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龍神考(33) ー龍神の直行と蛇行ー

「遠の朝廷」の表鬼門の立花山と裏鬼門の飯盛山


 日本神話において国土や神々をお生みになった伊邪那岐命と伊邪那美命の二神が鎮まると信仰された「二神山(ふたがみやま)」(今の立花山)には、国生みを始める際にお使いになった「天瓊矛(あまのぬほこ)」も一緒に存在するはずだと仮定した上で、黒田日出男著『龍の棲む日本』(岩波新書、2003年)で紹介されている日本=「独鈷」(インドの武器に由来する仏教の法具)とする国土観を参考に、前回までに以下の点に気付かされました。

1)伊邪那岐命と伊邪那美命が国生みの始めに用いられた「天瓊矛」は「独鈷」だとする国土観が、この二神が鎮まる「二神山=立花山」での最澄による独鈷寺開創伝説の信仰思想上の背景となった可能性

2)「天瓊矛」=瓊(玉)→円・球形と細長い形のセット

3)「五畿七道」(日本の国土区分)も、「五畿(畿内五カ国)」=「玉の国」(球形)と「七道(本州、四国、九州)」=「天照大神の国」(細長い形)のセット

4)伊勢の神宮も、内宮(天照大御神)の社形=独鈷(細長い形)と外宮(豊受大神)=八葉蓮華(円形)のセット

5)天台伝教の適地を探るべく最澄が投げたものも、壇鏡(円形)独鈷(細長い形)のセット

6)二神山から立花山への改称のきっかけも、最澄のシキミの杖(細長い形)とそれから咲いたシキミの花(円形)のセット

7)日本の海底に投げ下ろされた「天瓊矛」が届いた大日如来の印文(守護の象徴)→最澄が投げた独鈷の発見場所の近くに天照大御神(本地仏は大日如来)を祀る神社

8)「独鈷」と同一視されたもの=天瓊矛日本の国土/伊勢の神宮の社殿床下の心の御柱/神宮の内宮(天照大御神)の社形大日如来(天照大御神の本地仏)の印文三輪(大物主神=大己貴神・大国主命の幸魂・奇魂)の金光

9)天瓊矛で日本の国生みを始められた伊邪那岐命と伊邪那美命の二神、伊邪那岐命の禊祓でご誕生の天照大御神(本地仏は大日如来)が鎮まる「二神山」は、下和白から三峰(松尾岳、井楼山、白岳)が標高も等しく美しく調和した「三輪山」に見える

10)「二神山」への三輪信仰の付加(大和国の三輪山の大神神社を勧請)→「二神山」に内在する「天瓊矛」が届く大日の印文=三輪の金光とする信仰の付加

11)三輪明神=日吉大社西本宮による比叡山の平安京鬼門鎮護の信仰→「遠の朝廷」(特に荒津の崎)の鬼門=「二神山」への三輪信仰の付加→「二神山」に最澄による初の天台宗寺院独鈷寺開創伝説の誕生と「立花山」への改称の背景

12)「立花山」に籠る「橘」(永遠性の象徴)の言霊「二神山」に神代から内在する「天瓊矛=独鈷」の霊威「二神山」での最澄の独鈷の発見とシキミの杖の開花(=立花)の形で継承→日本における天台伝教の永遠性を象徴する山名=「立花山」へ改称

13)独鈷寺の大日堂(天照大御神の本地仏)とシキミと庚申塔→春のシキミの開花を「立花」(永遠性の象徴)と表現→天孫(春の日光エネルギー、稲魂)が雷神(武甕槌・猿田彦)とともに地上の統治者として降臨する「天孫降臨」の永遠性の暗示→歴代男系天皇の即位=皇統の末永い存続の暗示→「天孫降臨」は「落雷」や「即位」も意味する「竜」の一字で表現可→下和白に農業用溜池「竜化池」造成(「竜化」=「りゅうげ」=「立花」)


 最澄による初の天台寺院開創伝説のある立花山と、最澄が伝えた天台宗の総本山が開かれた比叡山にいくつも共通点があり、特に立花山は筑前の「遠の朝廷」の北端の門戸=「荒津の崎」(現在の福岡市西公園)比叡山は「朝廷」のある平安京の南端の門戸=羅城門の鬼門守護の役割をになってきたことにも気づきました。

 そしてこの観点から「二神山=立花山」の役割を深掘りすると、この山は伊邪那美命が鎮まるとされる福岡市西区の飯盛山の山頂からも鬼門に位置することが判明しました。

 つまり「飯盛山」→「荒津の崎」→「二神山=立花山」のラインは、真北=0度から時計回りに45度の艮(丑と寅の境)=表鬼門に延びるのです。

 これを言い換えると、「遠の朝廷」の北端である「荒津の崎」にとって「二神山=立花山」は表鬼門、「飯盛山」は裏鬼門になります。


福岡市西公園の「荒津の崎」の案内板と艮の方位に見える立花山=旧称「二神山」(2024年4月6日)


福岡市西区の室見川にかかる愛宕大橋から望む円錐形の神奈備山である飯盛山(2024年4月17日)



 他方、伊邪那岐命が鎮まると信仰される若杉山(山頂は福岡県糟屋郡篠栗町)は、伊邪那美命が鎮まる飯盛山から約75度(寅と卯の境)の方角にあり、その間のラインは福岡平野最大の前方後円墳の上の那珂八幡宮や37代斉明天皇・38代天智天皇の時代の「娜大津の長津」や「長津宮」付近と思われる高宮八幡宮を通過します。


博多阪急屋上から望む若杉山(中央の標高が最も高い山)には伊邪那岐命が鎮まる(2024年4月18日)


福岡平野最大の前方後円墳(被葬者は3世紀中葉の首長)の上に御鎮座の那珂八幡宮(2023年9月9日)



「娜大津の長津」や「長津宮」の場所について諸説ありますが、それは「龍神考」の主題から逸れますので、今は西鉄高宮駅の南で若久川から新川が分岐する辺りが「長津」という港の中心だった可能性がある点だけ指摘しておきます。



筑前二等辺三角形


 以上を前提に「龍神考(32) ー立花山と比叡山に見る三輪の金光ー」で気づいた、福岡市中心部がほぼすっぽり入る仮称「福岡二等辺三角形」に話を進めたいと思います。

 なぜならそれは、日本や古代中国の「龍神」に共通する本質的側面に迫ることを可能にするからです。


 その前に「龍神考(32)」の中で訂正があります。

 この「福岡二等辺三角形」を構成する若杉山の所在する町名を「糟屋郡須恵町」としていましたが、山頂は「糟屋郡篠栗町」でした。

「若杉山」が校歌に出てくる須恵町の小学校に通っていた私には、若杉山=須恵町の山という感覚が強く、前回も若杉山は「須恵町」とつい書いてしまっていましたが、山頂は北隣の篠栗町の町域に入っています。

 本稿では、「福岡二等辺三角形」の一つの頂点の意味合いで若杉山の名を出していますので、若杉山の山頂は篠栗町であることを強調しておきます。

 また前回気づいたこの二等辺三角形を「福岡二等辺三角形」と呼んできましたが、「筑前二等辺三角形」と改めた方がより適切にも思われます。


 では、福岡市の中心部を囲む「筑前二等辺三角形」を整理しておきましょう。

ア)「筑前二等辺三角形」を構成する三つの山の山頂:
①飯盛山(伊邪那美命:福岡市西区)
②若杉山(伊邪那岐命:糟屋郡篠栗町)
③立花山=二神山(伊邪那岐命と伊邪那美命:糟屋郡新宮町)

イ)①飯盛山〜②若杉山→那珂八幡宮(福岡平野最大前方後円墳)、「長津宮」付近の高宮八幡宮を通過

ウ)①飯盛山〜③立花山=二神山→「遠の朝廷」の門戸=「荒津の崎」を通過、①は裏鬼門、③は表鬼門



「飯盛山〜立花山ライン」が通過する「荒津の崎」は遣唐使船や遣新羅使船、その他大型船舶が出入港する場所で、対外交流の出入口。

「長津宮」は天智天皇の行宮ですが、「津」の意味は「港」ですので、「長津」は「那津(なのつ)」の言霊を念頭に置いた上で、文字通り全体的に「長い港」の形を表現する地名だったと想像されます。

 ここは以前何度か言及した「博多古図」では「四十川」(現在の新川)の一部で、大宰府に左遷された菅原道真公が船から上陸したと云う「容見天神」は「四十川」の近くにあります。

福岡市の大博通りに設置の「博多古図」を加工(長方形=四十川、楕円形=容見天神、星形=荒津の崎)



「四十川」にあった「長津」という港は「博多古図」から想像するに、「袖の港」(図の中央左上下の街路が整備された「博多浜」と「沖ノ浜」の間)ができる前は、荒津(図の右下星印)に到着した大型船舶から積荷を小分けにした小型船舶が出入りする港であった可能性があります。

 つまり荒津は外海に面した大きな港長津は「四十川」の河口沿いに長く延びる小さな港、と対比することができます。

 そうすると、「荒津」と「長津」大小二つの港を「筑前二等辺三角形」の飯盛山〜立花山=二神山と飯盛山〜若杉山の二辺が守護する形が見えてきます。

「飯盛山〜若杉山ライン」は日本の国土と数多の神々をお生みになり、古事記では「二霊群品の祖」と讃えられる伊邪那岐命と伊邪那美命の二神によって形成され、物資が陸路から小船による水路輸送、逆に小船による水路輸送から陸路輸送に切り替わる河口沿いに長く延びる「長津」を守護していたと想像されます。

 そして前述のように、福岡平野最大の前方後円墳(3世紀中葉に築造、被葬者は福岡平野の首長説が有力)の上に築かれた那珂八幡宮と、「長津宮」付近に天智天皇によって奉祀されたと伝わる高宮八幡宮を通過する…これだけでも(他にもある複数の重要通過地点は割愛)、このラインの重要性が窺えるでしょう。


 他方、小型船舶による輸送と大型船舶による輸送との切り替えポイントであり、外洋の出入口「荒津」は、伊邪那美命単独の飯盛山と伊邪那岐・伊邪那美の二神が一緒に鎮まる立花山=二神山との一層強力な形のラインで守護されています。

「一層強力な形」と言うのは、「裏鬼門〜表鬼門ライン」だからでもあります。


 こうして「筑前二等辺三角形」の二等辺は交易・軍事の拠点を守護している、とも言うことができます。

 歴史的に交易と軍事は表裏一体であり、それは海賊の生業が交易と戦争であり、軍事行動の背景には経済権益の争いがあるのは昔も今も変わらないからです。


 さて飯盛山を基点にすると、真北を0度とした場合の若杉山は約75度=真東から約15度北寄り(寅と卯の境)、立花山=二神山は約45度(丑と寅の境)の方角。

 つまり飯盛山から立花山(二神山)と若杉山に二手に延びる二等辺三角形の二辺がなす角度は約30度であり、寅の方位をカバーしている形になります。


「市」と「国防」と「皇統護持」の宗像三女神


 飯盛山が基点の筑前二等辺三角形が寅の方位をカバーしていることが分かると、今度は丑の方位も気になってきますが、そこでピンときたのが、皇統護持と国防の美しくも強力な三柱の女神が鎮まる宗像地方。

 宗像大社は宗像市田島の辺津宮(へつぐう)=市杵島姫(いちきしまひめ)命、離島大島の中津宮(なかつぐう)=湍津姫(たぎつひめ)命、沖ノ島の沖津宮(おきつぐう)=田心姫(たごりひめ)命の三つのお宮から構成されます。

 宗像大社の概要については、以下に公式ホームページと辺津宮の地図、中津宮がある大島の地図、沖津宮のある沖ノ島の地図へのリンクを貼っておきます(沖ノ島の地図のリンクには「大島」とありますが、沖ノ島が表示されます)。



 伊邪那美命が鎮まる飯盛山山頂から辺津宮本殿、大島の御嶽山頂、沖ノ島の西端にそれぞれ直線を延ばすと、それら三本の直線の方角は、約31度(丑のほぼ中央)、約16度(子・丑のほぼ境)、約347度(亥・子のほぼ境)

 しかも子・丑の境に延びる「飯盛山〜大島御嶽ライン」を延長すると大島北岸の沖津宮遥拝所の境内に到達。

 沖津宮遥拝所がまさにこの場所に設けられた理由の一端が窺えそうですが、このラインは飯盛山と大島だけでなく、沖ノ島を結ぶ意味合いもあるのでしょう。

 ちなみに、前述の宗像大社の三つのお宮に鎮まる神々について、手元にある岩波文庫『日本書紀(一)』の64〜73頁をみると、三女神のうちの田心姫と市杵島姫の御鎮座地は離島の沖ノ島、大島、本土の田島いずれの可能性、湍津姫は大島と田島の2箇所に御鎮座の可能性があります。

 ということは、飯盛山から宗像市大島の御嶽と沖津宮遥拝所に延びるラインは、伊邪那美命と「市場」との関係を示す市杵島姫命を含む宗像三女神すべての神助に与るラインと見做すこともできるでしょう。


 さて、「飯盛山〜辺津宮ライン」だけ二つの方位の境界ではなく、一つの方位=丑の中央に延びますが、途中で福岡市西区の愛宕山を通過するのが意味深長です。




 火産霊神=愛宕大神は、伊邪那美命が伊邪那岐命と男女の営み(みとのまぐはひ)でお産みになった最後の神(火の神)で、病死のきっかけとなった神。

 しかし、愛宕山は江戸時代に愛宕大神と伊邪那美命が祀られる前は、伊邪那岐命と天忍穂命が鎮まる鷲尾山と呼ばれていました。

 ということは、「飯盛山〜愛宕山(鷲尾山)〜宗像大社辺津宮ライン」とは、愛宕大神を軸として伊邪那美〜伊邪那岐と天忍穂耳〜市杵島姫が連なるラインであり、それは伊邪那美〜伊邪那岐の妹兄天忍穂耳〜市杵島姫の弟姉が、愛宕大神を軸に一対の関係にあることを暗示するものです。

 愛宕山と宗像との深い関係は、愛宕山の麓に宗像との地縁を背景に勧請されたと御由緒にある岩窟弁財天の存在にも窺え、これも「飯盛山〜愛宕山(愛宕山)〜宗像辺津宮ライン」の信仰思想上の有効性を暗示するものです。


福岡市の室見川にかかる愛宕大橋から望む愛宕山(写真の右端)と飯盛山(中央左手の円錐形の山)


宗像大神有縁の地として福岡市西区の愛宕山(=鷲尾山)の麓に勧請された岩窟弁財天社(2024年4月17日)



 こうしてみると、鷲尾山(伊邪那岐命、天忍穂耳命)に伊邪那美命と愛宕大神とが合祀されて愛宕山となった背景に、伊邪那岐命・伊邪那美命の二神が一緒に鎮まる立花山=艮(丑・寅の境)との関係が意識されていた可能性も窺えます。

 なぜなら、立花山の福岡市側の登山口付近に鷲尾権現社があるからです(御由緒などの情報は現地になく未調査)。

 これまでの考察を経て、伊邪那岐・伊邪那美の二神が一緒に鎮まる立花山に鷲尾権現社があることと、伊邪那岐命が鎮まる鷲尾山に伊邪那美命も合祀されたことで愛宕山に改称されたことには強い関連性があるように思われます。


 以上から、飯盛山と「市場」や「交易」の関係を暗示する宗像三女神とを結ぶ「飯盛山〜大島御嶽ライン」は子と丑の境に延び、交易拠点でもある「荒津の崎」を通る艮の「飯盛山〜立花山(二神山)ライン」とともに丑の方位をカバーしていることが見えてきます。


 鬼門の範囲について諸説ありますが、仮に丑と寅の範囲すべてとすれば、飯盛山から大島御嶽(子・丑の境)、立花山=二神山(丑・寅の境)、若杉山(寅・卯の境)に延びる三つのラインは丑・寅の全体をカバーしている形になります。


 しかもそれらはすべて市場や交易に関係していることも見えてきましたが、交易を通して入ってくるものは必ずしも「良いもの」とは限らず、良さそうに見えても実は「悪いもの」も入ってきます。

「市」や「交易」のこのような両面性が、「市」との関係を暗示する市杵島姫命を含む宗像三女神が「国防の神」「皇統護持」の神と信仰される背景にあるように思われます。

 そういう「市」や「交易」に潜む「悪鬼」を防ぐ意味も、交易拠点「荒津の崎」の裏鬼門である飯盛山(伊邪那美命)を起点にして表鬼門の若杉山や二神山(立花山)に延びるライン、丑の方位の鷲尾山(愛宕山)を通過して宗像大社の辺津宮に達するライン、宗像三女神すべての存在が感得されてきた子・丑の境の宗像大島と繋がるラインにあると感じられます。


龍の原型を求めて


 最後の「飯盛山〜大島御嶽ライン」でさらに注目されるのは、人皇初代神武天皇の御祖母=豊玉毘賣命という龍女が鎮まる、糟屋郡新宮町の相島の東の岬の根元の部分(積石塚群付近)を通過する点です。



 また江戸時代になってからのことですが、相島は朝鮮通信使の寄港地にもなり、対外交流にはプラス、マイナスの両面もあることを思うと、飯盛山から宗像の大島御嶽(「市」と「国防」と「皇統護持」の宗像大神)に延びるラインが相島を通過するのは意味深長です。

飯盛山〜宗像大島(右奥の島)ラインは相島の右(東)の岬の根元を通過(今年1月/福岡市の三苫海岸より)


 この「飯盛山〜宗像大島ライン」の相島通過部分の辺りは、夕陽スポットとしてもよく宣伝されている福津市の宮地嶽神社の表参道の延長線が交わる部分でもありますが、同社も「商売繁盛」の御神徳が最も有名です。


 さらにこの相島を通過する部分から立花山に延ばした直線は、相島と新宮町本土を結ぶ町営渡船の乗船場を経て、新宮町夜臼地区の産土神である高松神社(市場を主宰する神大市姫命)が御鎮座の丘のすぐ下を通過します。

 このように、飯盛山から宗像大島御嶽、立花山=二神山、若杉山に延びるラインはどれも、「交易」、「市場」、「商売」、「軍事」と関係があり、それらを守護していること、さらに「商売の神」宮地嶽神社龍女豊玉毘賣が鎮まる相島を介して「市場を主宰する」神大市姫命も関係していることが見えてきました。

神代から市場を主宰する神大市姫命を祀るという新宮町夜臼地区の高松神社と立花山の白岳(右奥)


 龍が「交易」、「市場」、「商売」と関係が深いことは、福岡市博多区の人魚の骨を祀る浄土宗冷泉山龍宮寺ではかつて境内の荒神堂で毎月28日(三宝荒神縁日)に市が開かれ、人魚の骨を入れたタライの水を飲んで「商売繁盛」と「延命長寿」を祈る風習があったとことにも窺えます。

かつては毎月28日に市を開き、人魚の骨を入れたタライの水を飲んで商売繁盛を祈った龍宮寺荒神堂


 龍神信仰のこの本質的側面は、「龍神考」を始めるきっかけとなった龍の形象からも推察できます。

 古代中国で龍の頭はラクダで、腹は蜃(みずち)だとイメージされたことの意味を考えてみましたが、ラクダは「砂漠の船」とも呼ばれるように、古くから砂漠地帯での交易に必要不可欠な存在でした。

 砂漠が農耕に不適であることも考えると、砂漠地帯に住む人々にとってラクダの存在意義は強調しすぎることはありません。

 また蜃(みずち)は龍そのものとする説や、大きなハマグリとする説があります。

 そして蜃=ハマグリ説に立って、ハマグリについて調べてみると、ハマグリも「市場」や「交易」と関係が深いことに気づかされました。

 ハマグリと「市場」や「交易」との関係について詳細は「龍神考(8) ー蜃ー」をお読みいただくとして、ここにその要点をいくつか列記しておきます。

・大顛法師半偈一行が旅中で立ち寄った賑やかな市街は実は蜃気楼で、同一行は気づいたらハマグリの中にいた(中国の清代小説『後最遊記』の一部内容)

・「蜃気楼」は大蛤が海上に吐く気が楼閣や城市の形をなしたもので「海市」とも云う(江戸時代の絵師、鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』の記述)

・春の季語、「海市」、「山市」、「蜃市」、「竜宮城」などの異称があり、吉祥の意味あり(ウィキペディアの「蜃気楼」の記事)

 以上から「龍」≒「蜃」≒「ハマグリ」≒「市場」「交易」とした上で、飯盛山と宗像市の大島御嶽、新宮町の立花山、篠栗町の若杉山を結ぶ三つのラインすべてが「市場」や「交易」と関係し、守護している様相が認められることは、この三つのラインのいずれについても龍神信仰の観点から見つめ直す必要性を感じます。


 古代中国において「龍」は「あらゆる動物の祖」と考えられていたことにも触れましたが、飯盛山(伊邪那美命)、若杉山(伊邪那岐命)、立花山(伊邪那岐・伊邪那美の二神)の神々は「二霊群品の祖」とされ(古事記)、「飯盛山〜愛宕山〜宗像辺津宮(宗像三宮の総宮)ライン」の神々(伊邪那岐・伊邪那美の兄妹神、火神、宗像大神・天忍穂耳命の姉弟神)において天忍穂命は皇祖神の一柱(天照大御神のご長男にして「天孫」の父親)であり、火の使用は人類を他の動物と決定的に異なる存在にしたきっかけ

 飯盛山、若杉山、立花山、愛宕山、宗像辺津宮、宗像大島の神々は、「群品の祖」や「人類の始原」に関係する火神や「皇祖」、すなわち自然界を構成する動植物や人類、そして日本人と日本国家の始原に関係する神々なのです。

 若杉山やその周辺で伊邪那岐命は「太祖神」の神号で祀られているケースが散見されますが、伊邪那岐命も伊邪那美命も火産霊神も天忍穂耳命もさまざまな意味で「太祖」とも言えます。

 すなわち「太祖」であり、「市場」や「交易」の守護神であるこれらの神々は、それこそ古代中国でイメージされた「龍神」の本質的側面そのものです。


 しかしながら日本には古代中国の龍の頭に相当するラクダはいません。

 日本における一般的なイメージの龍は口が大きく開く爬虫類を思わせる濃緑の頭部を持ち、古くは「和邇(わに)」と呼ばれたように、実存動物ではワニの頭部が最も龍のイメージに近いです。

 しかしながらワニも日本には少なくとも現存はしません。

 そのため、「和邇」とは何かについて、文字通りワニとする説やサメとする説、また南洋語の「舟」の意味などの諸説が提示されてきたことが、ウィキペディアの「和邇」の記事にあります。


 ウィキペディアの「和邇」では、「和邇」=ワニ説については日本にワニが生息しないことが難点とされていることに言及されています。

 他方、古事記では海神の娘の豊玉毘賣が「匍匐委蛇(はひもこよふ)」「和邇」のお姿で天孫邇邇芸命の三男の山佐知毘古の御子を出産されたことが記されていますが、軟骨魚類のサメも「匍匐委蛇(はひもこよふ)」ように泳ぐことができるという興味深い説も紹介されています。

 また南洋のミクロネシア語の「ワ」やフィジー語の「ワニカ」は「舟」の意味、ポリネシア語系のハワイ語では大きな船を「ワアヌイ」と呼び、対馬でも大型船のことを「ワニ」と呼ぶため、「和邇」=舟説も有力説の一つとなっています。

 実際、地を這うように進むワニの身体を上から俯瞰すると、頭部から胴部にかけて次第に左右に広がり、胴部から尾部に向かって先細りしていくワニの身体は、上から俯瞰した船体を連想させます。

 舟は陸路が未整備な昔であればあるほど交易の手段としての意義は大きく、龍=「市場」「交易」の守護神という観点からも「和邇」=舟説は魅力的です。


 このように、「和邇」について先学たちが提唱してきた諸説は興味深いものの、いまだ定説を見ないのは、そもそも「和邇」をこれらのいずれかに限定すること自体無理があるからではないでしょうか?

「ワニ」、「サメ」、「船」などをミックスした仮想の存在が「和邇」であり、だからこそ「和邇」と謂う表記が創作されたのではないでしょうか?

 そのような捉え方のほうが、古代中国で「あらゆる動物の祖」の「龍」が九種の動物のハイブリッドとしてイメージされたことにも符合すると思いますが、いかがでしょうか?


匍匐ひ委蛇ふ龍の祖型


 ただ、海神の娘であり、龍女の豊玉毘賣が出産時に「和邇」の姿で「匍匐(は)ひ委蛇(もこよ)ひき」と描写されることは、「和邇」の特徴が「匍匐ひ委蛇ふ」点にあることを示唆しています。

 これは、龍=蜃=ハマグリ説にも適合します。

 下記リンク先のブログ『自然と暮らそう麦わら日和』の「絶滅危惧種?夫婦円満の象徴?『ハマグリ』の秘密」という記事によれば、ハマグリは1〜3mほどの紐のような細長い粘液を出して、それで潮流に乗ることで、貝類にしては毎分1mの「高速海中移動」ができるそうですが、このハマグリの粘液が潮流に乗る様もまた「匍匐ひ委蛇ふ」と表現できるでしょう。

 さらにこの記事には、縄文貝塚から出土する貝類の約8割がハマグリとあり、前述のハマグリと「市場」、「交易」との関係性や、「市場を主宰する」神大市姫が御祭神の高松神社が、夜臼式土器の出土で考古学的にも有名な夜臼貝塚の近くに「神代」から祀られているとされることも鑑みると、貝塚を「市場」や「交易」の拠点として見つめ直す必要性を感じます。



 こうしてみると、「匍匐ひ委蛇ふ」ことが「和邇」=「龍」の本質を表現しているのかもしれません。

 その海神=龍神の娘、龍女(豊玉毘賣)の本来のお姿「和邇」の本質的表現に唯一存在する実在生物が「蛇」


福岡市三苫の綿津見神社(豊玉姫ほか)の海岸を「匍匐委蛇(はひもこよふ)和邇」のような列石(今年1月)



 ヘビは頭部が少し膨らみ、首から尾まで太さに若干の変化はあるものの胴部から尾部まで細長い姿をし、水中を泳ぎ、足はなくとも地面を這い、岩や木を登り降りし、木から木へ飛び移り、地中に潜ることもできる「蛇の万能性」は、「あらゆる動物の祖」と観念された龍=「和邇」の特性として相応しいからでしょうか?

 また、ヘビの頭部が少し膨らむだけで細長い身体はオタマジャクシのような精子を連想させます。

 太古の人々が精子のオタマジャクシのような姿を知っていたかどうかは不明ですが、ヘビの頭部のような男根からの射精に、白蛇が飛び出す様を連想したことは十分考えられるでしょう。

 射精で飛び出る白い精液=「白蛇」は先祖から子孫へ継承される霊性の象徴でもあります。

 天孫の三男で天照大御神の曾孫の山佐知毘古の子種=霊性=白蛇を宿した龍女の豊玉毘賣命が、「あらゆる動物の祖=和邇」のお姿で、「匍匐ひ委蛇ひ」ながら、鵜葺草葺不合命(うがやふきあへずのみこと)をご出産になったとの神話も、白蛇に象徴される男系の霊性によって皇統が紡がれていくことを示しています。

 また鵜葺草葺不合命の「うがや」は老翁の頭と白蛇の体を持つ稲魂、穀霊の宇賀神を暗示する神号だと私も思いますが、これは広義の「天孫」=歴代天皇を稲魂とする信仰思想にも合致します。

 その宇賀神が翁頭白蛇の姿で表現されることはやはり、皇統は男系で紡がれるべきであることを示しています。



 すると、翁頭白蛇姿の宇賀神を連想させる鵜葺草葺不合命が人皇初代神武天皇の父とされることも至極当然だと納得できます。

「蛇は龍の子」とも云いますが、龍女豊玉毘賣が「あらゆる動物の祖=和邇」の姿で匍匐ひ委蛇ひ」ながらご出産の「白蛇」鵜葺草葺不合命は、龍女の妹の玉依毘賣に育てられ、後に玉依毘賣を娶り四柱の男神に恵まれます:長男=五瀬(いつせ)命、次男=稲氷(いなひ)命、三男=御毛沼(みけぬ)命、四男=若御毛沼(わかみけぬ)命=神倭伊波禮毘古(かむやまといはれびこ)命=神武天皇。

 この豊玉毘賣と玉依毘賣、五瀬命、稲氷命、御毛沼命、若御毛沼命には、古代の日本人の生物誌的な考え方が窺えます。

豊玉毘賣→海に生まれ育ち、出産以外は海に還る→魚類や海棲爬虫類
玉依毘賣→海に生まれ育ち、水辺の陸上で甥の養母、妃となる→半水棲爬虫類、両生類(特に魚や蛇のようなオタマジャクシから四肢を持つ姿に変わるカエル)
鵜葺草葺不合命→水辺に生まれた蛇→爬虫類
五瀬命→神武東征中に「雄誥(をたけび)=烏多鶏縻」する→鳥類
稲氷命→陸上で生まれ、「妣の国」=海原=玉依毘賣の故郷に行く→海棲哺乳類
御毛沼命→全身を濃い体毛で覆われた陸棲哺乳類
若御毛沼命→陸棲哺乳類と比べて体毛が薄く少ない人類


 自然崇拝の観点から日本神話を読み解いていく中で気づいたこれらの神々と生物種の対応関係は、文明地政学協会(東京)発行の雑誌『世界戦略情報 みち』(昨年12月15日付発行分をもって終刊)に寄稿していた連載記事「みょうがの旅」で、九年前に提示していたものです。

 今回はだいぶ長くなりましたので、日本神話にも「龍」が「あらゆる動物の祖」という思想があった点に少し触れるに留め、後日詳述することにします。

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