龍神考(32) ー立花山と比叡山に見る三輪の金光ー
立花山と中世日本の国土観
日本に天台宗を伝えられた伝教大師最澄が、唐から帰朝後最初に開かれたお寺と云う立華山明鏡院独鈷寺(とっこじ)と同寺がある立花山を巡る信仰思想が、「日本=独鈷」とする中世日本の国土観とことごとく合致することに、前回の「龍神考(31) ー天瓊矛と独鈷とシキミー」で気付かされました。
*独鈷(インドの武器に由来する法具=金剛杵の一種)については『文化遺産オンライン』の「独鈷杵」を参照
それらの点を、若干補足しながら、以下に箇条書きで列挙します:
1)伊邪那岐命と伊邪那美命が国生みの始めに用いられた「天瓊矛(あまのぬほこ)」=「独鈷」
2)伊邪那岐命と伊邪那美命がお生みの日本の国土=「独鈷」
3)伊邪那岐命と伊邪那美命の二神が鎮まる「二神山」(立花山の旧称)に「天瓊矛」=「独鈷」も内在
4)伊邪那岐命の禊祓でご誕生の太陽神天照大御神が鎮まる伊勢の神宮の内宮の社形=「独鈷」、豊受大神が鎮まる外宮の社形=「八葉蓮華」
5)伊勢の神宮の社殿の床下に立つ心の御柱=「独鈷」
6)「独鈷」=日本の国土=「五畿七道」のうちの「五畿」=「玉の国」、「七道」=「天照大神の国」
7)「天瓊矛」=「瓊+矛」(球形+細長いもの)→天照大御神の象徴=「勾玉」(円・球形+細長い形)→最澄が投擲して「二神山」の六所神社(天照大御神)近辺の大石の上に発見した「壇鏡と独鈷」(円形+細長い形)→最澄が岩に立てかけたシキミの杖から開花(花:円形+杖:細長い形)*「二神山」から「立花山」へ改称のきっかけ
8)「タチバナ」=「橘」(シキミと似た花弁、永遠性の象徴)→神代の「天瓊矛」の霊威を最澄の「独鈷+壇鏡」と「シキミの杖+開花」が継承→天台の教えが日本に根付き永遠に「香りを放つ」(普及、継承)ことの暗示
9)「天瓊矛」が投げ下ろされた日本の海底にある大日如来の印文(守護のシンボル)=「独鈷」→天照大御神=大日如来のシンボル=「独鈷」
10)独鈷寺大日堂(農作物守護)+シキミ(春に陽光のように開花)+庚申塔(猿田彦神)→春に降臨の天孫(太陽神の御孫、春日、稲魂)+案内役の雷神猿田彦神→「天孫降臨」=「竜」→「立花山」への改称、「立華山明鏡院独鈷寺」開創、農業用溜池「竜化池(りゅうげいけ)」の造成
最後の点についてさらに補足しておきましょう。
奈良の春日大社の勅祭「春日祭」(別名「申祭」)が旧暦二月申の日(春分やその近く)に行なわれていたことから、「春日」=「天孫(太陽神の御孫で若い春の日)」、「申」=「雷神(天孫降臨に協力した武甕槌命や猿田彦神)」と捉え、「春日祭=申祭」は天孫降臨に関係する祭事であり、「雷」=空中を走る「電気」=「竜(落雷の意味あり)」であることから、雷神武甕槌命の地均しと雷神猿田彦が示す雷光に沿った「天孫=春日」の降臨は「竜」の一字に表現される、と結論しました。
*「龍神考(30) ー「竜」が現生する日本ー」参照
よって、立華山明鏡院独鈷寺の西向きに立つ大日堂に参拝すると、春分の日の出の方に向かうことになり、その隣には大日如来=天照大御神=独鈷に通じるシキミ(「立花山」へ改称のきっかけ)も生えており、「天孫(=春日)降臨」=「竜」に協力された猿田彦神と同一視される庚申尊天の石塔も立っていることに、意味深長なものを感じた次第です。
そして江戸時代に、この信仰思想を継承し、発展させるように「竜化池」が造成されます。
「天孫」は「稲魂」でもあり、雷神猿田彦神の示す雷光に沿って降臨なさる様は、「落雷」の意味もある「竜」と「天孫=稲魂」との一体化、すなわり「竜化」とも表現できます。
「竜化(りゅうげ)池」は「立花」や「立華」も「りゅうげ」と読み得ることを念頭に置いた名称であり、竜化池が農業用溜池として造成された歴史も「天孫=稲魂」の降臨や「竜」=「落雷」が農耕に大切な降雨をもたらすことの信仰思想に基づいていることが窺えます。
立花山と三輪の金光
今回はさらに、「天瓊矛」が投擲された日本の海底の大日如来の印文は「独鈷」→天照大御神の本地仏=大日如来の印文(守護のシンボル)は「独鈷」とする、中世日本の国土観についても見ていきましょう。
黒田日出男著『龍の棲む日本』(岩波新書、2003年)にはこの点について、大日如来の印文は「独鈷」であり、「三輪の金光」でもあることが、『渓嵐拾葉集』を典拠に紹介されています(45頁)。
天台宗の総本山は比叡山延暦寺で、その鎮守は日吉大社(東本宮=大山咋神、西本宮=大己貴神)。
大己貴神は大国主命の別名で、少彦名命と国作りに励まれますが、身体が非常に小さい少彦名命は国作りに奔走中に飛び乗った粟の穂に弾かれて行方不明に……
古事記によると、国作りの協力者を失った大国主命は悲嘆に暮れますが、そこへ海原を照らしつつやってくる神があり、その名は大物主神。
大物主神は落胆する大国主命に対して、御諸山(みもろのやま)=三輪山の山頂に祀られることを条件に協力を約束されますが、日本書紀によるとこの神は大国主命=大己貴神の幸魂奇魂(さきみたま・くしみたま)、つまり大国主命=大己貴神の中に元々内在する神格なのです。
大国主命には他にも多くの神号があり、それは大国主命の御神徳の豊かな多面性を暗示するものですが、ここではそれらの考察は避け、立花山との関係に焦点を絞っていくことにします。
実は立花山は、この大物主神が鎮まる奈良の三輪山にも見立てられてきました。
立花山の麓の福岡市東区高見台に御鎮座の大神神社は、神功皇后の新羅親征のために大和国から集まった三輪一族が、立花山の山麓が故郷の三輪の風景に似ていると感じたことから、三輪山の大神神社が勧請されたと伝えられています。
そして福岡市東区和白丘にもう一つの大神神社があり、やはり神功皇后の新羅親征のために当地へ来た大和の将兵が勧請して、渡航無事を祈願したと伝わります。
前者が上和白大神神社、後者が下和白大神神社で一対の関係にあります。
ちなみに、大神神社勧請の動機として大和国の将兵の渡航無事を祈願したことが明記された下和白大神神社では、第二次大戦で出征した下和白の大神神社の氏子は全員生還したことを、何年前のことか忘れましたが、たまたま参拝中に境内に居合わせた関係者の方から聞いた覚えがあります。
上和白大神神社は立花山の山頂から見て北西側の丘陵、下和白大神神社はその丘陵が尽きる辺りに位置しています。
上和白大神神社から立花山を仰ぐと、大小二つの峰からなる山に見えます。
ところが下和白大神神社の現在の境内からは、周囲にマンションが立ち並び、立花山を拝むことはできませんが、その近辺から南東を望むと、立花山の七つあるうちの三つの峰が、まるで標高が同じであるかのように綺麗に並んで見えます。
この三つの峰が高さも美しく調和して見える場所があります。
それは福岡市東区の美和台。今は住宅が立ち並んでいますが、昔は山でした。
その尾根筋の一つだったような「美和台」と「和白丘」の境界は、三峰が美しく調和して見える立花山の山頂から昇る初日の出スポットでもあります。
この三つの峰は上の写真で言えば、左が松尾岳、中央が主峰の井楼(せいろう)山、右が白岳。
立花山を三輪山に見立てた理由は、大和国の三輪山に見た目が似ているからではなく、立花山の三峰が調和した山容が、「三輪」の言霊と字霊を大和国の将兵らの心に喚起したからではないかと思います。
福岡市東区美和台や下和白大神神社から「三輪山」を言霊と字霊で思い出させる立花山に近づいていくと、上和白大神神社に着きます。
上和白大神神社の境内からは右手に「大峰」、左手に「小峰」が並んだ二峰の山に見え、しかも下和白より山に接近している分、山頂をより高く望み見る形になります(それが「高見台」の地名の由来かどうかは未調査)。
下和白大神神社付近からは三峰に見えたのが、上和白大神神社付近からは井楼山の手前に白岳が重なることで二峰に見えますが、これは立花山が「二神山」と呼ばれていたことと関係しているのでしょう。
ただし「二神山」は新宮町から望む立花山の山容から生まれた山名のはずです。
福岡市東区から北隣の新宮町に入ると、立花山の松尾岳、井楼山(主峰)、白岳の三つの峰のうち、松尾岳が井楼山の手前に重なり、全体では二峰の山に見えます。
逆に、新宮町から福岡市東区和白丘の下和白大神神社に近づくと、立花山の山容は新宮町での二峰から三峰に変わり、しかしさらに南下すると同じ和白丘でも再び二峰に見えるようになり、もっと南下して香椎に近づくとまた三峰に見えるようになる…、といった具合に一定しないからです。
こうした見え方からして、立花山を「二神山」と名付ける発想は、今の新宮町の町域に住んでいた大昔の人々の中に生まれたものだと推察するのが自然です。
ちなみに、香椎に近づくとニ峰から再び三峰に見えるようになりますが、ここでは松尾岳と白岳に対して主峰の井楼山だけ標高が高く見え、三つの峰の標高が同じに見える下和白から望む山容とは異なります。
したがって、立花山を三つの峰が美しく調和して見える「美和山」=「三輪山」に見立てることができるのは下和白だけであり、ここが大神神社勧請の動機が生まれた場所だと推定できます。
以上から、福岡市東区の二つの大神神社が勧請された経緯を次のように想像することができます。
①今の新宮町の西側相当地域では昔から立花山を「二神山」と信仰
②下和白大神神社付近(現在の福岡市東区美和台・和白丘)から「三峰が美しく調和して見える」立花山を言霊と字霊を通して「三輪山」に見立てる
③大和国の大神神社勧請に際し、「二神山」の言霊と字霊を継承するため、まずは立花山が「二峰に見える」北西の丘陵の高見台に上和白大神神社を創建
④最後に大神神社勧請の動機となった「三峰が調和して見える」和白丘(北西丘陵が尽きる場所)に下和白大神神社を創建
大和国の大神神社では三輪山が御神体である以上、上和白も下和白も大神神社は「三輪山」に見立てた「立花山=二神山」から北西に続く同一の丘陵帯に創建されねばならなかったことも窺えます。
こうして見ると、神代から「二神山」と呼ばれていた立花山に最澄が投げられた壇鏡と独鈷が落下し天台宗伝教の第一歩となった背景には、「二神山」が神功皇后の時代に「三輪山」に見立てられ、大和国の大神神社から大物主神(比叡山の麓の日吉大社の大己貴神=大国主命の幸魂・奇魂でもある)が勧請された歴史への意識があったと考えられます。
鬼門守護の立花山と比叡山
立花山と比叡山には他にも共通性があります。
比叡山は京都の中心部である昔の平安京の北東、表鬼門に位置しますが、立花山も福岡、昔の筑前国の中心部である博多区や中央区、南区などから見て表鬼門の丑や寅の方位に位置します。
ここで冒頭に列挙した中世日本の国土観の中の10)天瓊矛が投げ下ろされた日本の海底の大日如来の印文(=三輪の金光)も独鈷、を思い出すと、次の対応関係に気付かされます。
◯日本の海底に投げ下ろされた天瓊矛(瓊=球+矛)の到達地点に大日如来の印文→大日如来の印文=独鈷→三輪の金光
●最澄が投げ、伊邪那岐・伊邪那美の二神と天瓊矛がある「二神山」に光を放って飛んだ壇鏡+独鈷の到達地点付近に六所神社(天照大御神=大日如来)→天照大御神=大日如来の印文=独鈷→「三輪山」に見立てられる「二神山」に輝く金光
このように整理すると、立花山を巡る信仰思想には中世の「日本=独鈷」とする国土観が濃厚に凝縮されていることが一層明らかになってきます。
マクロの「日本=独鈷」に対して、ミクロの「立花山=独鈷」と観念することもできるでしょう。
『龍の棲む日本』には日本列島(本州+四国+九州)が巨大な龍によって囲繞されている絵図が掲載され、龍に囲繞された国土には無数の龍穴が龍脈によって結ばれていたことが強調されています。
ならば、巨龍に囲まれた「日本=独鈷」もまた龍だということになります。
そうしてみると、福岡市の中心部の一角にある博多阪急の屋上から丑〜寅の方位に立花山の白岳〜松尾岳〜井楼山と残る四つの峰々が独鈷=龍体と感得され、またその手前の南隣に低く細長く延びる三日月山や城ノ越山の連なりとも併せて、大地に臥す龍の姿に想像されたようにも思われます。
つまり、このような形で福岡の中心部の表鬼門に位置する立花山に、京都中心部の表鬼門を守る比叡山と相通じる霊威が感得されたのではないでしょうか?
吉神も凶神も門や玄関から入ってくると考えられているようなことを比較的最近になって知りましたが、ならば鬼門は、守護されるべき建物や施設の玄関や敷地の入口から45度の方角を中心とする艮=丑寅の方位なのでしょう。
これを踏まえて京都の平安京の南端の入口だった羅城門跡(東寺の西の唐橋花園公園)と比叡山の山頂(大比叡)を直線で結ぶと約50度の傾きとなり、確かに比叡山は平安京の南端の入口から表鬼門に位置します。
また羅城門跡と日吉大社の西本宮(大己貴神)を結ぶ直線は約45度の方角=丑と寅の境界=艮に延びます。
では平安京の羅城門に相当するような場所は筑前ではどこになるのでしょうか?
そこでしばらく地図を眺めてみますと、筑前国においてそれに相応しい場所は「荒津の崎」(現在の福岡市西公園)ではないかと目星をつけました。
遣唐使船や遣新羅使船はこの「荒津の崎」から出航していました。
遣唐使や遣新羅使とは国家を代表する使節ですので、実際がどうだったかはまだ調べていませんが、朝廷がある平安京では使節団は羅城門から出入りをし、「遠の朝廷」=大宰府と外交施設の鴻臚館がある筑前では「荒津の崎」から出入港すべきものと考えられていたと想像できます。
鴻臚館は「荒津の崎」の南方、現在の舞鶴公園(福岡城址)辺りにありました。
大宰府ができるまでは鴻臚館が行政機能も果たす「遠の朝廷」であり、大宰府の設置後も、外国使節の接遇や出入国管理の機能は保持し、大宰府の外交施設として存続していました。
つまり朝廷がある平城京や平安京に対して、鴻臚館は「遠の朝廷」だったのであり、大宰府設置後は「遠の朝廷」の門戸でした。
そして「遠の朝廷の門戸の最も外側の門戸」が「荒津」という港だったのです。
ただし平安京の南端の羅城門に対し、「荒津」は「遠の朝廷」の北端に位置するという、「朝廷」と「遠の朝廷」の正門が南北逆転する対称性は、信仰思想的にはむしろ意味深長です。
このような「荒津」(今の西公園)の北辺には、「荒津の崎」についての説明板があり、そこから45度の方角、丑寅の境の方位に立花山の山頂が位置していることに今回の記事を執筆中に気づきました。
このように、平安京の門戸=羅城門趾と比叡山山頂、「遠の朝廷」の門戸=荒津と立花山山頂とを結ぶ二つの直線がともに表鬼門=艮の方位に延びるのです。
こうしてみると、平安京の表鬼門である比叡山に天台宗総本山延暦寺を開くことになる最澄が、「遠の朝廷」の表鬼門である立花山(当初は二神山)に天台宗最初の独鈷寺を開いたこと、あるいは開いたとする伝説が生まれたことには、信仰思想上の論理的整合性がはっきり認められます。
「二神山=立花山」は筑前だけでなく日本全体の最重要の門戸だった「荒津の崎」の表鬼門の守護する役割を担ってきたと認識できた今、筑前国で最も重要な城が、江戸時代の福岡城(今の福岡市中央区舞鶴公園で鴻臚館跡付近)の前は名島城(福岡市東区名島)、その前は「天瓊矛」=「心の御柱」=「独鈷」=「大日如来の印文」=「三輪の金光」が存在する立花山の山頂に築かれた立花城だったことにも改めて納得できました。
先ほど博多阪急から望む立花山とそれに続く三日月山や城ノ越山を「臥龍」にも見立てましたが、名島城址公園にも「臥龍桜」という、大地に臥した龍の頭を連想させる桜があることも意味深長に思われてきました(ただし、かつて「臥龍桜」の由来を福岡市に問い合わせたところ、資料がなく不明との回答でした)。
立花山(=二神山)と比叡山の大比叡・小比叡
ところで立花山山頂から「荒津の崎」の説明板のある西公園の北西辺に延ばした直線をさらに南西に延ばすと、福岡市西区の飯盛山の山頂に至ります。
飯盛山は伊邪那美命が鎮まる山と信仰されてきました。
それに対して、伊邪那岐命が鎮まるのは糟屋郡須恵町の若杉山とされています。
ここで立花山=二神山(伊邪那岐命と伊邪那美命)と飯盛山(伊邪那美命)と若杉山(伊邪那岐命)の山頂を直線で結ぶと、二神山(立花山)〜飯盛山=約23.4kmと飯盛山〜若杉山=23.8kmの距離がほぼ等しい二等辺三角形が形成され(若杉山〜二神山(立花山)=約11.5km )、この二等辺三角形の中に福岡市の主要部分がほぼすっぽり入ります。
そしてこの三つの山で伊邪那岐命と伊邪那美命の二神が一緒に鎮まるのは唯一、二神山=立花山だけです。
立花山(二神山)〜飯盛山〜若杉山の二等辺三角形は、特に飯盛山〜若杉山の直線が那珂八幡宮(福岡平野最大の前方後円墳)や37代斉明天皇・38代天智天皇の時代の「長津」付近と思われる高宮八幡宮を通過することや、「荒津」と「長津」との対応関係など、非常に意味深長な要素がいくつもありますが、今回は立花山と比叡山の信仰思想上の相似性に焦点を絞りましょう。
「二神山」としての立花山は前掲写真のように松尾岳と主峰の井楼山が重なった「大きな峰」と白岳単独の「小さな峰」の二峰に見えます。
比叡山では山頂=大比叡に対して八王子山が「牛尾山」や「小比叡峰」の別名もあり、西本宮=大己貴神=大比叡神、東本宮=牛尾宮の大山咋神=小比叡神とされ二神が中心的に祀られる霊山です。
つまり比叡山も大比叡・小比叡の二神に代表される「二神山」と言っても良いでしょう。
このように比叡山と立花山には様々な点で対応関係が認められるのです。
以上、立花山に最澄が独鈷寺を開かれた、または開かれたとする伝説が生まれた背景を探ってみると、最澄による独鈷寺開創は本当に「事実無根の伝説」なのか?という疑問も湧いてきます。
「事実無根の伝説」を作り上げるのに、思い付きだけで比叡山と立花山にこれだけの対応関係を揃えるのはかなり難しいと思いますが、いかがでしょうか?
少なくとも今回の考察によって、立花山と比叡山には信仰思想上の多くの共通性が認められ、独鈷寺開創が仮に「伝説」だとしても、その「伝説」が生まれた背景には神代の伊邪那岐・伊邪那美の二神への信仰から古代の三輪信仰、後の鬼門信仰などが地層のように折り重なっていることに気づきました。
そしてこれら神代から中世にかけて折り重なってきた信仰の地層を貫くものが、「天瓊矛」=「心の御柱」=「独鈷」=「大日の印文」=「三輪の金光」であり、それは人間界で喩えれば、神武天皇以来の男系による皇位継承、すなわち広義の「天孫降臨」であり、一字で表現すれば「竜」であることに想い到った次第です。