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龍神考(9) ー鬼〜魂〜雲〜靈〜龗〜龍ー

 今日2月3日は節分です。
 ほぼ毎年神社やお寺の節分祭にお参りしてきましたが、なぜか参拝客にとっては、福をもたらすお多福さんより鬼の方が人気があるような印象を個人的には抱いています。それは、どこの社寺でもお多福さんより鬼との記念撮影を求める参拝客の方が多いように見受けられたからです。

 その「大人気」の鬼はヒイラギの葉のトゲが目に刺さるのを恐れたり、節分祭で投げ付けられる豆には「魔目」という意味合いが込められていたりすることから、鬼にとって最大の弱点は目であることが窺われました。
 それは同時に、鬼にとって最も大切なものが目であることも暗示しています。
 そして目が脳の一部であることを思えば、鬼は動物の中で最も脳が発達している人間のこと、特にある心の状態の人間であることにも思い至りました。
 そうすると、古代中国で「あらゆる動物の祖」と考えられた龍の形象において龍の目は鬼の目であるとする考え方は、龍の目はある状態の人間の目であるとも言い換えることができます。

霊と魂

「鬼」とは中国においては「死霊」を意味しますので、上述の「ある状態の人間」とは「死者」ということになりますが、死者の中には私たち個々人のすでに他界した先祖も含まれます。
 この先祖という「身近な感覚」が日本人の中に無意識的にあり、それが節分祭で鬼を最大の人気者にさせている背景にあるのかどうか分かりませんが、鬼の目を持つ龍神様の人気の高さと相まって、鬼の人気は非常に興味深い現象だと思います。

 龍も古代中国では人間も含む「あらゆる動物の祖」とされましたが、その背景には、龍は何よりもまず水神であり、人体も6〜7割は水分なので、その水分に龍神が宿っている、または宿りうるという観念があるのではないかと、拙稿では考えてきました。
 そしてそれは、人間なら誰の中にも宿っている、あるいは宿りうる龍神は、人間誰しも先天的に備えている仏性(悟りを開いて仏となる可能性)と関係するものと考えてもきました。
 この点は、悟りを開いた時のお釈迦様の後背から水神でもある蛇神が複数現れ、それらの蛇神が後に「龍王」として仏教に採り入れられたことにも窺えます。
 身体の大半を水分が占める人間の仏性の開花=開悟と、龍神=蛇神=水神の出現は連動しているのです。

 仏性を霊魂の一部や一面とすると、「霊」には水神=龍神の恵みである「雨」、「魂」には龍の目に採用された「鬼」が含まれているのも意味深長です。
「魂」の中の「鬼」(先祖を含む死者の霊)を、私たち個々人が先祖から受け継いでいる遺伝子や祖霊と繋がりうる何かと捉えると、それは私たちの中にすでに先天的に存在します。
 他方「霊」の中の「雨」は、雨雲から、つまり体外からもたらされる恵みです。しかし、雨雲も海や川、池、湖が太陽に温められて発生する水蒸気から形成され、そこは生命が生まれた場所でもあります。極論すれば、雨雲も私たちも源は一緒なのです。
「魂」の中の「云」は「雲」の一部であり、「云」自体が「雲」も意味します。

 また「云」には「言う」の意味もあるので、「魂」は「鬼=祖霊が云うこと」や「鬼=祖霊が命じること」とも考えられます。神道で神々を「〜〜の命(みこと)」と申し上げるのも、このような考え方が背景にあるのではないでしょうか?
 そうすると、「魂」とは「祖霊から託された課題」とも解釈できます。私たちは「先祖のカルマの解消を託されている」などとも言いますが、それが「魂」ということになるのでしょうか?

 ただし私たちがその人生で「魂」=「祖霊から託された課題」を全うするには、生命を維持せねばならず、そのためには生命の源である海から雨という淡水の状態を通じてもたらされる水分の補給が必要です。
 しかし雨は私たちの都合だけでもたらされるものではありません。大雨や豪雨、逆に干魃も生死に関わる深刻な問題です。
 奈良の春日大社で何年か前に拝聴した花山院弘匡宮司の龍神信仰をテーマとした講話では、現代のようなダムや水道のインフラが不十分だった昔の人々にとって、雨はとてもありがたいものと意識されていたことが強調されていました。この講話を聴いて、古来の信仰思想を考える上では昔の生活感覚を念頭に置くことの必要性に思いを新たにさせられた次第です。

龗と靈

 ダムや水道が無いか不十分だった昔は、降雨・止雨を水神である龍神に祈願していました。
 この祈願、祈祷をする人を意味する「巫」が、「霊」の「雨」の下の部分の由来とされます。
「雨」と「巫」の間の「一」は、「霊」の旧字「靈」で言えば「口」が三つ並んだ部分に相当します。
 つまり「巫」が口から神聖な言葉を唱えて降雨を祈る、あるいは祈りに応じて実際に雨が降る様を「靈」=「霊」は表しています。

 神聖な言葉とは神道では祝詞や祓詞、仏教ではお経や真言ということになりますが、日本に真言密教をもたらされた弘法大師空海が京都の神泉苑で龍神に雨乞いの祈祷をされたところ、適度の降雨に恵まれたという故事があります。

 神道では特に雨と関係の深い龍を「龗」と書いて「おかみ」と申し上げますが、これは「お神様」と云う言葉は何よりもまず雨に関わる龍だったことを示すものでもあるでしょう。
 また「龗」の音読みが「れい」であることを本稿執筆中に知りましたが、日本語の感覚では祭祀において重要な「霊」や「礼」と言霊が同じである点が興味深いです。
 ともに「れい」と読む「龗」と旧字の「靈」とを対比すると、相違点の「龍」と「巫」も、互いに共通するものがあるのではないでしょうか?少なくとも「巫」は「龍」との意識的な交信能力やその能力の高い人という見方も可能でしょう。またこのこと自体を「龗」と「靈」は暗示しているのかもしれません。

 以上を踏まえて前述の弘法大師空海が神泉苑で龍神に雨乞いをされたことで雨が降ったという故事を振り返ると、これは空海は「巫」=「龍との意識的交信能力の高い人」ということも暗示していると言えるでしょう。

日本=「龍蛇の国」を示す南岳山東長寺

 実際弘法大師の数々のご事績にもやはり龍との関わりが目立ちます。真言密教を伝授されたお寺は唐の長安の青龍寺ですが、大同元年(806)に帰国されて最初に開かれた真言密教寺院の東長寺(福岡市博多区)にも龍神信仰が窺われます。
 東長寺の山号「南岳山」は、唐留学中の弘法大師が唐から見て南の日本から来たので「南岳上人」と呼ばれていたことに由来すると、藤田紫雲名誉住職から教えていただきました。
 一方で東長寺の寺号は、真言密教が唐からみて東にある日本に長く伝わるようにとの願いによるものとも伺いました。
 ということは、南岳山東長寺の山号と寺号は、中国(唐の都、長安)からみて日本が位置する方位は東であり、同時に南でもあると暗示していることになります。
 これは、日本は中国の辰と巳(龍と蛇)の方位にあることを暗示するものと解釈することもできるでしょう。

 この「龍蛇の国」日本で最初の真言宗寺院、南岳山東長寺の節分祭は室町時代に始まり、九州では最も古い歴史を誇ると、一昨日の2月1日のお釈迦様を本尊とする護摩法要の法話で聞きました。
 この二日前の1月30日にもお参りしていましたが、その際、お寺の上空に逆さ虹とも呼ばれる環天頂アークがうっすらと現れていました。

日本最大級の木造釈迦如来像が祀られる東長寺大仏殿と逆さ虹=環天頂アーク(今年2月1日筆者撮影)

 虹も龍神様の現れと云われますが、この時境内では節分祭で福引をした参拝客に渡す福笹用の熊笹を刈り取る作業が行なわれていました。
 その作業を目にしてふと、今年と同じ閏年だった四年前の節分大祭の翌日、立春の昼頃に参拝した際に現れていた蛇腹状の螺鈿色の彩雲と蛇の目状の日光環を思い出しました。

弘法大師像と五体の仏像を祀る東長寺六角堂と螺鈿色の彩雲と日光環(2020年2月4日筆者撮影)

 今日は私が住む九州や四国、中国地方は雨模様、北陸や北海道は雪の予報も出ていますが、むしろそのような天気だからこそ「鬼」〜「魂」〜「雲」〜「靈」〜「龗」〜「龍」の繋がりを強く感じさせられる閏辰年の節分大祭となりそうな気もします。

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