美しいけれども、その魅力は決して華美な美しさではなく、控えめで清楚な奥床しさです。梅の花を指すのに、「暗香」という言葉がありますが、「暗」とは「暗い」という意味と同時に「微かな」という意味も持っています。
一生世に出ることなく、梅を愛して暮らした宋代の詩人、林和靖(林逋)に、梅を詠んだ「絶唱」として知られている名句があります。
沈みかかり、傾いた月の薄明かりに、梅の木の影が仄かに照らされています。清く澄んだ水底に、その樹影が斜めに差し込んで、疎らに映っています。そして、花の様子もぼんやりとしか見えない薄暗がりのなかに、どこからともなく仄かな梅の香だけが漂ってくる...
確かに、この句には梅の花の魅力が凝縮されています。
薄暗がりの中に、ほんのりと浮かび上がるだけの姿、枝振りが月影に映るだけの姿、あるいは姿すら目に見えないで、微かに漂うその香りだけで、人をこれほど惹きつける花もありません。「百花の春」などという、豪華絢爛たる言葉が思いもよらない奥床しさです。
むしろ、凍てつく世界の中に咲き、逆境の中にあってこそ、ますますその真価を発揮する花...それが梅花です。だからこそ「新たに開く...」と言う時、この「新た」とは、ただ単純に「ああ、今年も梅が咲いたなぁ...」というだけのことではありません。厳しいところを乗り越えてこなければ、ことさらに「新たに...」などということは出てこないのですから...厳しい雪の中にもかかわらず、いや、厳しい雪の中だからこそ「新たに...」と、その尊さが実感としてわかるのです。
辛く厳しい中にあって、本当に心の底から求めているからこそ、たとえ姿は見えなくとも、ほんの微かな香りが漂ってかすくるだけで、私たちはその存在に気が付くことができる。先に触れたように、「新たに...」というのは、その開花を新鮮な驚きをもって、感謝の喜びとともに受けとめることができるということなのです。この「新たに」というのが、この禅語の「字眼」であり、禅語としての生命なのです。
さて、禅語として見るときに、もう一つ見逃してはならないのは、「旧年の枝」というところです。
梅の花が咲くのに、去年の枝に花芽がついて開花する? あたりまえのことじゃないか...そう思われる人がいるかも知れません。
実は、それは違うのです。
梅の花は、新しく伸びた枝につくもので、前の年の枝には花芽をつけてはくれないのです。ですから、「旧年の枝」に梅の花が「新たに開く」ということは、基本的にはあり得ないことなのです。
一体これはどういうことなのか...
「旧年の枝」という言葉が言わんとしているのは、要するに、厳しい冬の到来と共に、梅の木もすべての葉を落とし、枯れ木のようになってしまう。どの枝も...古い枝も新しい枝も、冬の最中さなかにあっては、生気を無くし、ひとたびは枯れ木のように死にきってしまう...ここのところを言わんとしているのです。
寒風吹きすさぶ厳しい冬、枯れ木のように生気を無くした梅の木が、まだまだ春などは先の先...そんな風に思っているその間にも、いつの間にか少しずつ、その枝に微かに生気を通わせ、かす気が付いたときには雪の中に可憐な花を咲かせている。
ちょっと見ただけでは、蕾が少しずつ膨らんできているなどとはわからない。それでも、ふと気が付くと、どこからともなく梅の香が漂ってくる。気のせいだろうか、まだ早いように思うのだけれども...
薫りに誘われて梅の古木に近づく。するとそこには、いつの間にか梅が花を咲かせている。身を切るような冷たい風の中で寒さに耐えている...
梅の花のこうした姿の中に、禅僧は修行の「かたち」を見るのです。本当の花は、厳しい過酷さの中から咲く。本物の花を咲かせるためには、一度は死にきって、すべてを無くしてしまわなくてはならない。梅の古木がそうであるように、ごつごつした枯れ木のようにならなくてはならない。そして、その死にきった枯れ木のような枝に、本物の花が開く...
修行の世界に思い切って身を投じても、必ず将来が見えるというわけではありません。自分の努力は、本当に実るであろうか? 自分のような非力で、才能もなく、根性のない人間が、本当に修行を全うできるであろうか?
修行者は、常にこうした不安に苛まれています。ああ、こんな修行、いつまで続くのだろうか...こんな辛いことをやっていても、自分のような情けない人間には無理ではないのか。こんな苦労、結局は無駄じゃないのか。だからこそ、念ずる...
本物の花は、枯れ木のような枝にこそ咲く...
ごつごつとした古枝には花は咲かないという...自分の姿は、まさしくその古枝だ。意気消沈して、不安に駆られ、信念も揺らぎがち...自分の修行など、「去年の枝」でしかない。花など、結びっこない。そんな風にも思う。
しかし、死んだように見える古木が、必ず新しい枝を伸ばし、毎年見事な花を咲かせてくれるように、枯れ木のように満身創痍の自分にも、必ず生気の通った新枝はあり、必ず花は咲く。ただ、それを信じて頑張り抜く。本物の花は、枯れ枝にこそ咲くのだから...
さて、この句にはこんな対句がついています。
「眼晴」とは「瞳」のことなのですが、禅の世界では伝統的に「目の玉」をいい、私たちの精神的な働きすべてを指す言葉です。
「眼晴を失却して」とは、「目の玉」を無くしてしまったように、なにも見えず、なにもわからなくなってしまった状態。目玉を探そうにも、探すための目玉さえなくなってしまって、探しようもない。修行に行き詰まり、追い詰められ、進退窮まってどうにもならない状態。言ってみれば、絶望して「万事休す」の「死にきってしまった」ところです。
そして、一番大切な「目の玉」すらなくして、すべてを無くし切ってしまったところに、初めて本物の「心眼」が開く。「眼睛を失却」とは、まさしくこの瞬間を指す言葉です。咲くはずがないと思ったところに、思わず知らず、本物の花が咲くように...
私たちも、辛く見通しのない歩みの中にあっても、ただひたすら新たな花を待ちながら、倦まず弛まず努力を続けていきたいものです。
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