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こだわりとルール

自閉スペクトラム症のひとが示すこだわりを、説明のために「自分ルール」と表現することがあるが、よく考えてみると自閉スペクトラムの「こだわり」は、ルールというのとはちょっと違うのかも知れない。

あるいは違うというよりも、むしろルールという言葉には複数の違った文脈をもつ使い方があると言った方が適切かも知れない。それはたとえば、ひとつは規則性として自然とそうなってしまうということ、もうひとつは規範性として社会的にそうしなければならないということだ。自閉スペクトラム症でのこだわりそのものは、対象的に観察するならば、前者の「規則性として自然とそうなってしまう」事柄に属している。

ところが、事態を複雑にしているのは、こだわっている本人も、このふたつのことを識別できずに主観的な体験としては混同してしまう場合があるということだ。そのために、「自然とそうなってしまう」自分の規則性を、「そうなるべきだ」という規範性として自己認識してしまうことがある。そうなる理由はいろいろありうる、単にそうしないと気持ちが悪いというようなこともあるだろうし、ふつうのひとが習慣を形成するのと同じように、そうすると物事が容易に行われるという自分の都合もあるかも知れない。またある場合には、自分が習慣としてそうしているということを、他に対して社会的に正当化したいという向社会的な意図による場合もあるかも知れない。

しかし、規範性というものは自然には社会的なものなので、その自分のルールが他者とのやりとりのなかで社会的には正当化されないことが明らかになった場合は、破棄されるか社会規範に一致するように修正されることになる。もしも「そうなるべきだ」というその個人的信念が、集団との関わりの中で正当化されないにもかかわらず修正されないで固執されるような場合には、他から自閉的とみなされて「こだわり」と言われるわけである。逆に、まったく個人的な特殊な内的行動規範であったとしても、それが、その集団の規範によって媒介されて正当なものとして外部から社会的に承認されるときには、他からこだわりとは言われないこともありうる。

ある規則性を意識することから、規範的にそうあるべきだと考えるという事態に無媒介に移行してしまうことは、精神医学の言葉でいう「強迫症状」に似ている面もある。ただし、強迫行為・強迫観念の場合には、基本的には「ばかばかしいとは思うけど」という、そのことへの距離があることが特徴だが、自閉スペクトラム症のこだわりでは必ずしもこの距離感があるとは限らない。逆に言えば、そのような特徴があれば、その場合にはこだわりというよりも、自閉スペクトラム症のひとに生じた強迫症状と考える方が適切かも知れない。

もちろん、このような規則性と規範性の混同は、自分にだけ向けられるわけではなく、もともと幼少期から外的対象に向けられて「モノのこだわり」としてあらわれてきているものだ。対象としての事物が自然な規則性によってそのようにあるということが、あるとき偶然にそのようにはあらわれないということに対して、とくに幼い年齢の自閉症者はそれが「悪いこと」つまり規範の侵犯であるという思いを起こすことがあるように見える。子どもの自閉スペクトラム症者のカンシャクというのはそういうものである。もちろん、知能が発達するにつれて、そのような考え方が不条理であることは自然に理解されるようになる。事物はそれ自身の自然な規則性に随っているにすぎないのだから、それに対して善悪を求めたところで意味がないと気がつくのである。

ところが、人間に対してはそう簡単ではない。かなり知能が発達しても、相手が人間だと、自然とそのようにあるという規則性と、そのひとはそうするべきだという規範性はかなり長い間、ひきつづき混同され続ける。そうするとそれは、「ヒトこだわり」として家族などの他者を巻き込み続けることがある。いわゆるルールこだわり・正義こだわりは小学生から青年期の自閉スペクトラム症者でよくみられる。しかしこれも、何らかの形で患者自身が社会に巻き込まれていく過程で、他者は自分とは別の秩序を生きているのだということが学習されて変わっていく。

それでも残るのが、「自己へのこだわり」である。自分は自然とこのようにあるということと、規範的に言って自分はこうあるべきだということを混同するのは、健常者にもあることだから無理もないことである。この段階になってくると、森田正馬のいう神経質者の「かくあるべし」思考に近くなってくる。これを変えていくことは、非自閉スペクトラム症者の場合と基本的には同じやり方になるので、森田療法のような通常の精神療法の技術が応用できる。

このように考えてみると、発達障害の精神療法ということは、そんなに突飛なことでもないということが感じられるかも知れない。発達障害は神経回路の特性に基づく偏りだが、なんらかの形で新しい行動や内的な推論モデルを形成できると言うことは、ある種の学習は成立するということであり、したがって学習を通じて思考と行動、あるいは情緒のあり方を変えていけるということだ。特性そのものは変えられなくても、生活は変えることができるし、そのことが発達障害の治療を可能にしている。

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