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明治期における恵林寺...『無孔笛』(笛川日記)を読む(3)


恵林寺第52世(中興17世)住職 笛川玄魯禅師の『無孔笛』を読むの第3回は、前回に引き続き、明治11年(1878年)に笛川老師が恵林寺に来られたその年の記録を拝読します。

5月に恵林寺に登山、6月に住職に就任してから、廃仏毀釈で興廃したお寺の再建に向かって立ち向かう老師の様子は前回拝見しましたが、今回はその後、この年の終わり、大晦日の様子を拝読することとします。

まず初めに、前回はご紹介しなかった、住職就任に当たっての笛川老師の感懐に、その偈を通じて触れてみることにします。

*恵林寺赴任

 仝年六月住山、鈯斧(とっぷ)を拈じて曰く

姓無く名も無く色相も無く 時の人誰か敢て来由を弁ず 
衝天の寒雪芙蓉の頂 捲(けん)海怒濤笛水の流れ

(注)鈯斧:切れ味が鈍くなってしまった斧
   芙蓉の頂:芙蓉はここでは蓮、富士の頂

姓も無く、名も無く、姿形も無く、
どこから何のためにやって来たのか知ろうとする者もおらぬ。
冷たい雪が積もる富士の頂は天を衝き、
大荒れの海のように笛吹川の流れは逆巻く。

*功名心や名誉欲ではなく、ひたすら仏道のため、と決意して恵林寺にやって来た笛川老師は、氏素性はおろか自身の身体のことも抛つ覚悟でいるのです。何の得にもならないことに身命を賭すなどということは、誰も理解できないことであろう、というのです。待ち受ける山のような難題を予期しているのでしょうか、白銀の雪を冠して冷ややかに聳える富士の頂は清らかであっても天を衝くように厳しく、笛吹川の流れは荒海のように激しく逆巻いています。


*歳晩示徒

 大晦日に徒弟に示す

咄(とつ)、這の山形(さんぎょう)の主杖子(しゅじょうす)。粼皴(りんしゅう)虒(し)に似て双角多く、牛の如くして尾巴(びは)を欠く。我昔、汝を伴って一嶺南を出で、幾(いくたび)か魔穴(まけつ)を探ず。其の始めに京の萬年で開祖に謁す。拗折而(へしおれ)て夢牕(むそう)に靠(そむ)き、中間洛の花園に於いて師翁に逢う。拈起して快川に棹(さおさ)し、爾来州に遊び懸を獵(か)り西に拄(ささ)え東に撑(つえつ)き霜辛雪苦殆ど廿年。今也た業風(ごっぷう)に吹着(すいちゃく)され、再び甲徳山に於いて二翁に逢う。驀面(まくめん)に回避し難く、喚んで因縁會遇と爲す乎(か)、本躰如然と爲す乎。卓一下して曰く、是れ娘生(じょうしょう)下の諸禪徳ならずば光陰惜しむ可し、念々無常也。却って羞(はじ)を知る也。知羞(ちしゅう)の二字直に是れ成道。他時異日、龍と化して乾坤を呑却し去るに一任す。若し夫れ然らずんば𦾔に依って黒粼皴。如何が木上に坐して横に點ぜず。何が故ぞ、
来年更に新條の在ること有り 悩乱の春風卒に休まず 
別々 満牀雪を撤くと雖も 道は楊岐に似ず 住し乍ら何の曲をか唱え 
宗風誰を継ぐか知らん。

(注)山形の主杖子:山から切り出してきた無骨な杖。
          主杖子とあるが正しくは拄杖子。
   粼皴:しわだらけ  虒:角を持ち水の中を行くことができる角虎。
   萬年:万年山相国寺  夢牕:夢窓疎石
   甲徳山:甲州の乾徳山恵林寺  驀面:真正面からぶつかる
   娘生:生まれたままの様子    
   
コラ、この山出しの杖め、シワシワの縞だらけで角虎のように角がニョキニョキ、角があるから牛のようだが尻尾がないワィ。
儂は昔、お前を連れて師を探して嶺南をでて何度も厳しさをもって鳴る老師方の魔窟のような参禅の室内を叩いたものだ。最初に京都の万年山相国寺で開山の夢窓国師に縁ができた。しかしここでは志が折れて夢窓国師に背き、途中、京都花園で師となるお方に出逢ったのだ。そこでこの杖を快川国師所縁の妙心寺に留めることにして、それ以来州といわず県といわず諸方に遊んで修行の機会を渉猟し、西に東にこの杖を頼りに霜雪の苦労を重ねること殆ど二十年。今また宿業の風に吹かれて甲州の乾徳山にたどり着いて夢窓国師、快川国師のお二人に出会ったのだ。真正面から出会ってしまい、避けることもできず、これは因縁によって出会ったのだとするのか、そもそも最初から出会うことになっていたのだとするのか。
ここで、前机を叩いて言う、ウブではないいっぱしの禅坊さんならば光陰を惜しんで修行せよ、一念一念が無常であるぞ。お前さんたちは己が羞を知っておるか。「知羞(はじをしる)」の二文字こそが道を成ずるのだ。
何時か或る時、この杖が龍となって天地を呑み込んでしまうことを待っておるワィ。もしもそうならなければ、相変わらずの黒い縞々の杖でしかない。どうして単の上に坐っていながら杖を横に寝かせることをしないのか。それはなぜなのか、
来年になれば新たな皺がまた増える 吹き乱れる春風は少しも休まることはない


別にまた一句
床は一面に雪を撒いたようであるが 
楊岐禅師が言うような平等一様の道とは大違いだ
住持を務めながらどんな曲を聴かせ 誰の宗風を継ぐというのか


*除夕巴調(じょせきはちょう

 住山して將に一歳 囊底(のうてい)には半銭も無し 
 貧道除夕に逢い 寒燈の燭愚を守る

  右

          無孔篴菴主元魯誌


(注)除夕:大晦日の夕  巴調:俗の調べ、俗謡


大晦日の夜に俗謡を歌う


住山して一年に垂(なんな)んとするが 巾着袋には半銭も無い
貧しい禅坊主が大晦日の夜を迎えるが 
ひっそりとした灯火のもとで独り愚かに坐る

  右

穴の無い笛の庵の主人 玄魯が記す


*禅寺では大晦日の夕べ、一年の最後のお勤め(晩課)の時には、寺内のすべてのお堂を回ってお経を上げます。そしてその後に、お寺の全員が集まって、師である住職から一年の締めくくりの教えを受けるのです。
「歳晩示徒(大晦日に徒弟に示す)」は、この年の最後に、笛川老師の下で修行に努める徒弟たちに説かれたものです。
笛川老師は修行僧の生き様を、行雲流水の行脚に携える杖、拄杖子(しゅじょうす)に托して、自身の修業時代の回想を交えて説いています。

田舎の山の中から出てきた、何も知らん、作法も身についておらん、無骨で我が強く、しかし衝天の志をもって野を越え山を越え、渓流を渡り、どこまでも修行に邁進する修行僧。皺だらけ、罅だらけで凸凹ゴツゴツした杖は、修行僧にとっては分身のようなものです。
老師はかつて田舎からでて、厳しさが天下に鳴り響く老師方の峻厳な道場をいくつも探訪した。はじめに、相国寺僧堂に赴いたが、ここでは挫折を経験し、開山夢窓国師(勧請開山:実際の開山は国師の甥にあたる春屋妙葩)とは縁が結べなかった。しかし、花園妙心寺で越渓守謙という生涯の師に出会い、妙心僧堂に錫を留めて(修行僧は錫杖を指す「錫」という言葉を使うのですが、老師はここでは錫の代わりに拄杖子を留めるとしています)以後、諸方に行脚して研鑽を積んで20年。刻苦勉励の甲斐あって開悟を経験します。その後、前回見たように、明治11年に恵林寺からの拝請を受け、これも宿業だと受け入れてやって来てみれば、恵林寺は開山が夢窓国師、そして中興開山に妙心寺の快川国師。これは、このお二人との仏縁は避けがたい天命だと受け入れる。
笛川老師はここで回想を終え、机を叩いて、徒弟を叱咤します。
まだまだ未熟とはいえども、頭を剃って修行に志すほどの者ならば、初(うぶ)な小僧っ子ではないぞ、光陰を惜しんで修行に励め、無常の風は容赦ないぞ、というのです。自分の修行の至らないことを常に思い、「羞(はじ)を知る」姿勢を忘れてはならんぞ。己が至らなさを絶えず思い、これでもか、これでもか、と倦まず弛まず自分自身を叱咤し続けて修行に励む...これ以外には修行というものは無いのだ、と懇切に教えています。
そしていつか、修行の功成ってお悟りを得ることができたならば、不格好な杖は龍のように自由自在の力を発揮することであろう。どこへ行こうとも、誰に出会おうとも、仏法の真髄を竪に説き横に説き、天下に仏法の光りを伝えるが良い。しかし、それができないというのであれば、不細工な杖はただの杖でしかないぞ、心せよ。
ここで老師はもう一度自身のところにとって返して言います。住職としてこの地に居を定めても、拄杖子を寝かせたりはしない。恵林寺の復興は始まったばかりだ。歳が変わったら直ぐさま新しい艱難が待ち受け、新たな修行が始まるからだ。吹き荒れる春風ですら、待ち受ける労苦を象徴しているようだ。
おりしも雪が降って床も一面真っ白となった。しかし、悟りを得れば何もかも清らか、というわけにはいかん。現実の中でやらねばならんことをやり遂げるためには何宗だの、何派だの、誰の徒弟だの、そんなことにはかかわってはおれん。住職として、どんなやり方であろうとなりふりを構わずやり抜くのだ、というところでしょうか。

最後の「除夕巴調」、大晦日の夕べ、すべての仕事が済んで静かに年越しを迎える時に「巴調」俗謡のようなもの、と言いながら、笛川老師は率直な感懐を吐露しています。荒れ果てた巨大な伽藍に対して銭は無く、日々の暮らしにも困るほど。しかし、独り静かに覚悟を固め、決意も新たに新年を迎えるのです。

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