日記:2017年12月20日 待ち合わせは神社で
神社の鳥居で待ち合わせだった。
カンカンカン、ジジジという音が広々とした空間に響いていた。鳥居の向こうには、おそらく初詣のための何かが組み立てられており、人々がせわしなく動いているのが見えた。日差しは明るくやわらかかったけれど、空気はぴんとはりつめていた。一年の終わりの気配が、いたるところにあった。
待ち合わせの一時まであと十五分。
参拝をして絵馬を眺めた。日々のささいな幸せを願うものもあれば深刻なものもあり、アイドルのライブチケットあたりますように、とかもあった。
やがてビルの窓を望遠鏡でひとつひとつ覗き見しているような、すこしうしろめたい気持ちになってきたので、ひっそりとその場を離れる。あぶないあぶない、人の物語を盗むところだった。
反対側に歩いて行くと、大きな魚の銅像がある。撫でると願いごとが叶うとのこと。心に願いごとを定めたものの、いざ手をかざしたら、もう、うまく願えなかった。よこしまな欲の分量が多すぎる気がする。もう一度。
脇のテーブルに目をやると、人のかたちに切り取られた和紙が数枚重ねられているのを見つけた。「大祓人形」(おおはらいひとがた)と書いてあった。説明通りに名前と生年月日を書き込み、その紙で全身を撫でたあと息を三回吹きかける。
…ふーっ。
さて、どうやら、きみは、私の分身となったようだよ。人形の紙を箱にしまい、お賽銭を投げた。さようなら、私の分身。悪いものを引き受けてくれてありがとう。
ときどき儀式の中に存在する、ほんの僅かな自分の一部をあの世へ送るような行為。いずれ避けることのできない死というものを、すこしずつ受け入れる準備をしているような気が私はする。あるいは、そのぶんだけ鮮烈に生の意味を受け取っているような。
人形に滑り込ませられない心もある。それは、最後まで持っていると決めたこと。欲なのか罪なのか、何なのかわからないそのわだかまりを、あまり素敵なものじゃないかもしれないけれど、しつこく見つめていく。
光にあててきらめく面を見つけるまで、あきらめない。もしかしたらそれが、私にとっての生の意味なのかなと思う。自分の物語を、ふみしめて生きること。(ちょっと思いつめすぎかもしれないけど、たぶんこれが私なんだろう)
清らかに気持ちよく歩きながら、ふと思った。あれ、これって年末にするべきことだっけ。ていうか、世の中はいま、まずはクリスマスに向かっているのではないだろうか。
私は箱の中のひとりぼっちの人形のことを想った。ちょっと、早かったのかなー。まあいいや、先頭だろうと最後尾だろうと、やるべきことに変わりはないし。
時間まであと数分。待っているだなんて感じられない、待ち時間。
あっという間に流れて行く師走の時間の一点に、心地よく立ち止まっていた。
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いつも読んでくださってありがとうございます。神社で待ち合わせ、素敵ですね。
その方に、神社を待ち合わせに指定してくださったのはなぜか聞きたいと思っていたのに、ほかのお話が楽しすぎて、すっかり聞きそびれてしまいました。
この日はとても楽しく、刺激もいっぱいで、後々色濃く思い出すにちがいない、特別な一日でした。のちほどタイミングがきたら文章にしたいと思っています:)
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