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博多総鎮守と太陽信仰

はじめに

 大自然の一部である私たち人間が自然界の諸々の要素と働きの影響を受けながら生きていることは言うまでもありません。ただそれがあまりに当然のことであるからこそ、大自然から受けている影響をつい忘れがちにもなります。
 その自然界の諸々の要素の中で私たちが最も大きな影響を受けているものの一つが太陽です。太陽と大地、海があって生命が生まれ、太陽と植物のお陰で私たちも息をし、栄養を摂り、子孫に生をつなぐことができます。
 そうして今を生きている私たちの日本国も多くの自治体から構成され、各自治体にも中核都市やさまざまな特徴を持つ市町村があります。それらの自治体はたいてい歴史的背景を踏まえて構成されています。その歴史的背景、例えば個々の自治体の区域や自治体同士の境界も、時代を遡れば遡るほど地形など自然環境からの強い影響の下で形成されてきたものです。
 すると、自然崇拝が今も信仰の中核にある日本国が現存世界最古の国家であること、そして歴代天皇の遠い祖先が太陽神であるとの信仰の意義も、自然と神社やお寺との関係性を見つめ直すことで再発見、再確認できるのではないでしょうか。
 そういう試みの一つとしてまず、私が生まれ育ち、中年になって帰ってきた福岡県の中核都市である福岡市のそのまた中核である博多における太陽への信仰について、気づいたこと、考えるところを皆さんと共有してみたいと思います。
 これから回を重ねていく記事は、皆さんがお住まいの地域やお好きな旅先にも応用できる内容になると思いますので、そのつもりでお読みいただければ幸いです。

博多総鎮守櫛田神社

 どの地域、地区にもそこをお守りくださる鎮守の神社があります。博多の全体を守ってくださる総鎮守は櫛田神社です。毎年7月に博多祇園山笠が行なわれる神社としてご存じの方も少なくないでしょう。博多祇園山笠は私も子供の頃から中年の今に至っても、毎回見るたびに心の躍動を禁じ得ないお祭りです。ご存じない方は博多祇園山笠公式サイトをご覧いただくことをお勧めします。

 まず櫛田神社について概略を整理しておきましょう。
 櫛田神社には天照大御神と大幡主大神と須佐之男命の三柱の神々が祀られています。
 御由緒書や社務所によると、年代は不詳ながら天照大御神をお祀りすることに始まり、天平宝字元年(757)に現在の三重県松阪市の櫛田川の近くの櫛田神社から大幡主大神の御霊が、そして天慶4年(941)に現在の京都市東山区祇園町の八坂神社から須佐之男命の御霊が勧請されました。
 天照大御神は太陽神で歴代天皇の祖先神、須佐之男命は天照大御神の弟ということは、ご存じの方が多いと思います。大幡主(おおはたぬし)大神は天照大御神のお宮のために伊勢の土地を奉った大若子(おおわかこ)命のことです。
 こうして順次祀られることになった神々はしばらくの間は別々の社殿にお鎮まりで、当時「那の津」と呼ばれた海の表鬼門(艮の方位=東北)の守護神として、海の方を向いておられたそうです。
 中世では日本最大級の貿易港だった博多は戦国時代に焼け野原となってしまいました。その博多の復興のために行なわれた「博多町割」(「太閤町割」ともいう)の中で櫛田神社も再建されました。この時、天照大御神、大幡主大神、須佐之男命は一つの本殿に祀られることになりました。ただし社殿の向きはほぼ正反対に変わりました。
 社号は三重県松阪市の櫛田神社に由来しますが、「大神宮」=天照大御神、「櫛田宮」=大幡主大神、「祇園宮」=須佐之男命の三つのお宮が合わさった神社ということになります。
 以上が、櫛田神社の御由緒書や社務所で確認したことです。

 櫛田神社の歴史については諸説ありますが、その件は今回のテーマから外れますので別の機会に触れたいと思います。
 ただし、神社やお寺の歴史、祭神や本尊などについて複数の説がある場合、私はそのどれが正しいかを究明することより、それら諸説が生まれた背景にある信仰思想に関心がある点だけ申し添えておきます。
 それでは以下に、私が気づいたこと、考えるところを述べていきましょう。

櫛田神社の「参拝ライン」

 今回注目したいのは、「博多町割」によって再建されて現存する櫛田神社の社殿(本殿+拝殿)の向きです。
 ネットで櫛田神社の地図を表示して拡大すると、社殿や参道など境内の様子を窺うことができます。ここではGoogleマップで見ながら話を進めていきましょう。

 地図を見ると、参拝者は右上(東側)の楼門から細く延びる参道を進み、左下の社殿(グレーが拝殿、ピンクが本殿))を囲む建物=中神門(なかしんもん)を潜り、拝殿の前に立ち、本殿に拝礼する一直線の流れを想像できます。
 この流れを仮に「参拝ライン」と呼ぶことにしましょう。

櫛田神社の楼門(令和2年1月5日夕刻)
中神門と奥に見える拝殿
拝殿と本殿(12月上旬夕刻)
拝殿から見た本殿。「須賀大神」は「祇園宮」=須佐之男命のこと。

 櫛田神社の「参拝ライン」を俯瞰してすぐにお気づきかもしれませんが、これは真西から30度南寄りに傾いており、ほぼ冬至の日没の方位に延びています。
 ちなみに福岡県福岡地方で今年の冬至、つまり今日12月22日に太陽が地平線下に隠れる時間は17時15分、方位は242度(真西から28度南寄り)です。
<参照:『こよみのページ』の「日出没計算」>
 すなわち「博多町割」の結果、以前とはほぼ正反対の向きに建つ形になった櫛田神社は冬至の日没の方位を意識して再建された可能性が窺えます。
 ただしこれはあくまで地平線上での日没の方位ですので、今の時期に17時過ぎに参拝しても、太陽は社殿や周辺の建物に隠れて直接目にすることはできません。
 しかし本殿には太陽神でもある天照大御神が祀られています。太陽を直接拝むことはできなくとも、本殿の太陽神に拝礼することがそのまま冬至の夕陽を拝む形になるのです。
 
 繰り返しになりますが、「博多町割」以前は社殿は今とほぼ正反対の「那の津」と呼ばれた海の方を向いていました。海の表鬼門=艮(丑と寅の方位の境)を守るためですので、その当時の「旧参拝ライン」は真北から45度南寄りの東北の方位に延びていた可能性があります。
 実際に45度の方位から朝陽が昇ることはないものの、そこからさらに約15度南寄り(真東から約30度北寄り)が夏至に朝陽が地平線から昇る方位になります。「博多町割」以前は夏の朝に社殿に向かえば、朝陽が視界に入ったことでしょう。
 

櫛田神社の社殿方向転換の背景

 では「博多町割」によって櫛田神社の社殿の向きがほぼ正反対になったのはなぜでしょうか?現時点では二つ思いつくことがあります。

⑴博多の地形の変化

 一つは櫛田神社が守ってくださっていた「那の津」という遠浅の海が陸地化していき、現在の天神、中洲という地区が形成されていった事情があると思います。
 昔の博多の様子を描いた「博多古図」というものがあります。ネット上には時代ごとにさまざまな絵図がたくさん掲載されていますが、最も有名なのは筑前国一之宮住吉神社(福岡市博多区住吉)に奉納された「鎌倉時代の博多」とされる絵馬です。そのカラー版が転写された石板が、博多の目抜き通りである大博通りの呉服町交差点付近の歩道に設置されています。
 下がその写真です。表示が反転していますが、理由があって敢えてこの向きで掲載しました。方位は上が北西、下が南東です。

鎌倉時代の博多の様子とされる住吉神社に奉納された「博多古図」。博多は「羽潟」に由来という。

「博多古図」の中央の海が「冷泉津」と表示されていますが、もっと昔は「那の津」と呼ばれていました。この遠浅の海がやがて陸地化していきました。おおむね「冷泉津」の左側3分の2が今の天神地区、右側3分の1が中洲地区とイメージしても良いでしょう。また「草香江」は江戸時代に福岡城の濠として活用され、現在は大濠公園という市民の憩いの場になっています。
「博多古図」で最も特徴的なのは、「冷泉津」と「草香江」の間を細長い丘陵帯が南東から北西に延び、その先端部の「福崎」の先から「長濱」という砂嘴が南西から北東に延びている地形です。砂嘴の先端の「洲嵜」は現在の須崎公園辺りです。
「冷泉津」の右側沿岸の地区、特に碁盤の目のように街路が整備された地区がだいたい今の博多に相当しますが、かつては左側に見える「荒津山」辺りまでが博多の範囲に入っていました。
 以上を踏まえて「博多古図」を俯瞰すると、いにしえの博多は鶴が顔を横に向け、翼を広げている姿のように見えませんか?中央の丘陵帯が「鶴の首」、「福崎」の辺りが「鶴の顔」、「長濱」という砂嘴が「鶴の嘴」という具合に。

「鶴の首」の付け根に「容見天神」の表示があります。「容見」は「すがたみ」と読みます。ここは「学問の神」として有名な「天神さま」=菅原道真公が失脚して左遷先の大宰府に向かう途中で上陸し、その際水面に映った自身のやつれた姿を見て悲しまれたという場所です。
 しかし江戸時代には黒田藩初代藩主長政公が福岡城の表鬼門に移転させました。鎌倉時代の「博多古図」でいえば、「洲嵜」の曲がった先端かその少し先の辺りだろうと見当をつけています。なぜなら「洲嵜」の曲がった先端の軸線を延長すると「容見天神」に到達するからです。神社やお寺の移転は信仰思想上の合理性をもって、移転前の場所を意識して行なわれるように思われるからです。
 そして「容見天神」から「水鏡天満宮」と呼ばれるように変わりました。これは境内周辺が、移転前の「すがたみ」は干潮時に干潟になり、移転後の「水鏡」は干潮時でも水が張っている場所であることを暗示しているのかもしれません。神社の社号にも、周囲の自然環境を意識した言霊を込めるケースは他にもあると思いますが、それはまた別の機会に詳しく見てみましょう。
 

⑵一陽来復

「那の津」後の「冷泉津」という海の表鬼門の守護神だった櫛田神社の社殿が「博多町割」で方向転換されたことの背景に海の陸地化を一つの要因として考えてきましたが、もう一つ注目したいのは冬至の日没の信仰上の意味です。
 冬至は日出と日没の方位が最も南寄りになり、日照時間が最も短くなる時期、現在の太陽暦では12月22日頃に始まり、大晦日と正月も含みます。
 太陽が地平線の上にある状態を「陽」、下にある状態を「陰」とすると、冬至は「陰」の時間が年間最長となります。しかし「陰気」が極まれば自然と「陽気」が生じる「一陽来復」という自然の摂理に即した考え方があります。自然界の一部である人間の一生にも「陰気」が募るような不運の時もありますが、そのピークを過ぎると不思議と好転します。私自身の過去を振り返ってみても、その「好転」には努力だけ説明できないものを感じます。
 
 中世の博多は海外の文物の日本への入口であり、日本最大級の貿易港でした。それが戦国時代に荒廃しきってしまいます。その激しい落差に当時の博多っこたちの心は「陰気」が充満した状態に陥ったことでしょう。
 そうした博多を復興させるために行なわれたのが「博多町割」です。中でも博多総鎮守である櫛田神社の再建は最重要事項の一つだったはずです。
 しかしその再建の仕方は、以前のままを再現するのではありませんでした。博多が日本最大級の貿易港だったという歴史、そこが陸地化していったという地形の変化、そして戦乱による荒廃で「陰気」が充満した人心の状態を総合的に考慮した上で、将来の博多の発展を祈念した計画が立てられたと思います。
 そのように考えてみると、新しい本殿にお鎮まりの神々が博多の街の方を向いておられ、町人たちからすれば冬至の日没の方位、すなわち「陰気」が極まってはいくものの、いずれ自然と「陽気」が生じてくる方位に太陽神天照大御神を拝む形に境内が整備されたとに、信仰思想上の合理性が窺えるのではないでしょうか。
 

おわりに

 太陽神天照大御神を祀る総本宮である伊勢の神宮(内宮)では、冬至の日出を宇治橋の中央に拝むことができることがよく知られています。
 またお伊勢参りの起点とされる二見興玉神社では、夫婦岩の間から昇る夏至の朝陽を「日の大神」として拝む夏至祭が行なわれています。以前見かけたネット上のコメントによると、二見興玉神社の夫婦岩の間に朝陽を拝み、そのまま福岡県に移動して、糸島市の二見ヶ浦の夫婦岩の間に沈む夕陽も拝むという奇特な方々もいらっしゃるようです。最近知ったのですが、1969年に二見町(現伊勢町)と志摩町(現糸島市)は姉妹自治体になっていました。
 博多総鎮守櫛田神社の「参拝ライン」が冬至の日没の方位に向かうことに気づいた今、そのうち冬至の朝陽を内宮の宇治橋の真ん中に拝み、そのまま博多に帰って櫛田神社にお参りし、社殿の奥の地平線に沈む夕陽を心の中で想像して拝んでみようか、などとふと思ってしまいました。

 要領の悪い私は冬至の節入り前までに今回の投稿が間に合いませんでしたが、本日12月22日から来年1月5日までが冬至ですので、焦らずタイミングを見計らって冬至の日出・日没の太陽を拝みたいと思います。
 皆さんもお住まいの近くや好きな神社の中に、冬至の日出や日没の方位に社殿が向いていたり、参道が延びている神社を探して、この15日間の間にお参りしてみてはどうでしょうか?
 最後の写真は令和2年1月5日、冬至最終日の夕刻にようやく櫛田神社へその年の初詣に到着した際に撮影した楼門の奥から輝く夕陽です。この後夕陽は、太陽神がお鎮まりの社殿の後ろに隠れていきました。

冬至の夕陽と日没の方位に延びる櫛田神社の「参拝ライン」(2020年1月5日)

 次回は「博多町割」以前の櫛田神社のいわば「旧参拝ライン」について探求してみましょう。

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