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禅語を味わう...016:雪月花


雪月花

(せつげっか)

朝夕寒さの厳しい毎日が続きますが、暦の上ではそろそろ「立春」。よく見ると木の枝には小さな芽吹きがちらほらと見え始め、春到来の兆しがあちらこちらに窺えるようになりました。
さて、今回の禅語は、「雪月花」。皆様ご存じの言葉です。
「雪月花」といいますと、「雪見」「月見」そして「花見」が思い起こされるでしょうか。四季折々の自然の美しさを表現する言葉です。
四季の美しさを「雪月花」という言葉で代表させる習慣は、一説によれば、中国は唐の時代の詩人、白居易(白楽天)にさかのぼるといいます。白居易は、長安から、江南にいるかつての部下に向かって一篇の詩を送ります。その中に、このような一節があります。

琴詩酒(きんししゅ)の友、皆我を抛(なげう)ち、
雪月花の時、最も君を憶う...

琴や詩、酒の友人は、すべて私のもとを遠く去っていってしまった...そして私は、雪、月、花の美しい季節になると、特に君のことを懐かしく心に憶い起こすのだ...
ともに音楽に興じ、詩歌によって心を通わせ、酒を通じて胸襟(きょうきん)を開き合った親しい仲間たち...しかし、どれほど親しい仲間であっても、いつかは別れの時が来る。あるいは、心変わりによって、あるいは流転の運命によって。
これが、人の世のならいです。永遠の友情、永遠の愛を誓い合ったとしても、所詮は人間のなすこと。いつかは儚く消え去っていくのです。仏教ではこうした厳しい定めを「会者定離(えしゃじょうり)」と説き、その苦しみを「愛別離苦(あいべつりく)」と言います。


「会者定離」...出逢った者同士は、いつかは必ず別れなくてはならない。
「愛別離苦」...愛し合い、親しみ合った人とも、いつかは必ず別れなくてはならない。


この苦しみは、私たち人間には避けることのできない宿命だというのです。
しかし、心の底の底、人としての存在そのものの根底で深く結びついている本当の友、本物の「心友」とは、決して別れることはない。
そうした本物の友との間には音楽も、詩歌も、酒も必要ありません。ただ、無垢の銀世界に閉ざされた厳冬の雪景色が、凄絶に澄み渡り、皎皎と輝く秋の月が、われ先にと咲き乱れる百花繚乱の春の花があればいい。
どれほど遠くに別れ別れになり、たとえ二度と生きては会うことができなくなっても、ただ、ともに過ごした春夏秋冬、四季折々の美しい季節の輝きがあれば、それだけで充分なのです。
降りしきる雪景色を見渡し、澄み切った月の光を眺め、咲き誇る春の花を見つめる時、懐かしく心の奥底に浮かぶのはただ一人、君のことなのだ。あまりにも美しいこの自然の姿を、ともに眺めることができるのは、ただ一人、君以外にはいない。

   琴詩酒の友、皆我を抛ち...

多くの親しい友人たちに去られ、見捨てられて、痛切な孤独の中で呻吟しながらも、その心の奥底には「会者定離」も「愛別離苦」も届くことのない、「魂の深み」がある。だから、雪月花の時、最も君を憶う。移りゆく自然の一瞬一瞬の、その輝きに触れる時、何が二人の間を別とうとも、最も君を憶う。二人を別つものがどれほど大きく、圧倒的であろうとも、だからこそ一層深く、強く最も君を憶う。
そもそも、「雪月花」の美しさは、季節の移ろいの中の美、儚い一瞬一瞬の輝きのなかにあります。そして、儚いことによってその輝きは減じることはありません。むしろ反対に、儚いからこそ、一層その輝きは増すのです。

禅の修行者が修業の手引きとして必ず取り組む、禅の「語録(ごろく:禅僧たちの言行録)」の一つに、『無門関(むもんかん)』という書物があります。その中に、このような「偈頌(げじゅ:修行の体験を詠んだ漢詩)」があります。

春に百花あり、秋に月あり、夏に涼風あり、冬に雪あり、
若し閑事(かんじ)の心頭に挂(かか)ること無くんば、便ち是れ人間の好時節(こうじせつ)...

「閑事の心頭に挂ること無くんば」...心に「閑事」、つまらないことが引っ掛かることさえなければ、その時その時が「好時節」、最高の時なのだ。
生きていく上では、苦しいこと、辛いこと、不安なこと、嫌なこと...思い煩うことがたくさんあります。しかし、くよくよ悩んでもどうにもならないこと、これはすべて「閑事」です。どんなに深刻で、どんなに重大なことであっても、思い煩ってもどうにもならないことは、やはり「閑事」でしかないのです。
もちろん、大切なこと、大事なことは、どれほど自分の手に負えないことであっても、全力で取り組まなくてはなりません。不可能に思えるようなことであっても、やらなくてはならないことであれば、逃げないで全身全霊で立ち向かわなくてはなりません。
しかし、逃げないで、真剣に、全力で立ち向かうことと、「思い煩うこと」とは違います。くよくよと「思い煩い」、どうにもならないことに気をとられているというのは、実は全力で取り組んでいない証拠なのですから。そもそも、「全身全霊」でやるべきことに立ち向かっている時には、役にも立たないことに思い悩んでいる余裕など、あるはずがないのです。
生きていく上で大切な問題に突き当たり、人生を決定するような重大な事態に直面した時、どうでも良いことにくよくよして、心が振り回されてしまうとすれば、それは、自分の人生、自分の生き方を自ら「閑事」、つまらないことに引き渡すことになってしまいます。
反対に、一見ささやかで、どうでも良いようなことであっても、真剣に、全身全霊で取り組むのであれば、それはもはや「つまらないこと」、「閑事」ではなくなります。ちょっとしたささやかな出来事、ほんのちょっとした出会いが、人生を大きく変えてしまうことだってあるのです。それが、「好時節」。「好時節」とは、雪景色が綺麗だとか、月が見頃だとか、花見ができて楽しかったとか、そんなことを言っているのではないのです。
先の白居易の詩で言うならば、親友たちに打ち棄てられ、独りぼっちになって、多くのものを失うからこそ、本当に大切なものの有り難さが、実感として、骨身に沁みてわかる...これがすなわち「好時節」。禅の言葉は、すべてが修行の言葉なのです。


雪月花の時、最も君を憶う...詩歌の友も、酒の友も、すべてを「閑事」と捨て去り、儚い一瞬一瞬の、無常の時の移ろいの中に独り立ってこそ、本当の友、本物の心の友を憶うことができるのです。その瞬間こそが、すなわちこれ人間の好時節...
この時には、「雪月花」もその姿を新たにしているはずです。
道元禅師に、こんな歌が残されています(『傘松道詠』)。

春は花 夏ほととぎす 秋は月
冬雪さえて すずしかりけり...

そして、ほぼ六〇〇年の後、良寛さんが、世を去る時の辞世の歌を詠みました。

形見とて 何か残さん 春は花
夏ほととぎす 秋はもみぢ葉...

これは、真似でも何でもありません。「辞世の歌」とは、世を去る時に、最後に残す言葉。捨てて、捨てて、捨てきって、最後に命の燃え尽きる時、始めて出てくる言葉です。良寛さんは、まさに「雪月花の時、最も君を憶う」という万感の思いを持って、この歌を詠んだ。直接は会ったことのない、ほぼ六〇〇年も前の道元禅師に向かって、「雪月花の時、最も君を憶う」、と歌いあげているのです。ここには、「会者定離」も「愛別離苦」も、ましてや「閑事」もありません。良寛さんは、自身が属する洞門の開祖である道元禅師を心から崇敬していました。

限りあるこの命の尽きる時、形見として、一体何を残そうか...
いや、残すものなどないのだ。この世を去る時、何も残す必要は無い。何も思い残すこともない。ただ、満開の花、美しい声で鳴き交わすホトトギス、澄み切った秋月、真っ赤に燃える紅葉、清らかに冴え渡る雪景色...何を残すことも、何に執着することもない。ただ、美しい自然がそこにある、それだけで良い。ただ、それだけのことだ...
私たちも、あれこれ思い煩うことをやめて、すべてを捨てきって、近づいてくる春の訪れを、まるごと全身全霊で受け止めていきたいものです。


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