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禅語を味わう...003:さねこん頃は 雪のふる寺...

さそはずは くやしからましさくら花 さねこん頃は雪のふる寺


4月の半ばを過ぎたばかりのところですが、今年は恵林寺の桜も一部を除いてすべて終わり、新緑が美しい季節となりました。
恵林寺の境内では、五月の薫風を待たずして、気の早い牡丹が競うかのように咲いています。
桜は終わってしまったとはいえ、今年は武田信玄公生誕五〇〇年...
せっかくですから、信玄公と快川国師について、桜にちなんだ物語をひとつ。出典は、『甲陽軍鑑』です。

さて、今回の禅語は、和歌です。作者は、武田信玄公。
和歌も禅語になるのですか?
と思われる方もあるかもしれません。
一般に禅語は漢文から取られているように思われていますが、それは禅宗が中国で生まれ、中国の文化を背景にしていて、禅僧はまずはこのルーツを一生懸命に学ぶからのことです。
禅語というと先ず思い浮かぶ、禅の名句を集めた『禅林句集』というテキストがありますが、実はこれは、禅僧の遺した語録や仏教経典だけではなく、四書五経や『史記』『春秋』といった歴史書、『唐詩選』『三体詩』といった漢詩集などからなる、中国古典の漢詩・漢文の一大名句集です。『禅林句集』という標題を外して読めば、禅に限らず、教養のための名言集として読むことができるものです。ですから、これに収められていれば「禅語」、として一括りにされるようなテキストがあるわけではありません。

一方、日本では、修行を通じて得られた境涯を、漢詩・漢文といった「外国語」ではなく、自分たちの日常の言葉、自分たちの肌に合った、実感のこもった言葉で表現するために、和歌や俳句、川柳や都々逸を用い始めます。そうして修行の現場で用いられ、吟味され、集められた言葉は『世語集』あるいは『禅林世語集』とよばれるアンソロジーに収められていきます。
もちろん、ここでも、これに収められていれば「禅語」、とされるようなテキストがあるわけではありません。要するに、修行の現場で用いられ、禅的な経験がそこに息づくような言葉が「禅語」だというほかはないのです。漢文であるか、和文であるかということは問題ではありません。


さて、今回取り上げる言葉「さそはずは...」は、快川国師と信玄公の間で交わされた、詩を挟んでの真摯な対話、師弟の間の「禅問答」だと見ることができるのです。それはどういうことなのか...まずは、物語から見ていきましょう。

二月の末のこと、快川国師は「恵林寺にお立ち寄りください」と使者を立てて信玄公を誘います。信玄公の返答は、「近く出陣しますので、帰陣の時に、是非ともお寄りしましょう」というものでした。
快川国師は再び使僧を送り、「恵林寺の両袖の桜(りょうしゅうのさくら)が見頃を迎えておりますので、花見の一席を設けてお待ち申し上げます」と、重ねての誘いをします。これを聞いた信玄公は「花と聞いて応じないのは野暮なことだ」と、すぐに恵林寺に足を運びました。
恵林寺に到着し、快川国師にご挨拶すると、そこに料紙と硯が置いてあるではありませんか。信玄公はお供の土屋昌次を呼び寄せ、その場にあった硯で墨を磨らせ、料紙を取り上げるとその場で歌を一首お詠みになりました、

さそはずは くやしからましさくら花 さねこん頃は雪のふる寺
                           源ノ信玄

快川国師はこの歌を手に取って御覧になるとそれを褒め、そのまま料紙をいただくと高弟たちにお見せになりました。国師の高弟たちも口々にそれを讃え、寺内の他の僧侶たちもみな拝見を致しました。

禅宗僧侶の作法として、この様な場合には「和韻(わいん)」つまり韻を合わせて漢詩を作らねばなりません。さすが、当代随一の傑僧快川国師門下の禅僧たちです、「尽則座(ことごとくそくざ)にて和韻さるゝ」、皆が即座に和韻して漢詩を詠んだといいます。
恵林寺全山の僧侶たちがみな和韻したとなると、その数は夥しいものになります。
『甲陽軍鑑』は、「各の和韻は書申さず候。国師の御和韻ばかりかくの分かとうけたまはり及候也」、僧侶たちそれぞれの和韻は一々書き記しは致しません。ただ快川国師の歌だけは、この様なものであったと聞き及んでございます、と語っています。


さて、快川国師の和韻は、

大守愛桜蘇玉堂 恵林亦是鶴林寺

「大守桜を愛す蘇玉堂(そぎょくどう) 恵林またこれ鶴林寺(かくりんじ)」というものだったといいます。
快川国師のこの和韻のもととなる信玄公の和歌も、解釈が難しいものです。
特に「さねこん頃は...」以下は、意味を取ることがなかなか出来ません。
かつて鈴木大拙居士は、名著『禅と日本文化』の中でこの歌を紹介し、その時には「さねこん頃は」を「さてこん春は...」と読み、そのように解釈しています。
大拙居士のこの読み方と解釈にしたがうならば、信玄公の和歌は、

あなたにお誘いいただかなければ、この様な素晴らしい桜を観ることができず、口惜しい思いをしたことでしょう。しかし、お誘いをお受けしたからこそ、このように見事な桜を拝見することができました。また次の春に、また次の春に、などと言っていては、そんな時はやっては来ない。桜どころか、いつの間にか雪の降る頃になってしまうことでしょう...

という感じの意味のものになるでしょう。
しかし、もとの文章は「さねこん頃は...」であって「さてこん春は...」ではありません。恵林寺には信玄公の自筆と伝えられる和歌の料紙があり、そこでは「実こんころは...」となっています。それでは、「さねこんころは...」と読むならば、どういう意味になるでしょうか?

ここで、この信玄公の和歌に和韻した快川国師の漢詩を参考に意味を考えてみましょう。
快川国師の和韻は「大守桜を愛す蘇玉堂」と始まります。
「大守」は信玄公を指しているはずです。そして「蘇玉堂」は、恵林寺を指しているとみるべきでしょう。太守である信玄公がここ恵林寺にやって来て、満開の桜を愛おしんで詩をものしたのだ、と。
恵林寺を喩えた「蘇玉堂」は解釈が難しいですが、「蘇玉堂」の「蘇」は、東坡居士蘇軾(1037-1101年)と考えると、どうでしょうか。
北宋の官僚・詩人蘇軾は、宋代きっての文豪とされるのみならず、書家、画家としてもその名を馳せました。そして何よりも、東坡居士と言われるように、禅に参じ、その奥義に通じた人です。
諸芸に秀で、禅の奥義に到達する...漢詩を嗜み、和歌に秀でていた信玄公をなぞらえるにふさわしい人物です。
「玉堂」とは家を讃える美称で、宮殿を意味したりもしますが、さらに調べると「玉堂」には「漢代の宮殿の名で、学者が出仕した所。のちの翰林院の異称」という意味がでてきます。
恵林寺は禅の修行道場ですが、当時の禅僧には高度な教養が要求され、後の「寺子屋」に受け継がれるように、禅寺は学びの場という性格を強く持っていました。するとこの「玉堂」は学びの場としての恵林寺となり、幼い頃から優れた禅僧に就いて学びに励んだ信玄公にふさわしい言葉になります。そして現に信玄公のこの和歌にたいして、恵林寺中の僧侶たちがみな和韻をしているのです。
あるいは「蘇玉堂」は、蘇東坡の優れた門人たちを讃えていうと解釈することも可能です。その場合には、太守信玄公が桜を愛でたここ恵林寺は、古に東坡居士蘇軾を讃え、尊崇する優れた門人たち集った場所のようである。そしていままさに、蘇東坡のように優れた文人太守信玄公がお越しになり、恵林寺の詩僧たちはこぞって信玄公の見事な詩を讃えるのである、ということになります。

そして後半部分、「恵林寺亦是れ鶴林寺」の「鶴林寺」は、中国江蘇省の名刹黄鶴山鶴林寺を指すと考えることが可能です。
鶴林寺はもともとは大興四年(321年)に竹林寺として建立されました。
南朝宋の初代皇帝高祖武帝(劉裕)は、即位する前にはこの竹林寺をしばしば訪問し、休息所にしていたのですが、或る時、黄色の鶴が飛来する姿を目にして、その名を黄鶴寺と改めた、という伝承があります。
黄色の鶴は奇瑞です。黄鶴山鶴林寺はこの旧竹林寺で、風光明媚な場所にあるため、唐代からたびたび詩人に詠まれ、蘇東坡その人も詩文を残しているといいます。
このように、満開の桜の季節を迎えた恵林寺を風光明媚な鶴林寺にたとえるならば、信玄公は、竹林寺を鶴林寺に改めた南朝宋の初代皇帝劉裕(343-422年)にたとえられます。
劉裕は軍規厳正、「一人で数千人を殺す武勇を見せた」とされる猛将で、寡兵でよく大軍を打ち破り、十倍の兵を撃破したといわれています。そして後に禅譲を受けて宋を建国するのです(劉宋)。「天下に号令する」ことを目指した信玄公をなぞらえるのに相応しい人物です。

このように読んでいくならば,、快川国師のこの和韻は、信玄公の和歌を受けて、「甲斐の大守信玄公は、恵林寺の桜を愛す。この恵林寺は太守にとっては、宋の高祖に奇瑞をもたらした鶴林寺なのだ」と詠んでいることになります。
そしてもう一つ忘れはならないことは、「鶴林寺」の「鶴林」です。
鶴林とは、釈尊が拘尸那掲羅(くしながら)城の跋提河(ばっだいが)畔、沙羅双樹(さらそうじゅ)林のもとで入滅したときに、沙羅の林が枯れて真っ白に変じたという伝承につらなる言葉です。
枯れた沙羅の林の白さを鶴にたとえて、「鶴林」は、仏の入涅槃の意味を持っています。
真っ白に舞い散る桜の花も、純白の雪が降り積もる雪の寺も、ともにこの釈尊入滅を思い起こさせます。凄絶な死のイメージが、「鶴林」にはあるのです。

そして、快川国師が信玄公を花見に招いた「両袖の桜(りょうしゅうのさくら)」とは、恵林寺の開山夢窓疎石に遡る伝承があります。

山門の左右に桜を二本うへりやうしう(両袖)と名付、此桜ある間は恵林寺も長久ならんと夢窓国師の御申置也

と『甲陽軍鑑』は伝えています。
三門の両脇に一対の桜を植えて「両袖」と名付けなさい。この桜が見事に咲き誇る間は、恵林寺は栄えるであろう、という開山夢窓国師の命にしたがって「両袖の桜」と名付けられた名桜が、信玄公の出陣を迎えて満開となって咲き乱れる様は、奇瑞でなくて何でしょうか...
今を盛りと咲き誇る「両袖の桜」は、躊躇うことなく無心にその美しい花弁を散らします。そこに信玄公は、迷うこともなく、執着することもなく、無心に命懸けの戦に赴く己の覚悟の潔さを歌い込んだのでしょうか...そして快川国師は、歌の中に読み取った信玄公の覚悟を讃え、恵林寺での一期一会の一時を漢詩に托したのでしょうか...

さそはずは くやしからましさくら花 さねこん頃は雪のふる寺

命懸けの戦場に赴く前に、一目満開の桜を眺め、その散り際の美しさを目の当たりにしたからには、何の思い残すことがあろうか。
美しさの盛りに舞い散る桜の花びらは、躊躇うことも未練を残すこともない。天から降り注ぐ純白の雪のように、一点の汚れも曇りもなく清らかに澄み切っているのだ。それが、吾がこころのありのままの姿だ...信玄公の和歌のこゝろは、そこにあるのではないのか。

古来、桜を歌う歌には、未練を歌い、あるいは執着を歌うものが多いのです。

世の中に たえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし

『古今集和歌』『伊勢物語』(「渚の院」)にある在原業平の詩です。美しい盛りの中に舞い散る桜の姿に心動かされ、その心残りを見事に歌心に昇華した名歌です。
ここには僅かに、散りゆく華への執着が余韻として残り、そのかすかな恨みが、この歌の優れた情趣にもなっています。

願わくは 花の下にて春死なん その如月の望月の頃

こちらは、同じぐらい有名な西行法師(1118-1190年)の詩です(『山家集』)。
今回の主題となっている『甲陽軍鑑』の物語も、「如月(きさらぎ:2月)」でした。
もちろん、西行法師のこの歌も、信玄公の桜の物語も、旧暦の「如月」です。年によって時期は前後するのですが、今の暦では3月の終わり頃にあたります。
「望月(もちづき)」は「満月」で、仏教の開祖 釈尊入滅の日である2月15日を指すとされています。西行は、釈尊を慕い、その入滅と同じ日に、満開の桜が舞い散る春のその日に、桜の下で死にたいものだ、と熱烈な思いを歌っています。じっさい、西行は2月16日に亡くなったといいます。
西行のこの歌では、死ぬことを怖れず、潔くこの世の生を終えることを歌っています。
この世の生に執着も未練もない、望むことといえばただひとつ、釈尊が亡くなったその日に、満開の桜の花の下で死ぬことだけだ、というのです。
この潔さの中にも、僅かに釈尊への思慕が、そして潔く舞い散る桜への愛着が、見事な情趣となって余韻を残しています。
桜の花は、最も美しいその瞬間に、あっけないほど潔く散っていきます。わたしたちはその潔さに心惹かれ、そしてその潔さゆえに言い知れぬ情趣を、微かな未練、僅かな心残りとして感じるのです。
桜の花びらの微かな赤みは、生命の名残です。その微かな朱が、わたしたちのこころに微かな未練、ほんの僅かな心残りを喚起するのです。桜の散りぎわの美しさは、花びらに通う、このほんのりと朱い温もりゆえなのでしょうか。

しかし信玄公は、その桜の花びらを、一点の曇りも、混じり気も無い、純白の雪に喩えるのです。
舞い散る桜の花びらは、ここでは、もはやいかなる心残りをも、情趣をも引き寄せません。桜の花は、凄絶なほどの純粋さでわたしたちのあらゆる執着を拒むのです。信玄公の眼には、清らかな純白の花弁が、雪のようにしんしんと、音もなくただ無心に降り注ぐのです。
信玄公の和歌は、「雪のふる寺」と締めくくられます。舞い散る桜は、ただひたすら無心に降り積もり、すべてを覆い隠す純白の雪に変容しています。そこには、最後に残された僅かの未練も、心残りもありません。
この見事な境涯を詩にして、料紙に書き記して師である快川国師に手渡したとき、これが国師との一対一の真摯な問答、厳しい禅の問答でなくて一体何だというのでしょうか。

路に劔客に逢わば須らく呈すべし
詩人に遇わずんば獻ずること莫れ...(『無門関』第33則)

路で剣客に出会ったならば、剣を抜いて挑むべし。
詩人に出会うことがなかったならば、詩など献じてはならない...
剣の道を生きる者ならば、剣客に出会った時には躊躇うことなく剣を抜いて真剣勝負をする。そこに逃げや卑怯があってはならない。
詩の道に生命を賭けているのであれば、己が詩を理解できないような者に詩など献上してはならない。相手にどれほどの権力があろうとも、そこに媚び諂いがあってはならない。己を安売りしてはならない。

さて、ここで全体を纏めてみましょう。
「さそはずは...」の和歌を禅語として見るとき、信玄公と快川国師の間には、どのような問答が交わされたのか...

恵林寺の「両袖の桜」が見頃であるから、ぜひに花見にお越しください、という快川国師の誘いに対して、信玄公は「出陣を控えているので」と一度は断ります。
戦国の時代、禅僧は高い見識と教養を持つがゆえに、武将たちのもっとも近しい側近として、軍師の役割もはたしています。快川国師が信玄公の出陣を知らぬはずはありませんし、出陣前の多忙さを理解していないはずなどないのです。だからこそ、承知の上で、信玄公の断りに対して敢えて重ねての誘いをするのです。
この時点で、既に快川国師の誘いは、単なる花見の招待などではありません。花見とはいいながら、出陣を控えた信玄公に、その覚悟のほどを問い尋ねているのです。
信玄公はそれを察知したからこそ、「花見と聞いて応じないのは野暮」と、何食わぬ顔をして国師の招きに応じます。

  そして、今を盛りと舞い散る両袖の桜...

眼の前に繰り広げられるこの光景を一見して、何とするか?
桜を用いてその心根を問う国師に対しての、信玄の返答が、この和歌です。
吾が心中に、何の執着未練があろうか、純白の雪のように一点の曇りもなき心中を、ご照覧あれ、というのでしょうか。
剣客同士の、詩人同士の、孤高の遣り取りは、一幅の絵を見るような凄まじさをもって迫ってきます。

さて、信玄公亡き後、信玄公の葬儀を導師として執り行った快川国師は、七回忌にあたって、今は亡き信玄公を追想しながら、こう讃えています、

其和歌也、詠櫻於崖寺古白雪紛々 餘音猶在耳
其漢詩也、哦松於山行深清風颯颯 度曲幾斷腸
其の和歌也(や)、櫻を崖寺(がいじ)の古(いにしえ)に詠んで白雪紛々 
餘音(よいん)猶を耳に在り。
其の漢詩也、松を山行の深きに哦(うた)って清風颯颯(さつさつ) 
曲度(ごと)に幾たびも斷腸す...

(『天正玄公仏事法語』「恵林寺殿機山玄公大居士七周忌之陞座(しんぞ)法語」)。

信玄公の和歌は、かつて桜をこの修行の寺に相応しく枯高の清らかさのうちに、純白の雪が舞い散るように詠み上げて、その調べは今も私の耳朶に残っている。
その漢詩は、松を深山に分け入って清らかな風が吹き抜けるように歌い上げて、幾度断腸の思いをしながら聴き入ったことであろうか...というのです。

信玄公七回忌の快川国師のこの法語は、明らかに信玄公の「さそはずは...」の詩を念頭に置いてのものです。もうおわかりのように、信玄公の和歌が、快川国師のこころにこれほどまで深く刻み込まれたのは、単なる詩の情趣ゆえではありません。
僧侶と武人、師匠と弟子、という関係にありながら、その境涯においては甲乙つけがたい、優れた二人の人間の、一期一会の出会いの記憶が、快川国師のこの偈頌の奥底に響いています。

信玄公七回忌の法要は、天正四年(1576年)四月に執り行われています。
信玄公は元亀四年(1573年)に亡くなっていますが、三回忌の年、天正三年(1575年)に最初の法要を行い、翌天正四年に「小祥忌(一周忌)」、同じ年の同じ四月に引き続き七回忌(休広忌)を前倒しで厳修しています。ですから、快川国師のこの追憶は、信玄公没後三年のものです。
快川国師は、信玄公よりも20歳ほど年上です。
これから、というときに自らよりも若くして世を去ったこの不世出の侍大将に、国師は最大最高のオマージュを捧げるのです。
そして、信玄公没後、さらに国師は10年近くの時を生き続け、甲斐武田家の滅亡を見届けるのです。敗者たちを匿い、恰も武田家に殉ずるかのように、山門の上で壮絶な火定を遂げた国師の、人生の最期に去来する思いはどのようなものだったでしょうか...

時はめぐり、時代は大きく変わりながら、いまも春になると恵林寺の「両袖の桜」はみごとな花を咲かせ、静かに散っていきます。


撮影:工藤憲二氏

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